スポーツからみた日本型マネジメントの限界~新しい人作り、新しい組織作り~

開催日 2003年2月18日
スピーカー 平尾 誠二 (ラグビー日本代表チーム前監督)
モデレータ 広瀬 一郎 (RIETI上席研究員)
コメンテータ 佐野 忠克 (経済産業省経済産業審議官)

議事録

私は、ずっとラグビーというスポーツに携わってきましたし、今も携わっています。本日は、経営マネージメントについてという演題ですが、やはりスポーツに関する話題が中心になると思います。皆さんのお仕事とはあまり関係がないと思われるかもしれません。確かに直接的には関係がないかもしれませんが、私の話の中に出てくるキーワードには、経営の組織論や人材養成におけるキーワードと同じものが結構あるでしょう。皆さんには、ご自分の経験や周りの環境と比較しながら、これらのキーワードを拾っていただければと思います。

野球型ゲームとゴール型ゲーム

我々がチームを運営していく上で、マネージメントしていく必要があることはいうまでもありません。そのとき、日本人は、チームプレーとか、チームワークという言葉や精神がものすごく好きです。私も、やはりチームプレー、チームワークについての講演をよく頼まれます。しかし、このリクエストは、すごくあいまいで、難しいものです。というのは、チームプレー、チームワークには、いろいろな種類のものがあり、一括りにはできないところがあるからです。チームワークやチームプレーの講演をすると気づくのは、我々日本人は、スポーツのゲームという場合、暗黙的に、そのモデルとして野球を念頭に置いていることです。

確かに日本人にとって、野球は非常に身近なスポーツです。また、組織を運営していく上で、野球のマネージメントの仕方は1つの重要なモデルでしょう。また、野球のゲームの進め方は、従来の社会と非常に共通するものが多いとも思います。今ではよく、フラット型の組織ということがいわれますが、それまでは、ピラミッド型あるいはコントロール型の組織でした。そこは上意下達の世界で、上の命令をどれだけ精度高く実施するか、それが非常に重要な組織論だったと思います。野球には、監督というゲームメーカーがいて、彼の指示を各プレーヤーが忠実にこなすことが求められます。たとえば、1塁にランナーがいて、バッターには送りバントのサインが出ているのに、それを無視して、あるいは見落としてヒットを打ち、ランナーがホームまで戻れたとしても、「おまえ、俺のサインをちゃんと見たのか!」と怒られるわけです。従来の我々の社会構造というか、組織運営のされ方は、これに近いものがあったのではないかと思います。

また、野球のゲームの進め方も、やんわりというか、ゆっくり進みます。もしサインがよく見えなかったら、タイムを取って確認することもできます。3アウトでチェンジは絶対に確実なもので、計算できます。だからこそ、送りバントという戦法もあるし、攻撃側のピッチャーは、2アウトになったら、軽くキャッチボールをして肩を温めておくこともできたりします。

確かに、ひと昔前の社会は、このようなゆっくりしたゲームが、社会やビジネスの世界でも行われていたでしょう。でも今は、どうもこんなペースではないようで、非常に速くなっています。しかも「瞬時のターンオーバー」が行われます。つまり、攻守の入れ替わりが不規則に、しかも速く、激しく、今、攻めていたと思ったら、次の瞬間には守らなければいけない状況が訪れます。多分、これが今、我々が接している社会やビジネスにおけるゲームではないでしょうか。我々は、それに対応できなくて、あたふたしているのではないかなと思えるのです。

この「ターンオーバー」があるのは、「ゴール型ゲーム」と呼ばれるものの特徴です。「ゴール型ゲーム」とは、たとえばラグビー、サッカー、ハンドボール、アメフト、バスケットボール、ホッケー等々、競技場の両サイドにゴールがある競技のことです。この「ターンオーバー」、すなわち攻守の素早い入れ替わりに対応できないチームは、「ゴール型ゲーム」では絶対に勝てません。

日本人は「ゴール型ゲーム」には不向きか

私は、ある時、競技関係者の方に、「日本人は『ゴール型ゲーム』では強くなれないよ」といわれました。向いてないというのです。なぜかというと、「ゴール型ゲーム」においては、個人のレベルでゲームを判断し、実行できる力がないと、ゲームが進められないからです。監督の指示を待って、「今は守るんですか? 攻めるんですか?」と聞いている間がないのです。その場で自分が判断して、次にどういうプレーをするかを即座に決め、実行に移す。その連続性が、このゲームの特徴です。

