夏休み特別企画:フェローが薦めるこの1冊'05

『ゲノム敗北』

児玉 文雄顔写真

児玉 文雄(ファカルティフェロー)

研究分野 主な関心領域:新産業創出過程と技術開発過程との複雑多岐にわたる相互作用の関係構造を科学的に解明するための分析を行っている。最近のIT革命の影響はこの相互作用の関係に大きな変化をもたらしている。そこでIT革命が創出する先端産業の創出戦略を立案するための基礎的な概念や知見を蓄積する研究を中心に行っている。

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『ゲノム敗北』岸 宣仁著 ダイヤモンド社(2004)

『ゲノム敗北』表紙 昨今、MOT(Management of Technology:技術経営)の専門職大学院が、社会人を対象にして、国立・私立、東京・地方を問わず、次々と設立されている。その教育内容は大学により千差万別である。MOTの黎明期においては、多様性を重んじる立場から内容が異なっているのは当然であり、後に続くべき進化プロセスへの発展を考えれば、むしろその多様性は望ましいことであるともいえよう。

しかし、MOT専門職大学院で唯一共通している普遍的な学習項目は、「技術戦略」の重要性に気づかせることであり、学生が納得した形でその重要性を認識することである。

『ゲノム敗北』というセンセーショナルなタイトルを冠した、ジャーナリストの岸宣仁氏による370ページにおよぶ力作は、米国のヒトゲノム計画が発足する以前の日本の研究者の独創的な発想と実績を調べたものである。そして、これらの輝かしい業績が、日本の科学者コミュニティと官僚機構により、どのようにして無視され、ヒトゲノム完全解読発表時(2003年4月14日)の数字においては、日本の貢献度は僅かに6%であるという発表に結びついたかの経緯を詳細に記述したものである。

「国際ヒトゲノム計画成功の陰に」というプロローグは、「その人物の心の奥底にわだかまるトラウマが、そのまま日本のゲノム敗北の悲劇を物語っている。彼のDNA解読構想は、明らかにアメリカより5年先を走っているはずだった」で始まる。その人物とは、日本の生命科学研究の牽引役を担う和田昭允東大名誉教授・前理化学研究所ゲノム科学総合研究センター所長である。1970年代の終わりに、彼は30億にものぼるDNAの遺伝情報を機械で高速に読み取ろうという独創的なアイデア、いわゆる「DNA高速自動解読構想」を温めていた。当時、手作業による解読では、人間の全遺伝情報すべてを読み終えるまでに300年はかかるだろうといわれていた時代のことである。

1990年代に入り人類は、人間の身体に刷り込まれた「生命の設計図」ともいえるヒトゲノムを明らかにするという大きな野望を抱き、「生命科学のアポロ計画」と位置づけられる大規模な解読プロジェクト、「国際ヒトゲノム計画」に着手する。四半世紀も前に日本人研究者が打ち上げた「DNA高速自動解読構想」は、はからずも歴史が証明した確かな予言となった。しかし、その成功は彼のものとはならなかった。それでは、和田に何が起きたのか。この問題は、日米のMOT研究者仲間では、大きな話題になりつつあった。事実、評者が東京大学・先端研に在職していた当時(1994-2003年)、博士課程の学生が8年前からこの問題の解明に取り組んでいたのである。

『ゲノム敗北』が明らかにした事実は、和田プロジェクトは形のうえでは10年近く予算がつくプロジェクトとして存在したものの、90年代を目前にして「物理・化学」対「生物・医学」といった学界内部の確執や、構想を受け止めきれなかった官僚の理解のなさ、さらには日本脅威論が吹き荒れた日米貿易摩擦のうねりのなかで跡形もなく押しつぶされてしまったというものである。

幸いにも、『ゲノム敗北』で取り上げられている和田自身が、「なぜ米国に逆転されたのか」(日経ビズテック,2005、 No.005,pp. 110-117)において、その経験と彼の考えを公表している。ここに、評者は「技術戦略」の重要性を読み取るのである。和田の激白は、「日本のゲノム研究の国際競争力は海外に絶対見劣りしない。日本人研究者には世界有数の独創性がある。それなのになぜ日本は、宇宙、南極・・・そしてゲノムと、大きな舞台で二番手なのか。その原因について私なりの分析を述べたい。最大の問題は国家的な『大戦略』の欠如だ。『戦略がない』といったときに『戦略の重要性は気が付いているけれども戦略が立てられなかった』という場合と『そもそも戦略の重要性に気付いていない』場合がある。ゲノムもそうだが、その他多くの場合日本は後者だった」

最後に、技術戦略とはどのようなものであり、その欠如はどのような結果を招くかという基本問題に答えを出さなければならない。再び、和田が記した政策提言を引用しよう。「いま私は、大戦略をまとめられる「戦略家」--ビジネス的な表現でいえば『MOT人材』とでもいうのだろうか--を育成する必要性を強く感じている。(中略)最後に、ゲノム解読プロジェクトを通して私が伝えたいメッセージを書いておきたい。『悪い戦術は良い戦略があれば救えるが、悪い戦略はどんなに良い戦術を行使しても救えない』(中略)良い国家戦略なくして世界の一流国にはなれない」ということである。日本のあらゆる分野の指導者層は心して耳を傾けるべき名言であるといえよう。