やさしい経済学―市場を創る技術革新

第6回 負の側面も

大橋 弘
ファカルティフェロー

市場を創る技術革新は、本質的に波及効果(スピルオーバー)を内在している。太陽光発電では学習効果を通じた周辺産業への効果、薄型テレビについては地デジという補完財を通じた相乗効果についてその重要性を指摘した。だが波及効果は良い面ばかりではない。今回は波及効果がもたらす「負」の側面について考えたい。

米カリフォルニア大学バークレー校のスコッチマー教授らは、市場を創る技術革新が、その波及効果に刺激されて誕生した改良型の技術と競合するときには、先行する技術革新を生み出すインセンティブ(誘因)が阻害されることを指摘した。簡単にいってしまうと、新規性・画期性を有する新製品やサービスがすぐに模倣・改良されてしまうような世界では、企業は自らそのような製品やサービスを生み出していこうという意欲を失ってしまうということだ。

そもそも改良された後発の技術が、その生みの親である先発する技術の利益を大きく損うことなどあり得るのか。筆者らは医薬品市場に注目し、なかでも世界で急成長を遂げたスタチン系製剤に焦点をあてて定量的な分析を行った。スタチンとは、コレステロール値が高い脂質異常症患者に用いられる治療剤である。1989年に三共(現第一三共)が開発したメバロチンにより、スタチン市場は誕生した。メバロチンは高い波及効果を有し、その開発過程で生まれた知識を活用して、リピトールなど後続の改良スタチンが次々と上市された。この20年間におけるわが国の医薬品売上高はほぼ2倍なのに対し、脂質異常症治療剤の売上高は実に8倍近く伸びているのだ。後続スタチンは、メバロチンよりも優れた薬効を持つものが多く、患者の健康状態の改善に貢献したことは疑いがない。

1994年から2005年までのデータから医師による処方の選択行動を推定した上で、改良スタチン製剤が上市されなかったという仮想的状況下での解析を行うと、改良スタチンはメバロチンと完全に代替関係にあり、メバロチンのシェアを侵食する形で普及した実態が明らかになった。画期的新薬の代表例であるメバロチンでさえ、事後的に見ると先発利益を確保するのは容易ではなかったのだ。後発の改良技術が、先発の技術から得られる利益を損なう程度が深刻ならば、波及効果を持つ市場を創る技術革新を生み出す意欲自体をそぐ恐れは否定できない。その場合は、イノベーション政策が正当化されることになる。

2010年8月5日 日本経済新聞「やさしい経済学―市場を創る技術革新」に掲載

2010年9月6日掲載

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