世界遺産の現状と課題について

開催日 2015年10月22日
スピーカー 松浦 晃一郎 (第8代ユネスコ事務局長)
モデレータ 中島 厚志 (RIETI理事長)
開催案内/講演概要

ユネスコは、第二次世界大戦直後に、教育、文化、科学、コミュニケーションを担当する国際機関として設立され、今年70周年を迎えました。

近年、ユネスコは世界遺産、さらには世界無形文化遺産を推進する国際機関としてよく知られるようになり、日本の世界遺産登録数は19(文化遺産15、自然遺産4)にも上ります。

今回の講演では、世界遺産誕生の過程や日本の世界遺産の現状、そして世界遺産をめぐる課題についてお話しいただきます。

議事録

ユネスコの3大文化遺産事業

松浦 晃一郎写真 日本の文化財保護法の対象となっている分野として、まず世界遺産の8割以上を占める「世界文化遺産」のカバーしているものが挙げられます。これは条約上、歴史的な建造物および記念碑、歴史的な遺跡であり、不動産の文化財といえます。これが文化財保護法の第1の柱となっています。

「世界無形文化遺産」は、日本の文化財保護法でいう無形文化財にあたります。ユネスコの無形文化遺産条約では、人から人へ伝えられ、地域社会に根を下ろしているものと定義され、日本でいえば歌舞伎、能、文楽に代表されます。これが第2の柱です。

第3の柱は、国宝となっている仏像や絵画など、いわば「単体の文化財」です。ユネスコには、単体の文化財を保全するための条約はありませんが、歴史的価値のある文化財の重要性は早期から意識していました。第2次大戦後、ユネスコが最初につくった文化関連の条約は、1954年のハーグ条約です。これは、内戦や内紛を含む紛争時において文化財を保護する内容で、日本がユネスコに加盟した1951年以前から交渉が行われていました。実は、日本は長らく批准していませんでしたが、私が事務局長に就任した1999年のユネスコ総会で第2プロトコルが採択されてから、日本政府に働きかけて批准していただきました。

ユネスコが文化遺産関連で2つ目につくったのは、1970年条約です。これは文化財の違法な国際取引を禁止するもので、仏像や絵画といった単体の文化財を本来あるべきところから違法に持ち出す、あるいは不動産の文化財に付随するものを無理に剥がして盗み出すといったことを防ごうというものです。

さらに2年後の1972年には、世界遺産条約がつくられました。それまで西洋の専門家は、不動産の文化遺産だけを対象としていましたが、米国とカナダが自然遺産も含めるべきであると提唱し始め、1つの条約として採択されました。しかし日本の参加は大きく遅れ、1992年になって批准に至りました。やはり、外務省をはじめに各省にとって条約の批准および国内法の改正が大変なプロセスとなりますから、国内的な盛り上がりがあって初めて、動き出したわけです。

世界遺産の登録

1993年には、「法隆寺」「姫路城」「屋久島」「白神山地」の4つが世界遺産に登録されました。当時は1国で複数の候補案件を出すことが認められていましたが、現在は文化遺産候補として1つ、自然遺産候補として1つと、入口で絞られるようになっています。また、京都では二条城をはじめ寺社や神社17の構成資産が世界遺産の対象となっております。

1980年代後半、ニュージーランドは先住民のマオリ族が崇拝の対象としているトンガリロ山を世界遺産候補として申請しました。文化遺産、自然遺産の両方の要素を持つ複合遺産としての申請だったわけですが、当時はやはり西洋の専門家が世界遺産条約の運用の中核を占め、彼らの意見が圧倒的な重みを持っていました。文化遺産はICOMOS(イコモス)という国際的な専門家集団が審査し、自然遺産はIUCN(国際自然保護連合)という国際的なNGOが審査します。そして、トンガリロ山に対するICOMOSの答えは「ノー」でした。建造物などはまったくなく、自然のままの山だったためです。

1987年には、中国が世界遺産条約の体制に参加し、最初の世界遺産を誕生させます。その1つが、道教の本山である「泰山」(山東省)です。ICOMOSの西洋の専門家は、寺があるということに重点を置き、泰山は文化遺産に認定されました。

トンガリロ山は、IUCNによって、1990年自然遺産として認められました。ところが、マオリ族やニュージーランド政府にとっては不満であり、崇拝の山なので文化遺産として認めてほしいと、大規模なキャンペーンを行いました。すると、世界遺産をグローバルなものとしていくためには西洋中心ではいけないという機運が高まり、ICOMOSも1993年には、トンガリロ山を崇拝の山として文化遺産登録を認めました。