私は、この話を聞いた時、少し思い当たることがありました。それはラグビーの日本代表の監督をしていた時のことです。ラグビーでは、サッカーや他の競技と違って、日本のチームで3年以上プレーしていれば、外国人選手でも日本代表になれます。ただし、1度日本代表になったら、その外国人選手は、2度と母国やその他の国の代表になることはできません。私の時は6人の外国人選手がいました。彼らと日本人選手を比べると、なかなかおもしろいことがありました。

日本人は、いわれたことはちゃんとやる抜群の資質があります。たとえば、「ちょっと速くボールを投げてみろ」とか、「ポジションをちょっと前に取れ」と指示すると、ほんとうに「ちょっと」、0.1秒とか、50センチとかの微調整をするのです。それは、本人にしかわからないぐらいの微妙な調整です。この繊細さが、1つのフォーメーションやサインプレーを構築する上で、すごく重要な要素になってきます。決められたことをちゃんとやるには、この細かさが効きます。これを見ると、日本の製造業が、すばらしく精度の高い製品を作ったというのも頷けます。

ところが、同じことを外国人選手にいうと、彼らは目に見えるぐらいの調整をします。1秒とか、1メートルぐらいの差をつけるわけです。そういう意味では、彼らは大雑把です。ただし、大雑把である反面、目の前の状況に反応する能力は非常に高い。ラグビーやサッカーなどでは、この目の前の状況に反応する能力が大変大きな要素なのです。

また、こんなこともありました。スクラムハーフに、私は外国人選手を起用しました。スクラムハーフというのは、一番ボールに絡むポジションです。その選手が、試合が始まって10分間、反則をしまくるのです。監督である私は、それを見て内心、「あいつ、何をやっているんだ!」と怒ります。ところが、10分たつと、ピタッと反則しなくなる。これは何でだろうと思っていると、気がつきました。彼は、その10分間で、レフェリーの資質や癖を見抜いていたのです。あ、ここまでならこのレフェリーは反則を取らないな、これをやると取られるかと。

これは日本人にはない感覚です。日本人は、ルールに従ってプレーすることがフェアだと思っています。ところが、ラグビーにおいては、そのルールの適用がレフェリーの主観によって決定される場面が非常に多いのです。たとえば、タックルを受けたら「直ちに」ボールを放さなければならないというルールがありますが、この「直ちに」というのは、別に1秒とかときっちり決まっているわけではありません。レフェリーが「直ちに」ボールを放さなかったと思ったら、笛を吹くわけです。つまり、人によってレフェリングに癖があるのです。

私は、これに気づくと、レフェリーに関してのスカウンティング(情報収集)も行うことにしました。次の試合のレフェリーが審判した過去の試合のビデオを取り寄せ、そのレフェリーの癖を情報として持つようになりました。それまでも、相手チームの選手についてのスカウンティングはしていました。それには約60人のスタッフを使っていましたので、協会からは、お金がかかり過ぎだといわれていたのですが、日本代表が、体格に勝る外国のチームに勝つためには、情報戦においては決して負けてはいけないと思い、何とかレフェリーのスカウンティングも認めてもらいました。

もちろん、こんなことを中学生プレーヤーに教えるのはどうかと思います。これを覚えて、悪いことばかりしてもらっても困りますから。ただ、代表戦という非常に高いレベルの戦いになると、レフェリーの判定という主観的で、あいまいなことが勝負の分かれ目になることはよくあることです。代表クラスの選手なら、日本人でも知っておくべきことです。要は、「ゴール型ゲーム」の場合、駆け引きということが生じますから、状況に応じた判断・実行ができる個人の能力と、情報がゲームの結果を左右する非常に大きな要素だということです。これらが今まで、日本人は得意ではなかったわけです。ただ、最近では、スポーツ界でも情報の部分については随分と改善され、ラグビーではもちろん、聞くところによるとサッカーでも、スカウンティングがかなり重視されているようです。残された問題は、個人の能力をいかに高めるかです。

「モデル」には頼れない

最近、ビジネスの世界では、「モデル」という言葉がよく使われています。どんなビジネスモデルを作るか、という風にです。ただ、私は、「ゴール型ゲーム」の場合、もはや「モデル」すらも古臭いと思っています。もちろん「モデル」は、ある場面では非常に効果を発揮します。ただ、その効果が長続きしないのです。ある「モデル」が一度使われると、あっという間に風化してしまいます。あまりにも風化の速度が速過ぎて、元が取れないのです。

