過去を知ってより現実的な巨大地震・津波の想定へ

講演内容引用禁止

開催日 2012年6月13日
スピーカー 宍倉 正展 (産業技術総合研究所 活断層・地震研究センター 海溝型地震履歴研究チーム長)
モデレータ 渡邉 政嘉 (経済産業省 産業技術環境局 技術振興課 産業技術総合研究室長)
開催案内/講演概要

東日本大震災では「想定外」が叫ばれたが、実は過去に目を向ければ、同様の地震・津波はくり返し生じており、想定可能であった部分もある。このため、震災後、過去の地震・津波を探る調査研究が注目されるようになった。一方で、今後は想定外のないように、過去の情報に関係なくあらかじめ最大級の地震・津波を想定する動きもある。この場合、実際に起こるか分からないまま過度な対策を強いられることもありうるため、冷静な対応が必要であろう。

本講演では過去の地震・津波の調査研究の実例から、いかに将来を想定していくかについて論じたい。

議事録

※講師のご意向により、掲載されている内容の引用・転載を禁じます

3.11東北地方太平洋沖地震

宍倉 正展写真2011年3月11日にマグニチュード(M)9.0という、日本の観測史上最大となる東北地方太平洋沖地震が発生しました。産業技術総合研究所(産総研)は茨城県つくば市にあり、地震当時には震度6弱の非常に大きな揺れがありました。地震の直後に唯一つながっていた携帯端末で震源地とマグニチュードを検索すると、米国地質調査所の速報値ではM8.8、震源地は宮城県沖ということでした。すぐに我々には巨大津波がくることはわかっていましたが、現地に伝える手段がありませんでした。今回2万人近い犠牲者の9割が津波によるものでした。我々は彼らを救うことができなかったという非常に辛い思いをしました。

「想定外」と言われる東北の地震

今回の地震は「想定外」だったとよくいわれます。東北地方の太平洋沖合ではM7-8規模の地震は古くから繰り返し起きています。明治時代以降のこの地域での地震記録によれば、たとえば1896年の明治三陸地震や、1933年の昭和三陸地震、1978年の宮城県沖地震がありました。宮城県沖では1936年と1897年にも起こっています。つまりこの辺りでは、おおよそ30-40年毎にM7.5規模の地震が起きていたのです。前回の1978年からは既に30年以上経っていましたので、次の宮城県沖地震はいつ起こってもおかしくないといわれていたのです。ただ、過去の記録からM7-M8程度の地震を予想していたところ、実際はM9という想定外の規模の地震が発生したというわけです。ところが明治時代より前のもっと過去に遡ると、後で説明する896年の貞観地震などの巨大地震は起きていたのです。

古地震研究とは

古地震研究とは、過去の地震を扱う研究分野です。何もない状態から将来を予測することは難しいですが、過去に起こった事実を知ることは可能です。そして過去に起こった事象は将来にも起こりうるため、将来予測は過去を知ることから、という考えの基に研究を行っています。

過去を知るには、まず古文書類に記録されている地震に関る事象を読み解く方法があります。しかし文書だけでは情報が不十分である、または、有史以前の事象を探ろうとする場合には、地盤の隆起・沈降、津波、液状化など、過去の地震に伴い地形や地層に刻まれた痕跡から読み解いていきます。

過去の海溝型地震ですが、M7-8程度の地震のサイクルは数十年から100年です。それに対し、3.11のような巨大地震は数百年から1000年というサイクルで起こっています。我が国での器械による地震の観測記録は始まってからわずか100年あまりですので、巨大地震のサイクルは捉えられません。古文書の記録であれば1-2回は捉えられるはずですが、地震の記録がほぼ洩れなく残っているのは過去400年程度です。一方、地質の記録であれば数千年前まで遡ることが可能であるため、そこから過去の地震・津波の履歴を明らかにして将来に役立てようということです。

津波堆積物

津波は沿岸の砂等を浸食し土砂を巻き上げます。そして津波が内陸まで浸水していくときに、土砂を一緒に運んでいきます。津波が引くとそこに土砂だけが残されます。これを津波堆積物と言います。3.11後に仙台平野で行った調査によりますと、海岸から150mの地域では堆積物の高さは30cmでした。つまり30cm分の砂が海岸から運ばれたということです。海岸から500mの地域では砂が10cmで泥が1cm、海岸から2500mの地点では砂・泥ともに1cmとなっていました。

