労働市場制度改革PJワークショップ

最低賃金改革 (議事概要)

イベント概要

  • 日時:2012年9月11日(火)10:20-17:45
  • 会場:経済産業研究所国際セミナー室(東京都千代田区霞が関1丁目3番1号 経済産業省別館11階1121)
  • 2007年に始まった労働市場制度改革プロジェクトでは、労働法制、労働時間、非正規雇用など、さまざまなテーマに取り組んできたが、2011年からは新たに賃金・処遇についての研究を開始し、その中でも特に最低賃金に焦点を当てたサブグループを作り研究を進めている。これまでの研究成果を報告しつつ、政策担当者を交えながら最低賃金政策について自由・闊達な議論の場とすることを目的として、ワークショップ「最低賃金改革」を開催した。

    議事概要

    第1部

    報告「最低賃金の労働市場・経済への影響 - 諸外国の研究から得られる鳥瞰図的な視点-」

    鶴 光太郎 (RIETIプログラムディレクター・ファカルティフェロー / 慶應義塾大学大学院商学研究科教授)

    最低賃金は未熟練労働者、特に最低賃金水準の労働者の雇用に対して明確な負の影響を与えることが多くの実証分析によって明らかにされている。Neumark and Wascher(2007)が最低賃金の雇用に与える影響を分析した論文102本を調べたところ、そのうち雇用を増やす、もしくは雇用への効果無しという結果を示す論文はわずか8つであった。正の効果を主張する代表的研究表としてCard and Krueger(1995)がある。最低賃金が引き上げられたニュージャージー州と据え置きされた隣接州のファーストフード店の雇用変化を比べたところ、ニュージャージー州でわずかに増加(隣接州で減少)したというものである。この論文は経済学者間の論争を喚起し、その後の最低賃金の研究に大きな影響をもたらした。しかし、最低賃金の研究を包括的にまとめたNeumark and Wascher(2008)は、このような正の効果(もしくは影響なし)を結論とする論文は、短期のパネルデータを用いた分析やケーススタディが多く、最低賃金の長期的な効果や、他産業への雇用の代替を見落としてしまう問題点を指摘している。

    最低賃金が雇用に与える影響以外に、所得分布や製品価格に対する影響を分析した研究もある。所得分布についての分析からは、最低賃金は低所得世帯、貧困世帯に影響を与えない、もしくは貧困を増やすという結果が確認されている。また、製品価格への影響を分析することは完全競争モデル、買い手独占モデルなどの分析の前提となる理論モデルの識別の意味でも重要であるが、アメリカの多くの分析結果は価格に正の影響を示し、完全市場モデルと整合的である。

    では、雇用を減少させ、貧困者を救わない最低賃金政策はなぜ支持されるのか。Neumarkらの2004年の研究によれば、最低賃金政策の主な支持者は実は労働組合である。最低賃金上昇は、労働需要をよりスキルの高い労働者にシフトさせるので、労働組合員の賃金や労働時間にプラスの影響を与えるというものである。

    このようにアメリカを中心に最低賃金に関する分析の蓄積が進む中、日本の最低賃金の実証研究は過少であり、日本の最低賃金政策は理論・実証研究とは無関係に決定される現状がある。イギリスでは99年に最低賃金が再導入され、その際にLow Pay Commissionという最低賃金の改定額等を決定する諮問委員会が設置された。この委員会には労使代表の他、独立委員として労働経済学者などが入り、改定額の決定や制度改正が綿密な実証分析に基づいて行われている(evidence-based policy)。日本がイギリスから学ぶべき点は大きい。

    報告「最低賃金と雇用:2007年最低賃金法改正の影響」

    川口 大司 (RIETIファカルティフェロー / 一橋大学大学院経済学研究科准教授)
    森 悠子 (日本学術振興会特別研究員)

    本報告論文では、2007年の最低賃金法改正による最低賃金の大幅な変動が労働市場に与える影響を検証するために、2006年から2010年の賃金構造基本調査と労働力調査を用いて県別パネルデータを作成し、最低賃金と雇用(就業率)との関係を検証している。

    2007年の最低賃金法改正は、生活保護水準と最低賃金の逆転現象を5年かけて解消することが目的であり、実際にデータを用いて確認すると、2007年の生活保護水準と最低賃金の差額が大きかった県ほど、最低賃金は大きく上昇している。

