関東大震災と産業復興 -自然災害と産業の空間分布変化

開催日 2011年5月12日
スピーカー 岡崎 哲二 (東京大学大学院 経済学研究科 教授)
モデレータ 中村 吉明 (経済産業省 経済産業政策局 地域経済産業グループ 立地環境整備課長)
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開催案内/講演概要

1923年9月に関東地方を襲った震災は、甚大な人的・物的被害をもたらした。この講演では、震災被害の実態とそれに対する政策的対応について述べる。それを通じて、政策に関するあり得べき陥穽、それを避けて真の「復興」を実現する可能性、およびそのための条件について考えたい。

議事録

関東大震災の概要

岡崎 哲二写真関東大震災では、1923年9月1日午前11時58分32秒にマグニチュード7.9の本震が発生。その数分後にマグニチュード7.2、7.3のかなり強い余震が続けて起きました。本震の後にかなり強い余震があったことが、今回の東日本大震災と似ている点です。関東大震災でも、相当広い範囲にわたって震度7の揺れが観測されました。エネルギー的にはマグニチュード9.0だった今回の地震の30分の1程度ですが、震源が浅く、大都市・人口密集地帯に近かったことから、非常に大きな人的・物的被害をもたらしました。震源地は相模湾であるため、揺れそのものは神奈川県と南房総の方が大きかったのですが、東京では地震後に発生した火災により最も大きな被害が出ました。

物的被害の概要

内務省の統計によると、東京市内では63.2%の建物が倒壊。また、横浜市では倒壊率が73.2%となっています。大都市・人口密集地帯に被害が集中しているのは、今回の震災とはやや性格が異なる点です。震災による死者・行方不明者は10万人で、それも東京市と横浜市でそれぞれ7万人、2万人以上(当時の市人口の3%、5%に相当)と集中しています。

空間分布の話と関連してきますが、同じ東京市でも、地区によって被害規模にかなりの違いがありました。当時の東京市は今の23区よりも狭く、15区でしたが、そのうち東南部の神田、日本橋、京橋、浅草、本所、深川区の6区では、9割前後の建物が崩壊しています。つまり、東南部に被害が集中しているのです。

当時の内務省の推定によると、物的被害は当時の貨幣価値で55億円となっています。これを1995年の金額に換算しますと約6兆1680億円となり、阪神淡路大震災の被害総額の62%に相当します。ちなみに、今回の東日本大震災の被害総額は16~25兆円といわれています。しかし、日本経済に対するインパクト、たとえばGNPに対する相対的被害の大きさでいうと、阪神淡路大震災は2.1%ですが、関東大震災は35.4%と非常に大きな数字となっています。この数字から、関東大震災が資本ストックに与えた損失がたいへん深刻であったことがわかります。

とはいえ、生産活動に対する影響は限定的だったようです。成長率も震災の年は落ち込んではいますが、落ち込みの程度でいえば、第一次世界大戦後の戦後恐慌の方がはるかに深刻です。相当な資本ストックが失われた筈なのに、なぜ生産が落ちなかったのか。前述の戦後恐慌がその背景にあったと思われます。長期不況の最中であったために、資本ストックに相当の余裕・余剰があり、被害を吸収できた。たとえば、綿紡績業においては、震災後に資本ストックが落ち込んだものの、平均運転錐数の方は上昇しています。つまり、稼働率を上げることで生産水準を維持できたと見られます。

金融システムへの影響と政府・日銀の対応

しかし、資本ストックの被害は、当然ながら金融システムに甚大な影響を与えます。被害としては主に、担保物件の消失・破損、貸出先の被災による貸出金の回収不能、有価証券価格の低下、の3つが挙げられます。