その後、富士山を崇拝の山として申請した際は、ICOMOSの専門家も異論を唱えることはありませんでした。ですから富士山は信仰の山であることを基本とし、25の構成資産を申請しました。

富士山は10万年とまだ若く、火山として見れば平凡といえます。しかし、その美しさから、日本人は伝統的に崇拝の対象としてきたわけですが、学問的にいえば、地質学的には何の特徴もありません。したがって、当初は地元を含めて自然遺産と文化遺産両方の要素で申請しようという動きがありましたが、とても無理だということで、文化に焦点を絞って申請し、世界遺産に登録されました。

文化的景観

トンガリロ山が文化遺産として登録される際、「文化的景観」という新しい概念が導入されます。本来であれば、条約改正の対象となってしかるべきだと思いますが、非常に大変なプロセスを伴うため、改正することなく「歴史的建造物」「歴史的遺跡」に加えて「文化的景観」が対象となりました。

富士山に関しても、「文化的景観」で申請すべきという議論がありました。遠くから見ると富士山はきれいな山ですが、ご存知のように近くで見ると開発が進んでおり、全体としてとらえたときに、景観はけっしてよくありません。日本は平泉のときも失敗しています。平泉は、浄土思想に関連する文化的景観として10の構成要素を提案したのですが、ICOMOSからは2つの大きな批判がありました。

第1に、10のうち5つの寺社などは浄土のテーマに合っているけれども、関所跡や荘園跡などの残りの5つは浄土思想とは関係がないという指摘です。第2は、日本は都市化が進んでいますので、文化的景観とはとらえられないという全面的にネガティブな評価を下しました。日本政府も、これは外交的なキャンペーンでは覆せないということで、申請をやり直すことになったわけです。それが2008年です。

平泉は2011年に世界遺産に登録されましたが、そのときはICOMOSに批判された5つを外し、残りの5つを再構成し、文化的景観での申請はやめました。日本では、文化的景観としてアプローチする対象はなかなかありませんが、トンガリロ山のように都市化の進んでいない地域では、文化的景観という概念を活用して世界遺産に登録するということが行われています。その後、文化庁は文化保護法を改正し、ユネスコの文化的景観を保護の対象として加えました。

無形文化遺産の保護に関する条約

私が事務局長となる1年前、京都で世界遺産委員会が開かれました。ホスト国が議長を務めるのが通例のため、当時フランス大使であった私に外務省が議長を勧めてくれました。ちょうどユネスコの事務局長選挙に手を挙げていたため、この議長ぶりが評価されたことが選挙にも大きなプラスになったと感じています。この1年間、議長として世界遺産条約の運営に携わったことは、非常に勉強になりました。

一方でマイナス面もありました。文化的景観という新たな概念を入れ、それなりにカバーはしたものの、日本でいう歌舞伎、能、文楽といった不動産の文化遺産を伴わない無形文化遺産をカバーすることはできませんでした。私は選挙のスローガンにも、無形文化遺産を保護する国際的な体制をつくるべきであると掲げました。

そして事務局長に就任し、いろいろな専門家と意見交換をする中で、やはり条約が必要だということを執行委員会で提唱したところ、西洋諸国はまっさきに反対しました。西洋では、世界遺産条約でいう「不動産の文化遺産」が人類の文化遺産全体を指しているため、そうでないものはそれに付随しているに過ぎず、無形文化遺産に対する新たな条約は要らないというのが基本的な彼らの立場でした。

しかし幸いなことに、2つのグループは賛成してくれました。1つは、サハラ以南のアフリカです。私は若い頃、アフリカに勤務していましたが、アフリカの人々の文化遺産は伝統的な踊りや歌、儀式といった無形のものが中核といえます。ですから彼らは、誠心誠意支持してくれました。もう1つのグループは、日本をはじめ韓国、中国、インドといったアジア諸国です。こうした国々では、どこでも有形・無形の文化遺産が2本立てで存在するわけです。こうした動きの中で西洋の国々もだんだん譲歩し始め、新たな条約を2003年に採択。かなり早いテンポで発効に至り、日本でいう無形文化財がカバーされました。

「歴史的文献」も、日本の文化財保護法の対象となっています。最近、話題になっている世界記憶遺産は、1992年から2年ごとにユネスコで採択しています。総会決議で始まり、それを踏まえて執行委員会などでルールをつくって運営しています。これによって、日本の文化財保護法が対象としている「不動産の文化遺産」「単体の文化遺産」「無形文化遺産」「歴史的文献」と、ユネスコの体制が柱としてマッチする形になりました。