    次に、最低賃金の上昇が低賃金労働者の賃金を上昇させるのかを検証した。特に、最低賃金の影響を最も受ける10代男女労働者の賃金分布への影響を見ると、最低賃金が10%上昇すると下位10パーセンタイルの労働者の賃金が3.9%上昇している。(20、30パーセンタイルも同様。)

    そして、最低賃金の上昇が10代の雇用へ与える影響をWLS(重み付き最小2乗法)を用いて推定すると、10%の最低賃金の引き上げは雇用を5%減少させている。ただし、もし景気状況が良い県ほど最低賃金を上昇させやすく(景気状況が悪ければ、最低賃金が上げにくい)というような関係がある場合、WLSによる最低賃金の係数の推定値には内生性による正のバイアスが生じる。この点を考慮するために、生活保護と2007年時点の最低賃金と生活保護のギャップに基づく最低賃金額予測値を操作変数とする推定を行った。推定結果によれば、10%の最低賃金の引き上げは雇用を9.6%減少させていた。

    ディスカッション

    Q: 川口・森(2009)は、10代の雇用だけではなく中年女性の雇用を減らすという結果を得ていたが、今回は中年女性への影響は確認されない。この差はなぜ起こっているのか。

    A: 川口・森(2009)では、中年の既婚女性の雇用に対し負の効果があり、これはパートタイマーの雇用を減少させていると考えられる。今回の推定は、データや推定方法の違いに加えて、既婚・未婚の別を考慮した推定は行なっておらず、その影響もあるかもしれない。

    Q: 推定結果によれば、最低賃金の上昇は、25-29歳の女性や、特に最低賃金以下で働く比率の高い65歳以上の男性の雇用に正の影響を与えているが、どのように解釈するのか。

    A: 最低賃金の上昇によって10代の若年労働者が解雇され、代わりにより経験豊富な高齢者や20代後半の女性が雇用されているというのが1つの解釈だが、この点については今後検討が必要である。

    A: 他の年齢グループへの影響のような労労代替の検証は、年齢グループを別の生産要素とする生産関数を想定した上での分析が必要となる。その他、留保賃金の高い労働者が労働市場に入ってくる供給側の要因についても考慮しなければならない。

    第2部

    報告 "How do Firms Respond to an Increase in Minimum Wage? Direct Evidence on Firm's Internal Adjustment"

    奥平 寛子 (岡山大学大学院社会文化科学研究科准教授)
    大竹 文雄 (大阪大学社会経済研究所教授)
    滝澤 美帆 (東洋大学経済学部准教授)
    鶴 光太郎 (RIETIプログラムディレクター・ファカルティフェロー / 慶應義塾大学大学院商学研究科教授)

    競争市場モデルに基づけば、最低賃金の上昇は企業の雇用量を減少させるが、近年蓄積されつつある実証分析の結果は、必ずしもこの負の関係を示すものばかりではない。本報告の目的は、最低賃金の上昇に対する企業の行動を明らかにするとともに、先行研究間の結果が異なる理由を説明することにある。

    最低賃金が上がったとしても、標準的な競争市場モデルが想定するように企業が十分に雇用量を削減できない場合、賃金と労働の限界生産物価値が乖離する状況が発生する。本研究ではまず1981-2009年の工業統計調査(甲票)のパネルデータを用いて、この乖離の幅(ギャップ)を計測した。前の年の労働の限界生産物価値が賃金率よりも低ければ、その企業は最低賃金が上昇する前から過剰雇用を抱えていることになるので、最低賃金上昇にともなって特に大きな雇用量削減のプレッシャーを受けることになる。分析では、こうした過剰雇用をもともと抱える企業への影響を取り出した。

    推定の結果、最低賃金が上昇すると、もともと過剰雇用を抱える企業は雇用量の削減のプレッシャーがさらに大きくなるにも関わらず、雇用量を十分に削減することができず、むしろ利潤の低下を受け入れることが明らかになった。これまでの研究で最低賃金の雇用量に対する負の影響が必ずしも観察されてこなかった理由は、標準的な経済学が想定する以上に企業が最低賃金のコストを負担してきたためと考えられる。

    ディスカッション

    Q: 解雇コストが高いとギャップがプラスになるという説明があったが、たとえば解雇コストが高い産業でギャップが大きいというようなことはデータから確認できるのか。

    A: 今後、各都道府県のギャップと、裁判例を使って作成した各県の解雇コストの代理変数との関係を検証する予定である。

    Q: 必要賃上げ率のデータをLower bound(地域別最低賃金・労働時間少)とUpper bound(推計産業別最低賃金・労働時間多)という2つのケースで作成し、それらを利用した推定結果が異なるのは、労働者の質の違いや人件費に含まれる手当の違いなどを反映しているのか。