津波堆積物の現象が過去にも起きていたらどうなるでしょうか。たとえば、2004年のスマトラ島沖地震や、1960年のチリ地震で津波の被害を受けた沿岸地域の土壌には、過去に繰り返された津波の痕跡が残されています。これを1つ1つ調べて年代を明らかにしていけば、津波のサイクルが判明します。ちなみにチリは、約300年に1度巨大津波に襲われているということがわかりました。

東北地震は貞観地震の再来なのか

平安時代の歴史書である日本三代実録に、西暦869年に東北地方を襲った貞観地震の記録があり、当時の揺れの様子や津波についての記述も残っています。しかし、これだけでは具体的な地震・津波の大きさがわからないため、我々は貞観の津波堆積物の採取観察を2004年から行ってきました。調査地区は仙台や石巻などの平野部で、地層を抜き取るという掘削作業をおよそ400カ所で行いました。これにより、どの辺りまで津波がきていたかということが推測できます。

次に貞観地震の津波波源についてですが、歴史上の地震や津波の場合は、器械観測による震源・波源の特定ができません。そこで、断層の長さ、幅、深さなどについていくつかのパターンの波源を仮定し、模擬的にコンピュータ上で津波を起こしてみます。そして浸水範囲を計算し、堆積物との一致状況などを分析するという検証を重ね、貞観の津波を起こした震源・波源は宮城県沖から福島県沖のプレート境界で、最低でも長さ200km、幅100km、M8.4くらいであろうという結果を出しました。

東北でこの貞観タイプの津波が過去にも繰り返し起きていたことは、同様の津波の痕跡が古墳時代や弥生時代にもあることからわかります。これらの痕跡からは、500-800年間隔で大きな津波が起こっていたということが明らかになっており、室町時代頃にもう1度大きな津波があったことも最近判明しました。貞観の時代からは1100年、室町時代からでも500-600年経っていることから、次の巨大津波がいつ起こってもおかしくない状況だったということがわかります。

これらの研究成果は2010年までに色々な場所で発表しましたが、一般的にも防災意識を高めてもらおうという意図で、「津波浸水履歴図」というものを計画しておりました。巨大津波の場合は、それを防波堤で防ぐことは時間・予算両面で困難です。そこで、我々が持っている情報を公開することで住民の防災意識の向上に貢献できるのではないかと考え、貞観津波の浸水範囲を示した地図の無料配布や、Googleアース上での研究成果公開を企画し、2011年度中の試作版完成を目指して準備をしていました。結局これは3.11に間に合いませんでしたが、後で国土地理院による3.11の仙台平野中北部の津波浸水範囲と我々の調べた貞観津波の浸水限界を比較してみると、その限界位置はよく一致していることがわかりました。つまり、貞観津波が再来するという前提で対策をしていれば、津波の浸水規模は事前に予測できたということです。

なぜ研究成果を活かせなかったのか

文部科学省には、1995年の阪神淡路大震災以降に設立された「地震調査研究推進本部」という政府の機関の事務局があります。それ以前には大学や研究所毎に個別で行われていた日本の地震研究を一元的に取りまとめ、将来の地震の可能性を国として公的に発表していくための機関です。実は、2005年度から2009年度までの5年間に、文部科学省の研究プロジェクトとして、宮城県沖地震の重点的調査観測が実施されていました。我々の貞観の調査もこの一部でした。2010年には報告書が提出され、それに基づいて毎月の定例の会議で審議され、2011年4月の公表予定に向けて取りまとめが行われている状況でした。今回は研究成果を活かせなかったというより、間に合わなかったというのが正直なところです。

古地震研究への期待の高まりと震災後の社会の変化

昨年の9月、今後の想定地震・津波については、古文書等の資料分析、津波堆積物調査、海岸地形等の調査など、過去に遡った調査の推進に関する提言が中央防災会議専門調査会によって出されました。

過去を知ることの意義が認識されるようになったのは良いことです。震災前には想定以上の地震や津波の可能性を各自治体等に受け入れてもらえないということもままありましたが、震災後は逆に自治体のほうが未検証の規模にまでどんどんと想定規模を引き上げて地震や津波の想定を行うようになりました。ただ、我々は未検証の規模については明確なことは言えませんので、そのための検証を行う必要が出てきました。

内閣府が公表した最大級の震源・波源

内閣府より南海トラフの巨大地震についての新たな想定が公表されています。マグニチュードは9.1、想定される津波の高さは、シミュレーションでは高知県黒潮町の34mが最大です。ただ、最大級の巨大津波として内閣府が出したものは、最悪の想定を積み重ねたものであり、実際に過去に起こった事実はなく、将来必ず起こるわけではありません。だからといって可能性がゼロというわけでもありません。そういった最大級の想定は、たとえば原発とか重要構造物へのリスク評価には非常に重要だと思いますが、一般の防災対策では地方自治体への過度な負担となるのではないかという懸念があります。過去の事実をしっかりと調べること、そしてその中で既往最大級と仮定最大級の間でのバランスを取り、その上でより現実的な想定で防災対策をしていくべきではないかというのが私の考えです。