そうした認識のもと、当時の政府と日銀はかなり早期から対応をとっています。まずは、第1弾として、震災の6日後に30日間の支払延期令(モラトリアム)が発行されました。それから約2週間後、第2弾の対策として打ち出されたのが、日本銀行震災手形割引損失補償令です。銀行の手形を再割引することによって、銀行の資金繰り、ひいては企業の資金繰りを円滑化するのが目的ですが、その際に日銀が被る損失について、政府が1億円を限度に保証する内容の勅令を発行しました。それによる特別融通枠は4億円、当時のGNPの約3%に相当しますが、その際に、非常時だからということもあり、審査基準が緩和され、不健全な手形も一緒に再割引されてしまったのが、後々に問題となりました。それから3年後の1926年12月になっても、震災手形の半分が未回収だったからです。それらの不良債権を処理するプロセスで起きたのが、1927年の昭和金融恐慌です。

不健全(insolvent)な企業・銀行に資本が融通されるリスクを冒しても、健全(solvent)な企業・銀行が流動性の制約によって倒産するリスクを避けるという措置は、初期の政策的対応としては妥当ですが、これが長引くと経済的に非効率となります。実際に、震災の3年後に日銀がその調整に動き、結果、金融恐慌が起きましたが、その中にあっても、solvencyと長期的な経済的効率性を念頭に、収益性の高い銀行に集中的に資金を投入する政策が取られ続けました。

震災後の空間分布

1.震災による影響とその他のトレンドとの関係
東京市15区のうち、神田、京橋、本所、深川の4区は、東京府全体に占める労働者のシェアが震災前の半分以下となり、1936年になっても減少分の半分も回復できないままでした。つまり、これらの地区では震災による持続的なシェアの低下を経験したように見られます。これは、さらに東京における工業の地理的ないし空間的分布に持続的な影響を与えたことを示唆しています。

ただ、はたしてこれは震災だけの理由によるものなのか。震災のほかに、当時の労働者移動の要因として、(1)大都市の混雑を避けるという一般的なトレンド、(2)20年代のゾーニングの実施、の2つが考えられます。

一般的に、大都市が発展するにつれ、都心部に商業や金融が集中する一方で、工業は郊外に出て行く傾向があります。したがって、先述の4区からの工業転出も、大都市の一般的な傾向を反映しているだけで、震災の影響とは必ずしもいえない可能性があります。実際に「各区の固有の労働者のシェア」と「各区の固有のシェアのトレンド」とを分解して見ますと、家屋の全焼・全壊による各区のシェアの変動は-0.007(0.7%ポイントのシェア低下を意味する)となっていますが、シェアのトレンドは+0.0018と上向いていることから、震災後のリバウンドが認められます。この推計からは、総じて4~5年程度でシェアの低下を取り戻したことが示唆されています。ですので、一見、震災は持続的な影響を空間分布に与えたようにも見えますが、実はそれは一般的なトレンドを反映したものであり、長期的な震災の影響はそれほどなかったという含意が導き出されます。

また、当時の日本では、東京市を工業地域、商業地域、住居地域に分ける計画が震災前からあり、それは1925年に実施されています。実際に震災で大きな影響を受けた東部の本所・深川辺りは工業地域であり、工業を積極的に立地させる政策がありました。ちなみに、もう1つの工業集積地となるのが西南部の大田区です。これらの工業地帯に限れば、シェアの変動は+1.768となっていることから、ゾーニングによるプラスの影響がかなり認められます。

2.機械・金属工業は大田区にシフト
とはいえ、震災による長期的影響がまったくなかったとは言い切れません。確かに、工業全体では震災の持続的な影響は少なく、リバウンドが認められますが、産業別に見ると、例外的に機械・金属工業ではリバウンドが殆ど無く、持続的なマイナス影響が見られます。なぜ、機械・金属工業に限ってそうなのか。理由としては、繊維業では大企業・大規模工場が多いのに対し、機械・金属工業では小規模工場すなわち中小企業が中心だったことがあります。また、当時の記述資料を見る限り、機械・金属工業では事業所間の密接な取引関係、ネットワークが大きな役割を果たしていたことが伺えます。こうしたネットワークがひとたび断絶すると、その地域の競争力が一挙に失われてしまいます。そうしたことが東部で起きた結果、被害が比較的少なかった大田区の競争力が相対的に上がり、その方面に産業立地がシフトした。機械・金属工業に関しては、このような現象が起きたのではと思われます。