    A: このモデルでは、事業所内で全従業員が同じ賃金で雇われ、その賃金が最低賃金水準以下かを議論している。Upper boundのデータの方が、平均賃金より下の水準で一部の労働者の賃金が最低賃金の影響を受ける状況を把握できているという印象を持っている。

    報告「最低賃金と地域間格差―実質賃金と企業収益の分析」

    森川 正之 (RIETI理事・副所長)

    2007年以降、大都市圏を中心に最低賃金が大幅に引き上げられ、最低賃金の地域間の差は拡大したように見える。しかし、全国物価統計調査の民営借家世帯の数字を用い、家賃の違いも考慮した物価で実質化すると、地域間の格差はむしろ縮小している。従来、名目最低賃金が高い大都市圏で実質最低賃金が低いという逆転現象が存在したが、2011年には名目最低賃金が高いところは実質最低賃金も高いという正常な関係が確認される。

    ただし、都道府県の人口密度に対する最低賃金の弾性値を計算すると、一般労働者の平均賃金の弾性値に比べて相当に小さい。つまり、人口密度の低い都道府県では割高な最低賃金が設定され、その結果、経済活力に負の影響をもたらしている可能性がある。このことを確認するために、最低賃金の高さがその県に所在する企業の収益に負の影響を与えるか実証分析した。具体的には1998年から2009年の企業活動基本調査パネルデータを用いて、最低賃金の一般労働者平均賃金に対する比率が、企業の売上高利益率に与える影響を推定した。さらに、平均賃金の低い企業ほど、最低賃金上昇の影響を強く受けることを予想し、最低賃金と各企業の平均賃金率の交差項を推定に加えた。推定結果から、最低賃金が1標準偏差高くなると、売上高利益率を約10%低下させることが確認された。また交差項の符号はプラスであり、予想通り比較的平均賃金が低い企業ほど、最低賃金の上昇がより利益率を下げることが示された。産業別にみると、サービス業や小売業で最低賃金の企業収益への影響が大きい。

    ディスカッション

    Q: 最低賃金の上昇で企業の利潤率が下がった結果、倒産した企業はどれくらいあるのか。

    A: Draca et al.(2011)はイギリスの企業データを用いて、最低賃金が企業の純参入率(参入率マイナス退出率)に負の影響を与えていることを示している。今回使用した企業活動基本調査は従業員規模50人以上を対象とした調査のため、参入・退出を明示的に測ることはできないが、日本でも退出は増えると予想される。ただし、日本では中規模企業に家族企業が多く、利益が下がってもなかなか退出しない傾向がある。そのため、家族企業が多い地域では、企業の退出ではなく、経営者の収入の減少などを通じて地域の活力を低下させることが予想される。

    Q: 最低賃金の引き上げに際し、中小企業を政策的に支援することは正当化されるのか。正当化されるとすれば、どのような政策ならば有効か。

    A: そもそも最低賃金を引き上げ過ぎないのが正論だが、引き上げを前提とするならば、賃金水準の低い企業への支援は正当化できるというのが本分析のインプリケーションである。企業の活力を削がないために、設備投資や研究投資に対する減税などは有効な政策であると考えている。

    第3部

    報告「最低賃金と労働者の『やる気』」

    森 知晴 (大阪大学大学院博士課程 / 日本学術振興会特別研究員)

    企業がなぜ市場賃金以上の賃金を払うのかを説明する有力なモデルの1つにGift - Exchangeモデルがある。このモデルにおいて、企業は市場賃金よりも高い賃金を「善意」で支払い、それに対し労働者は高い努力で報いる。本報告論文では、このモデルを最低賃金に適用し、企業が最低賃金水準以上の賃金を支払うことで労働者の努力水準が高まるか、経済実験の手法を用いて検証した。

    実験では20人程度の学生に企業役・労働者役1名ずつ対になってもらい、各条件下での賃金提示、努力水準選択を行わせた。条件は、最低賃金の有無、企業が労働者を雇わないという選択肢の有無(つまり失業がある場合と完全雇用の場合)である。モデルによれば、最低賃金が仮に40に設定されると、企業の選択できる賃金は40~100と最低賃金が無い場合(0~100)に比べて選択幅が減少するので、企業が「善意」をアピールする効果が弱まり、労働者の努力水準が下がると予想される。