私が現役だった20年ぐらい前は、日本代表が新しい戦術という「モデル」を引っさげて、ニュージーランドに遠征し、効果を出したことがあります。それで、これはいけるというので、半年後、ヨーロッパに遠征にして、また同じ戦術で効果を発揮しました。また半年後、つまり最初から数えると1年後、アメリカに遠征して、またまた効果を発揮しました。でも、今は、こんなことは絶対に考えられません。衛星放送が発達し、世界各国で行われる試合がリアルタイムで見られる時代なのです。当然のことながら、情報は瞬く間に伝わり、次の対戦チームは、我々のチームの新しい戦術を手に取るようにわかるわけです。彼らも、私たち同様、スカウンティングをしっかりやっているわけです。したがって、新しい戦術が通用するのは、たった1試合だけなのです。その新しい戦術をつくり上げるのに、ものすごい時間と労力がかかっているにもかかわらずです。

もっと大きな仕事やプロジェクトになれば、組織やシステムというものも重要でしょう。ただ、私がスポーツの世界で思うのは、もはや組織やシステムといった「モデル」には頼れないということです。あるフォーメーションや戦術を状況に応じて、瞬時に作り、状況が変われば、そのフォーメーション等を瞬時に壊し、新しいそれを瞬時に作る。こういうことが必要になってきているのではないかと思います。そうなってくると、組織やシステムではなくて、人の問題になってきます。変化した状況に、「個人」がどう判断し、対応していくか。その「個人」の能力が問われるわけです。

人の問題としてリーダー論がありますので、ここで少し横道に外れますが、このことについても触れておきたいと思います。

ラグビーの場合、チームリーダーとゲームリーダーとは昔から区別していました。確かにこの2つは、はっきりと分けられます。チームリーダーは、そのチームの柱となる者で、いわば人格者でなければいけません。ある程度、みんなから尊敬され、彼の一言にみんなが敏感に反応するというようにです。これに対し、ゲームリーダーは、少しいいかげんなところはあるけれども、試合をさせると、すばらしく試合を読む目があるとか、試合を引っ張る力を持っています。人格者であるゲームリーダーは、必ずしもこの能力に秀でているわけではありません。皆さんの会社でも、そういう方々はおられませんか。あの人は、仕事はまあまあだけれども、人間としては立派で尊敬できるとか、また、あいつは、ちょっといいかげんなところはあるけれども、仕事をさせれば一流だ、結果を出すとかいうことです。今までの日本では、チームリーダーとゲームリーダーを一緒のものと考えていたようですが、これから人を育てる場合、2つは分けて考えたらどうかなとも思います。

そういうわけで、私は今、「個人」にターゲットを絞った指導法を模索中です。「個人」の能力が高くなったら、自然発生的に、チームとして、いいプレーができるのではないかと思います。ただ、これは非常に難しい。今までの指導法が通用しません。

新しい指導法のヒント

日本の従来のコーチング方法は、怒ることからスタートしています。指示されたことができなければ、「何で、こんなことができないんだ!」と怒るわけです。できなかった場合、時には、罰が発生することがあります。さらにひどい場合は、連帯責任といって、できた選手にも罰が加えられます。こういう指導法では、いわれたことはちゃんとできるようになるでしょう。でも、それ以上のことができない。つまり、創造的な行動がほとんど行われないわけです。もちろん今までのやり方には、安定したチームを作れるという利点はありますが、これからは、どうもそれだけでは十分ではないように思います。

2月の中旬、ナショナルコーチアカデミー開設に向けての研究会が筑波大学で開かれましたが、そこで私はおもしろい、今後の指導法に参考になる話を聞きました。高橋先生という体育指導では有名な方の研究ですが、先生は、多くの小中学校の体育の授業を例にして、いかに子供たちをやる気にさせ、自発的にスキル向上の努力をさせるかということを研究なさいました。

ある体育の授業で、今日はドッジボールをやるとします。その場合、次の3つのステップを踏むわけです。まず、インストラクション。つまり、ドッジボールとはどういうものであるかを説明します。次にマネージメント。これにはいろいろあるでしょうが、たとえばチーム分けです。最後にアクティビティー。実際にドッジボールをやるわけです。この場合のミソは、まず、インストラクションの時間はできるだけ短くし、アクティビティーの時間を長く取ること、そして、マネージメントは、子供たち自身にやらせること、そして、何よりも、いいプレーをしたらほめるということです。