結論として、産業の空間分布の変化に関しては、以下のことがいえます。

  • 工業全体についてはショックの影響はそれほど持続的ではない
  • ショックの持続性は産業間で相違
    ‐機械・金属工業については、震災のショックが労働者の空間分布に持続的な影響を与えた可能性がある
    ‐事業所規模によって復元力に違いが見られる
    ‐震災による集積地の比較的優位の消滅と移行が見られる

以上のように、関東大震災後は機械・金属工業を中心に産業の空間分布の移動が起きましたが、まさにこの機械・金属工業が今日の日本の主要産業になっています。このことは、現在の政策へのインプリケーションとして重要な意味を持ちます。当時は移動といっても日本国内での移動でしたが、これが国境を越える形で起きてしまう可能性も十分にありえるからです。

質疑応答

Q:

今回の東日本大震災は、リーマンショックの3年後、病み上がりの状態であったところを直撃したという点で不運だったといえます。関東大震災もその6年後に世界恐慌が起きています。いずれの場合も震災と外来型の経済危機がほぼ連続する形で起きていますが、そうした共通点から学べることはあるでしょうか。

A:

実は関東大震災の場合、その3年前に戦後恐慌が起きていました。日本に限っていえば、GDP成長率が6%以上のマイナスとなるなど、世界恐慌以上の落ち込みを経験しました。奇しくもその3年後に関東大震災が起きたのです。今回の大震災と非常によく似たタイミングです。そして関東大震災の場合、戦後恐慌によって生じた不良債権・不良資産の存在が、震災後の金融政策の舵取りをさらに困難にし、結果、金融の不安定性が長期化、深刻化したとされています。

Q:

震災手形については、神戸の鈴木商店(貿易会社)など、戦後恐慌でかなり弱体化した企業が最大の債権者となっています。こうした不良企業が震災ゆえに延命されたことで、かえって金融機関の体質悪化を招き、後の金融恐慌に至ったのではないでしょうか。

A:

確かに、いずれは何らかの形で整理されるべきだった不良貸出先が、震災により延命され、整理するのがより困難になったという点はあります。

Q:

先日の藤本氏の講演では、「すり合わせ型の日本のものづくり産業は震災に強く、復元力がある。国外転出の心配はそれほどない」という論調になっています。しかし、関東大震災では、東京市内ではありますが、東から西への移行が見られたということは、すり合わせ型が震災に強いとは限らないということでしょうか。それとも当時と今とでは状況が違うのでしょうか。

A:

当時と今とでは、労働慣行をはじめ経済の仕組みがまったく違います。すり合わせ型のものづくりや長期的かつ密接な企業間関係も、実は戦後の産物です。戦前の日本の製造業は、むしろモジュール型であり、市場経済の原理でより空間的移動が起きやすかったといえます。

Q:

関東大震災の場合、被害が大きかった機械・金属工業や東南部を除いて、全体としては4~5年後に復元したとのことですが、今の日本に関していえば、経済成長力の低下などもあり、そうした復元力が弱まっている気がします。ただ、かつて都市計画を軸に震災復興が進んだように、地域再建計画を推進することによる復元力の底上げは期待できるのでしょうか。

A:

当時は、日本経済が成長基調にあったこと、産業構造の高度化の只中にあったことに、震災後の円安という好条件と復興需要が加わり、全体として復元力が働く結果をもたらしました。しかし、今の日本に関しては同じ復元力は必ずしも期待できないと考えています。

Q:

建物が密集するとどうしても火災のリスクが高まります。集積はこれまで強みとされてきましたが、同時にリスクでもあり、ここにきて分散化が1つのキーワードとして浮上している気がします。分散化に関して過去から得られる教訓はないでしょうか。

A:

大戦末期の産業疎開が例としてありますが、これが現在の日本においてどこまで適用できるか。今後の検討課題にしたいと思います。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。