南海トラフ研究の紹介

東海から南海の地震は 非常に詳しく歴史記録に残っています。南海、東南海、東海の3つの地域に区切られますが、それぞれの地域で単独に地震が起きることもありますし、連動することもあります。最近では1946年に昭和の南海地震と、1944年に東南海地震がありました。それ以前には、1854年に安政の南海地震と東南海・東海地震があり、このときには東南海と東海は連動していたようです。さらに遡って1707年の宝永地震では、この3つが全て連動していたのではないかといわれています。だいたい100年から150年の間隔で起こっているのがこの地域です。よって、次の地震が今世紀中に起きるのはほぼ確実ですが、問題はその規模です。また、宝永地震が既往の地震の中でも最大級であることはわかっているのですが、それが過去6000年の間においてもそうなのかという検証を我々は行っています。

今後の想定に向けて

我々産総研では古地震の調査研究から、過去6000年程度における既往最大級の津波はおおよそ評価可能であろうという検証をしています。ただし、評価手法については今後も改良が必要です。

過去6000年である理由は、それ以前は氷河期であったために海面が現在より100m以上も低く、当時の海岸線に襲来した津波の痕跡は海底にあるため調査が困難であるというものです。では6000年で十分なのかというと、スマトラ、チリ、東北等、M9クラスの地震のサイクルは数100年から1000年程度であることから、6000年の履歴でカバーできるといえます。M10以上や1万年に1度の規模の地震は理論上、現実的ではありません。

今まで話してきたのは海溝の話ですので、太平洋側だけが対象でした。日本海側には海溝がありませんが、海底活断層による津波はあり得ます。地震の規模は大きくてもM8程度ですが、震源に近い海岸では巨大津波の危険があります。また、活断層の地震というのは海溝の地震に比べてサイクルが長いため、過去6000年の評価だけでは不十分な可能性もありますが、まず重要となるのは海底活断層の分布を知ることです。

質疑応答

Q:

数百年から1000年周期の巨大地震が発生するメカニズムは判明しているのでしょうか。また、地震対策の長期的な改善についてどのようにお考えですか。

A:

巨大地震のメカニズムには諸説がありますが、まだ理路整然とした説になっているわけではありません。地震対策に関する研究者としての直接的な方法としては、アウトリーチ活動があります。我々のデータを使い国や自治体を動かしていくことももちろん重要なのですが、実際に防災対策に活かされるまで少し時間がかかります。アウトリーチ活動では地域住民などに直接津波や地震の知識の普及を行うことで、問題への意識を高めるということを行っています。地道に進めるしかないと思っています。

Q:

6000年遡った調査が必要な地域は日本全国にどれくらいあり、現在どれくらいカバーされているのでしょうか。また、この業界での人的なリソースは十分なのでしょうか。

A:

津波の痕跡を調べる調査は日本全国で行われていますが、まだ十分なデータの蓄積がありません。わかっている範囲では、北海道の太平洋沖は、いつ巨大津波がきてもおかしくない状況にあります。ただ、それが明日なのか50年後なのかははっきりと言えませんが、3.11前の東北の状況に似ているといえます。また、関東では房総沖が危ないのではないかというニュースも最近ありましたが、それを検証しサイクルや規模を割り出すには、震源周辺での古地震の調査をしなければなりません。東海・東南海地域は人口密集地域であり穴を掘れる場所が少ないためデータが限られています。

人的なリソースの問題ですが、古地震研究の専門家は非常に少なく、特に津波堆積物を専門に扱う研究者は日本全体で10人程度です。今後この分野を専攻する学生を育てていきたいのですが、フィールドワークを好む学生が少なく、我々にはとても頭の痛い問題です。

Q:

津波堆積物の調査において、地質のボーリングデータの活用や、考古学の発掘作業中の津波の痕跡発見など、他分野のネットワークを上手く使っていくということはできないでしょうか。

A:

30年ほど前から、考古学の発掘現場で過去の地震の地割れや液状化の跡が見つかることがありました。元産総研の寒川先生が提唱された地震考古学という分野は今回の震災前からあったのですが、今回の3.11で過去の津波の痕跡等の重要性が改めて認識され始めました。今後、地質学と考古学のインタラクションというのは、よりいっそう進んでいくのではないかと私も期待しています。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。