授業の後、子供たちにアンケートを取り、授業がおもしろかった子とおもしろくなかった子とに分けてみますと、次のような傾向が出てきたということです。授業をおもしろいと思った子は、その競技のスキルが上達し、おもしろくなかった子は、あまりスキルの上達は認められませんでした。考えてみれば当然で、授業がおもしろければ、積極的にボールのあるところに行こうとし、プレーする回数が増えるわけですから、うまくなります。特にほめられれば、なおさら積極的にプレーしようとするでしょう。逆に授業がおもしろくなかったり、叱られてばかりいれば、先生に怒られない程度にプレーするだけで、積極的に参加することはないでしょう。実際、おもしろい授業になると、子供たちの間から、自然発生的に、いいプレーには拍手が出たり、歓声が飛び交うようになるということでした。私は、これは大変おもしろい現象だなと思って聞いていました。これからの指導法、「人」の育て方の大きなヒントがあると思っています。

自発性を促す指導法

これをラグビーにおいて考えてみましょう。実際、私にも経験があることですが、タックルの下手な選手をどうやってうまくさせるか。

一般の方は、ラグビー選手はみんな、タックルが好きだと思っていらっしゃるようですが、これが実は大間違いです。ほんとうは、みんな、タックルは嫌いなのです。もちろん、中にはタックルが好きで好きでたまらないという人もいますが、それは例外中の例外と思ってください。できたらタックルはしたくないから、ボールを持った相手が自分の前に来る前に、誰かほかの選手がタックルに行ってくれないかなと願っているものなのです。タックルするよりも、みんな、ボールを持って走り回りたいのです。 そんな嫌いなタックルをどうやって上達させるか。もちろん、これにはいろいろな方法があるでしょうが、自らの意志で、タックルの練習に取り組もうという意欲が出てこないと、これはなかなか上達しないものです。ここでは、これでうまくいったという私の経験をご紹介しましょう。

タックルが下手だとか、嫌いな選手というのは、大体の場合において、背が低く、体の細い選手です。しかし、そういう選手は逆に足が速く、トライも多くします。この場合、その選手に無理やりタックルの練習をさせても意味がなく、私は周りの選手に、「試合中、今までの倍、あいつにボールを渡せ」と指示しました。そうしたら、それまで1試合に2トライだったのが4トライするようになります。プレーの機会が倍になるわけですから、当然の結果です。すると、「おお、すごいな」とほめるわけです。タックルのことにはあまり触れない。それを続けていくと、ボールを渡せといっても限界があるので、それ以上の活躍がなかなかできなくなります。そうなると、その選手は考えるわけです。これ以上、ボールを持って走れる機会を増やすにはどうしたらいいのかと。タックルというのは、ラグビーで、「ターンオーバー」するための重要で基本的な技術ですから、当然、自分でもタックルをしなきゃいかんなと思うようになるわけです。ようやく、自分の不得意で、嫌いな部分に目が向くようになります。ここがスタートポイントです。

そうなると、その選手もタックルに行こうとするようになります。でも、すぐには、なかなかうまくいきません。そこで、タックルの練習を自発的にするようになります。ただ、今まで、あいつはタックルしないとか、タックルが下手だとさんざん周りの人からいわれていたので、いきなり自分から、その練習を始めたのを知られるのは照れ臭く恥ずかしいので、全体練習が終わった後、居残りで、こっそりと1人で練習します。このときに、我々コーチは見てはいけません。見ないふりをすることが大事です。

自分の意志を持って、練習を始めると、その効果が出るのは速いです。そのうち、見た目にも上達がわかるようになります。そうしたら初めて、私は「ばかほめ」するといっていますが、ほめまくるのです。「おまえ、すごいな。いつの間にタックルできるようになったんだ?」と。そうすると、彼は恥ずかしそうに「いや、実は、ちょっと練習してたんです」というので、「おお、そうか。それは知らなかったな」と、さも初めて知ったふりをします。そうすると、これはもはや公の場で認められたことになりますから、彼も堂々とタックルに取り組み、タックルのうまい選手やコーチに、「どうしたら、うまくいくんですか」とか、「どんな練習をしたらいいんですか」と聞くようになります。そこで、ようやくタックルの本格的な練習を始めることができ、またスキルアップにつながるというわけです。やはり、自発性というのは大切なことで、これからのコーチング、すなわち「人」作りにおいては、「個人」の自発性を促すのが大変重要なポイントではないかなと思います。