世界記憶遺産には、ベートーベンの自筆による「第九」の楽譜やショパンによる自筆の楽譜、「アンネフランクの日記」やイプセンの「人形の家」の自筆原稿、英国のマグナカルタ、フランス人権宣言などが登録されています。このように、すでに公開されており、誰が見ても異論を唱えない歴史的価値のあるものが対象となっています。

世界遺産の基準は、英語では「outstanding universal value」です。日本語では「顕著な普遍的価値」と訳されますが、このuniversalは世界という意味ですので、「顕著な世界的価値」があるということです。たとえば姫路城のような木造建築による大規模な城は他にありませんので、世界的な価値があるとして登録されているわけです。

もう1つの基準は、原形を維持していることです。英語でいうと「authenticity」ですが、日本語では「真実性」や「真正性」と訳されます。若干わかりにくい表現ですが、西洋的な考えでいうと偽物やコピーは嫌われるため、原形を維持していないものは対象になりません。ただ、その後の展開において、文字通り100%原形というのは無理だということが徐々にわかってきました。

奈良文書

日本のイニシアチブでユネスコは、1993年に奈良文書をつくりました。「authenticity」という概念は、「石の文化」には当てはまるけれども、日本のような「木の文化」には当てはまりません。さらに、アフリカの「土の文化」にも当てはまらないわけです。木は、腐れば替えなければなりません。

のちに奈良文書は、世界遺産委員会でガイドラインとして採択されます。同じ材料、同じ工法、同じデザインによって、最終的に同じ形につくることが義務付けられており、それを満たさなければ世界遺産にはできません。また「integrity」は、日本語でいうと「完全性」などと訳されますが、原形を完全なかたちで保つという概念で、「authenticity」と抱き合わせで運用されています。世界遺産に登録されている法隆寺では、当時のものが残っているのは、もう4割程度だと聞いています。しかし、それでも世界的価値があるということでICOMOSの専門家も認めました。奈良文書の成果です。

もう1つ、新しい基準として「景観」があります。通常の不動産の文化遺産のまわりにはバッファーゾーンがあるものですが、「authenticity」および「integrity」という2つの基準を満たすと同時に、本体の「景観」を害するようなものがあってはなりません。さらに、ユネスコの考えはだんだん厳しくなっており、バッファーゾーンの外であっても本体の景観を乱すものは、世界遺産にできないという考え方になってきました。

2011年に登録された平泉の例に戻ると、いくつか問題点が指摘されています。その1つは電柱です。電柱は、どうしても日本の重要な文化遺産の景観を害するところがあり、平泉の場合も電柱がかなり残っていました。そこで膨大な費用をかけて、電線を地下に埋設することになりました。二条城の場合は、ICOMOSが審査した際、近隣のホテルの1つが景観を害しているということで、建て直しの際には、二条城の景観を乱さない高さとデザインにすべきとの勧告が出されています。

こうした点を踏まえ、日本では2003年に景観法をつくりました。しかし、景観法はあくまでも総論であり、各論の具体的な施策は地方自治体に任されています。景観地域を決め、その中で厳しく守るなど、地方自治体が条例をつくって対応することになっています。たとえば京都では、2006年に門川市長のイニシアチブで厳格な景観条例ができています。

二条城近くのホテルもそろそろ建て替えの時期を迎えていますが、ICOMOSの勧告に沿って厳しくやるということを市長は繰り返し述べています。対象地域にある建物の高さ制限に加え、それまで3万5000件ほどあった大きな広告を撤去するなど、これから設置されるものだけでなく、既存のものも取り払う義務をオーナーに課しているということです。世界遺産においては、「景観」をしっかり守ることも重要です。

和食の登録

無形文化遺産の場合は、人から人へ伝えられ、地域社会に根を下ろしていることが重要な点です。すると当然ですが、人から人へ伝えられる間に少しずつ変わっていきますから、能にしろ、歌舞伎にしろ、新しいものが入ってくることは認められています。有形の世界遺産では認められませんが、無形では認められているということです。

無形の基準として、伝統的な芸能や社会的慣行など5つの形態が決まっていますが、和食の申請で苦労したのは、料理は含まれていなかったことです。実は先行して、フランスのサルコジ大統領が、「世界に誇るフランス料理をユネスコ無形文化遺産に登録したい」と記者会見で発表したことから、専門家が後追いするかたちとなりました。そのフランス料理の例をみて、和食を申請したわけです。

