TPP交渉は今どうなっているのか?
~その3:孤立するアメリカ~

山下 一仁
上席研究員

TPP反対派は、日本がTPPに参加するとアメリカから一方的に攻め立てられるとか、無理難題を押し付けられるとかの主張を行った。私が出演した主婦向けのテレビでTPP反対派の某大学教授は、アメリカはジャイアンで日本はのび太なのでやられてしまうという趣旨の発言を行っていた。マンガに疎い私は、大学教授という人の知識の豊富さに驚いたが、要するに彼が言いたいことは、日本への引き籠りの勧めである。

このような主張は、これまで二国間協議でアメリカにさんざんやられてきたという印象を持つ国民に受け入れやすかった。しかし、これは、二国間交渉と多国間交渉との区別、単一のイッシューの交渉と多数のイッシューが交渉される場合の区別を理解していない主張だ。

私の経験を紹介しよう。2002年、アメリカはAPEC加盟国の貿易大臣の連名で、EUの厳しい遺伝子組換食品の表示規制を止めさせる文書を出そうと提案してきた。これについては、表示を要求しないアメリカ、DNAが残る食品について表示を要求する日本(豪州、ニュージーランド)、すべての食品に表示を義務付けるEUの表示規制が対立している。

交渉責任者だった私は日本の規制に影響を与えかねないと判断して、同様な制度を持っていた豪州、ニュージーランドを抱き込み、アメリカを孤立させ、提案を断念させた。当時の通商代表は、最近まで世界銀行総裁を務めたゼーリックだった。ゼーリックがAPEC貿易大臣会合に乗り込んできたときには、もうこの提案はテーブルの上から葬られていた。ゼーリックは貿易大臣会合の席上日本代表へ怒りを露わにしたが、後の祭りだった。

公的医療保険の改変など不安をあおったおばけは消えた。TPP交渉で日本の唯一最大の弱点が、農業であることは日の目を見るより明らかとなった。アメリカ、豪州、ニュージーランド等が農産物の関税撤廃を求めてくる。これまでのように、高い価格、高い関税で農業を保護するという政策を採る以上、日本政府は孤立せざるをえない。しかし、薬価、食の安全規制については、豪州、ニュージーランドと協調して、同じような対応が可能である。逆に、アメリカと連携して、途上国に、投資についての厳しい規制の撤廃、CDなどの海賊版の取り締まり強化、日本企業の公共事業への参入、工業製品の関税撤廃を要求できる。

日米の二国間協議では、アメリカの力に押されることはあっても、TPPのような多国間の協議では、他の国と連携できる。また、たくさんのイシューがあるときには、イシューごとに交渉参加国の利害関係が変わるので、連携を組みかえることができる。関税にこだわる以上日本が農業で孤立するのは、当然だが、それ以外の分野で孤立することは想定できない。

交渉の現状は、どうなのか? 豪州、ニュージーランド、ベトナム、マレーシアなどの交渉参加国は、ジャイアン・アメリカに押されまくっているのだろうか? 実際は、逆である。アメリカは、重要な分野で孤立している印象が強い。ロープを背にして打たれているのは、アメリカのような気がしないでもない状況である。

特に、アメリカが重視している分野での孤立が目立つ。21世紀型の理想的な自由貿易協定をTPPで作ろうとしているアメリカと他の国の対立と言ってもよい。このシリーズの最初の論文で述べたように、国内の業界の強い後押しを受けて行った医薬品に関する2つの提案は、ともに他の交渉参加国の反対を受けて、1つは再提案を行ったほか、もう1つはアメリカでの国内調整も済まなくて再提案さえも行えないありさまである。貿易と労働、貿易と環境について、各国が労働や環境の基準を守らない場合には、TPPの紛争処理手続きに訴えて是正させるなどの提案を行ったアメリカに対して、他の国は、猛然と反発している。

将来中国へ規律を課そうという遠大な目標を持って、国有企業が持つ競争条件の歪みを是正しようという提案も、政府系のファンドが民間企業に出資している場合も規制されるのではないかという不安をシンガポールに与え、国有企業を持つベトナムだけでなく、予想もしなかった方面からの反発を受けている。さらに、この提案は、政府が民間の企業の競争条件に悪影響を与えているという点では、農業の輸出補助金、輸出信用、食料援助も同じではないかという主張を豪州から招くことになってしまった。豪州は、現在交渉が中断しているWTOドーハ・ラウンド交渉で輸出信用、食料援助に関してほぼ合意されている内容を、TPPに持ち込むべきだと主張し始めている。これが認められれば、アメリカは農産物貿易制度について大きな政策変更を行わざるをえない。豪州は、国有企業と農業の輸出信用、食料援助とのリンケージを行っているのだ。アメリカとしては、国有企業の提案を実現しようとすると、輸出信用、食料援助について譲歩せざるを得ない状況に追い込まれている。

豪州は、日本で反対派が問題とした投資家と国家間の訴訟(ISDS条項)も認められないという態度を取っている。アメリカの通商関係の情報誌は、豪州がアメリカに立ちふさがっていると報じている。これには、アメリカが豪州からの砂糖の輸入アクセスを一切認めようとしないことに豪州が強く反発していることが、背景にある。

これでも、TPP反対派の人は、アメリカはジャイアンなので近づかないほうがよいとでもいうのだろうか? 農業を除き、日本がTPP交渉で孤立することは考えられないのだ。

2012年10月23日「WEBRONZA」に掲載

2012年11月26日掲載

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