私がいう「個人」が主体となったチーム、組織づくりというものに対してはもちろん反論があるでしょう。そんなことをしていたら、統制が取れないと。その批判も理解できます。ただ、私が前提としているのは「成熟した個人」なのです。たとえば、今のタックルの下手な選手の例でも、その選手が、ラグビーそのものを非常に好きであることと、向上心があることが前提となっています。このような「成熟した個人」であれば、「モデル」に頼らないで、個人の判断・実行に基づくゲームの進め方が可能になると信じています。

「受け手」を育てる

私は今、「ゴール型ゲーム」におけるパスというものを研究しています。「ゴール型ゲーム」においては、パスは1つの戦略的行為で重要なものだからです。しかし、我々日本人はというか、少なくとも日本のラグビーにおいては、パスはあまりうまくありません。これはなぜかということを考え、私なりに少し研究してみました。

パスには当然、「出し手」と「受け手」がいます。パスが失敗した場合、よく日本では、「出し手」が悪いといわれます。「あいつのパスには愛情がない」などといって、愛情って何だ? と思ったりもしますが、要は丁寧ではないということなのでしょう。ところが、パスという技術においては、「出し手」と「受け手」、どちらが難しいかというと、圧倒的に「出し手」のほうが難しいのです。「出し手」は一瞬のうちに全体の状況を把握し、1番適切なタイミングで、1番適切なところ、それも「受け手」が構えたところにピタッと出してやらないとだめなわけです。これは非常に難しいのですから、これ以上、「出し手」に負荷をかけるのはやめようじゃないかと私は思っています。そこで、私は今、パスの「受け手」に重点を置いた指導をしています。

フランスという国は、ラグビー、サッカー、ハンドボールといった「ゴール型ゲーム」が強い国です。最近では、アメリカのプロバスケットボールNBAに進出した選手もいます。それでいて、フランスは、ご存じのとおり、個人主義の国でもあります。協調性だとかは、どちらかというと、あまりうるさくいわない、個人が主体の国です。そんな国にもかかわらず、パス、つまり「出し手」と「受け手」との間のコミュニケーションの技術が非常にうまいのです。彼らは、パスがうまくいかなかったら、「受け手」が下手だといいます。逆にいうと、「出し手」の技術が、それだけしっかりしているからいえることではあるのですが、そんなことを平気で、この個人主義が発達した国の人たちがいうのは、ほんとうにおもしろいことだなと思います。

それで、私が何をいいたいかというと、我々の一般社会においても、もう少し「受け手」が賢くなったほうがいいのではないかということです。今、我々の社会にはいろいろな問題があります。それに伴い、大変多くの情報が発信されているわけですが、我々その情報の「受け手」は、その膨大な情報に踊らされ過ぎているのではないかと思うのです。ある問題に関して、情報を鵜呑みにし過ぎて、自分自身で評価ができなくなっているのではないかと思います。

「受け手」を賢くさせることの利点は、ビジネスの面でも見ることができます。「受け手」を賢くさせることが、仕事を進める上で、すごい業績向上につながることもあるのだということです。

私は、某企業の方と、こんな話をしたことがあります。店側が提供するサービスといっても限界があり、これ以上は採算的に無理だという点があるというのです。とすると、サービスの「出し手」に、それ以上の負担をかけるのではなく、逆にサービスの「受け手」であるお客さんを賢くさせなければいけないというのです。たとえば、この店ではセルフサービスで、飲み終わったカップは自分で返すとか、ゴミは所定の場所に捨てるとか、ちょっとした汚れは、備え付きのナプキンで拭いてきれいにするだとか、あるいは椅子は自分でしまって帰るとか、そんなちょっとしたことをお客さんが自発的にやるように教育できれば、人件費を2人分減らせるというのです。これはすごいことではないでしょうか。もうそろそろ、サービス競争の面においても、こういうところに来ているのではないかと思います。

「成熟した個人」を確立するため、自発性を促し、「受け手」として賢くする。このコーチングの指導法をどう作っていくか。これは多分、スポーツの世界ばかりではなく、学校教育の中でも必要なことではないかなと思います。

佐野忠克氏のコメント

実は今回、平尾さんをBBLセミナーの場にお呼びしようとしたのは私です。というのは、数年前、ある事情から、平尾さんにお話を伺いたいことがあって、お会いした時に、人作りや組織作りにおいて非常に新鮮な、今までの日本では考えられなかったお話を聞いて、感銘を受けました。その後も何回か、同じような機会があったのですが、こんないい話は皆様にもぜひ聞いていただきたいと思ったからです。