フランス料理、トルコ料理、中国料理が世界の3大料理といわれます。いずれも王朝料理であったわけですが、フランス料理は、ブルボン王朝の料理がフランス革命を機に一般庶民に普及し、その料理を食べながら談笑する社会的慣行ということで認定されました。

日本では当初、自然の素材を大事にする和食という方向で検討されていましたが、それでは通らないということで、とくに正月に神様をお迎えする一連の行事として進め、和食の登録に至りました。

歴史的文献の認定プロセスにおける透明性

歴史的文献については、重要な基準が2つあります。1つは、やはり「authenticity」です。つまり、後からつくった文献では駄目だということです。日本の例でいえば、「源氏物語」などは現物があれば真っ先に登録してしかるべきなのですが、残念ながら現在残っているのは鎌倉時代の写本ですので、「authenticity」には該当しないわけです。

もう1つは「world significance」、つまり世界的な価値があるということです。仮に文献が当時のものであっても、その内容に世界的価値がなければ認められません。

しかし、プロセスに透明性が欠けています。今回の南京がそれに該当しますが、中国が提示した11の文献について公表はされず、コメントも求められず、まさに中国の説明だけで登録小委員会で議論され、国際諮問委員会に上げられました。さらに、その議論の内容は公表されていません。日本政府は、その議論のプロセスには入れませんでしたが、学者を動員してキャンペーンを行い、問題を提起しました。後でわかったことですが、国際諮問委員会でも意見が分かれ、投票まで行ったというのは珍しいことです。

中国は長年にわたり計画を立ててきました。地域別のアジア太平洋記憶遺産委員会の議長は中国人であり、ほかに中国人の専門家が2人も入っています。中国はそういったネットワークにしっかり参画している一方、日本はまったく入っていません。そのため苦労したわけですが、巻き返しが功を奏し、大きな議論となったようです。その結果は諮問委員会で決定され、事務局長が追認することになります。

今日申し上げたように、ユネスコには、不動産の文化遺産、無形文化遺産、単体の文化財という3大文化遺産事業があります。そして日本の文化財保護法に対応する体制が、国際的な規模でも出来ています。

もし今、新たな条約をつくるとすれば、世界遺産の大きな条約の中で、文化遺産は「不動産の文化遺産」「無形文化遺産」「歴史的文献」の3本柱とすべきだと思います。現状は、これまでの経緯で段階的につくられてきたものですから、バラバラな印象が否めません。

質疑応答

Q:

戦争に関するものは、世界遺産に登録されているのでしょうか。

A:

戦争に関するものは「負の遺産」といわれ、アウシュビッツも原爆ドームも世界遺産になっています。戦争の悲劇を後世に残すことで、人類が二度と繰り返さない教訓にするためです。第1号として登録されたのは、奴隷貿易の拠点であったセネガルのゴレ島でした。

南アフリカが初めて世界遺産条約に批准し、もっとも重視して申請したのがロベン島です。ここには、マンデラをはじめとするアパルトヘイトに抵抗した人々が長年収容されていました。ところが、ICOMOSの勧告は「ノー」でした。そこで、6つ目の評価基準である「歴史的価値がある」という評価基準を満たすだけでなく、ロベン島の収容所が「その国において画期的な意義を持つ建物等」という3つ目の基準を満たすことを併記し、登録に至ったわけです。

ユネスコは、戦争やそれに類似するものの負の面を登録し、二度と繰り返さないようにしようと考えています。ただし南京については、たとえば虐殺された市民の数についても、学者の間で大きな隔たりがあります。ですから一方の当事者のみの主張で登録することで、もう一方の当事者が異論を唱える状況となっています。やはり、慎重な準備と議論が必要だと思っています。

Q:

富岡製糸場などの産業遺産登録について、コメントをいただきたいと思います。

A:

富岡製糸場は、日本の伝統的な絹産業とフランスの近代的な絹産業技術との合体でつくられたことが基本的なテーマとなっています。工場は圧倒的にフランスの技術が大きいわけですが、たとえば下仁田の洞窟でまゆを保存するというのは、日本の伝統的な手法です。そして1階に人が住み、2階と屋根裏で蚕を飼い、まゆまでつくるという日本の伝統的なプロセスである「田島弥平の旧宅」が世界遺産になっています。このように日本とフランスの両方の要素が含まれています。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。