また、パスの「出し手」と「受け手」の話を聞きながら、私は、現役時代の平尾さんの意外性に富んだパスを思い出していましたが、平尾さんは、最初はスタンドオフで、その後、センターバックになられ、パスの「出し手」と「受け手」両方をご経験されたからいえる話ではないかと思います。

私自身の経験からも、平尾さんのお話には頷ける点が多々あります。私は今、主に対外経済政策を担当していますが、国際的な交渉の場では、どこかで、ある日突然、違うことが、ぱっと動き始めることがあります。これは国際会議ではよく見られる光景ですが、休憩時間とかに、何人かの人が集まって鳩首会議をしていることがあります。そんな光景を見ると、これは、ひょっとしたら今までとは違う流れになるかもしれないぞ、じゃ、次にどう動くかべきかと、すぐさま考え、行動に移す。そんなセンシティビティーが必要とされるケースがしばしばあります。昔のようにバイ(二国間)の交渉においては、「野球型ゲーム」のように攻守が整然と入れ替わることもあったのですが、最近のようにグローバライズされた世界では、マルチ(多国間)の交渉が多く、この場合、平尾さんがいう「ゴール型ゲーム」のセンスが非常に大事になってきています。

これまでの日本は、産業の空洞化や、国際競争の面でも外国勢に負けたり、失うことが続きました。これから、その失地をどうやって回復していくか。そのヒントが本日の平尾さんのお話の中にはあったような気がします。

また、「モデル」の風化は速いという話も、一度、特許とか、ノウハウとかが外部化されてしまうと、いくら特許権などで守られていても、それがすぐさま陳腐化し、新しい技術が次々と生まれてくることは、皆様もビジネスの世界で体験されているのではないでしょうか。

質疑応答

Q:

「成熟した個人」を作り、その「個人」が主体となった組織を作り、激しく変化する情勢の中で柔軟に対応していくというお話には同感いたします。ただ、現在の経営者の方たちは、「成熟した個人」を作りながらも、他方で一定のパフォーマンスあるいは結果を出さないといけません。その狭間で皆さん悩まれているのではないかと思います。この点は、どう対応したらいいのでしょうか。

A:

最初から大きなことはせず、まず小さな成功例を作ることが大事だと思います。たとえば、ラグビーで合宿をする場合、コンディション維持または増進と称して、起床・就寝時間が監督などによって決められるのが普通ですが、私は、あるとき、それを選手たちに任せました。自分たちのコンディションは自分たちで作れということです。それでうまくいったら、選手たちも、だんだん次はどうしようか、練習はこうしたらどうかとか、もっと上を目指そうという気になってきます。そうやって小さなことから、少しずつ大きなことに広げるというサイクルをつくり、習慣づけ、続けていくことかと思います。

Q:

マスコミの情報に我々は振り回され過ぎているというお話がありましたが、平尾さんが現役時代、あるいは監督時代を通して、マスコミをどう評価し、どう利用されていましたか。

A:

確かに今は、マスコミが社会に影響力を持ち過ぎているのではと思います。ただ、スポーツにおいては、とにかく結果がすべてですから、マスコミからの評価ははっきりしていると思います。
チームをマネージメントしていく上で、マスコミは非常に重要な位置づけでした。マスコミに、我々のチームがやっていることはこういうことだということを、きちんと理解してもらわないと、マスコミを通じて情報に接する一般の方々に誤解が広がってしまうからです。その点は、私も気を使いました。

Q:

少年ラグビーの普及について、何かお考えはありますか。

A:

日本のスポーツの世界は、企業と学校に集中し過ぎていると思います。私は、もうちょっと幅広く、みんなが参加しやすいような環境を整えるべきだと考えており、その一環として、現在、「SCIX」というNPO法人においてラグビーチームを作り、少年ラグビーの指導に当たっています。
文部科学省においても、最近、総合型地域スポーツクラブの創成促進ということで、従来の企業・学校中心の枠組みを変えていこうという試みがなされ、地域のスポーツクラブに行政からの支援もありますが、行政任せにも限界があります。もっと企業だとか、地域の人たちが、自分たちが持っている資源、たとえば企業のグラウンドだとか、経験者によるコーチだとか、いろいろなものを持ち寄り、地域のクラブを支援するという環境ができてくればと思っています。そうすれば、今までにないようなスポーツ環境が整備されるのではないかと思います。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。