    実験の結果、最低賃金は労働者の努力を低下させるという、モデルの予想と整合的な結果を得た。ただし、失業がある場合には、最低賃金が努力水準を低下させる効果は確認されなかった。

    ディスカッション

    Q: 実際の賃金分布を見ると、最低賃金より少し上の水準に偏りができる。このようなある種のスピルオーバー効果がなぜ発生するのかは実はまだよくわかっていない。今回の実験の結果から、労働者がやる気を失わないよう企業は少し高めの水準を払うためにスピルオーバーが発生するのだと説明してはどうか。

    A: 本実験結果の賃金分布をみると、やはり最低賃金水準の賃金分布はさほど厚くなく、それよりも少し高いところがやや厚くなっている。ただし、分布の検証には、より大きなサンプルサイズが必要と考えている。

    Q: 効率賃金モデルは、契約が不完備でアウトプットが低くとも、少なくとも短期的にはペナルティ(解雇)はないという、日本の長期雇用や、アメリカの医者などの雇用を考える際に有用である。一方、最低賃金に近い賃金水準での労働契約の場合、単純労働で一定レベルのアウトプットが出せない場合は解雇されるというようなモデルの方が妥当ではないか。

    A: 今回の実験は、繰り返しのない1回きりの実験なので、企業は労働者の努力水準を観察した後に何もすることができない。解雇メカニズムを入れた実験についても検討したい。

    報告「最低賃金の決定過程と生活保護水準との関係」

    玉田 桂子 (福岡大学経済学部経済学科教授)
    森 知晴 (大阪大学大学院博士課程 / 日本学術振興会特別研究員)

    最低賃金は「労働者の生計費」、「類似の労働者の賃金」、「企業の賃金支払い能力」の3つの基準に配慮して決めるよう最低賃金法に記されている。本報告では、地域別最低賃金がこれら3つの基準に沿っているのかを中心に、最低賃金の決定要因について1978年からの県別パネルデータを作成して実証分析を行った。

    地域別最低賃金は、まず中央最低賃金審議会が目安となる引き上げ額(目安額)を提示し、それを勘案しながら地方最低賃金審議会が実際の引き上げ額を決定するという方式がとられている。この決定方式に従い、目安額、引き上げ額の決定要因をそれぞれ推定し、引き上げ額については目安額からの影響を受けているのかを確認した。独立変数には、3つの基準の代理指標の他、最低賃金改定に影響を受ける労働者と最低賃金以下の賃金を受け取っている労働者のそれぞれの割合(影響率、未満率)、マクロ指標として有効求人倍率、労働組合の影響を分析するために労働組合組織率等を用いた。

    年ダミーを加えた目安額の推定結果によれば、3つの基準の代理指標を含めて統計的に有意な変数はなく、目安額の改定額には地域差がない可能性を示している。これは、中央最低賃金審議会は特に近年、4地域(A~Dランク)で同額の改定額を提示する傾向があることからもその可能性を否定できない。目安額は引き上げ額に対して有意な影響を与えていたが、3基準の指標は有意でなかった。従って、地域別最低賃金が3つの基準に沿っているという事実は確認できなかった。

    ディスカッション

    Q: 年ダミーを含めると、全ての変数の有意性が落ちてしまうということは、最低賃金の決定に地域のショックが考慮されていないと解釈できる。政策的視点に立った場合、これは最低賃金の決定方法として理想的であるのか、そうではないのか。

    A: 中央最低賃金審議会は各地方のショックの違いを重要視していないのではないかと推測される。全体的なショック、たとえばリーマン・ショックで景気が悪くなったことは考慮するが、そのショックが都道府県で異なることは考慮されていないのかもしれない。

    Q: 目安額が引き上げ額に対して決定的な影響を与えているという結果は、地方最低賃金審議会は必要ないということを示しているように思う。あるいは中央最低賃金審議会の意見があまりに強過ぎるせいで地方に決定権が無いのであれば、中央最低賃金審議会こそ必要ないのかもしれないが、どう考えるか。

    A: この推定結果からは、地方最低賃金審議会の存在意義を確認できないが、地方の労働市場については地方最低賃金審議会の方がよくわかっているはずなので、地方がより自主性を発揮できる形になれば良いと考えている。

    報告「最低賃金と貧困対策」

    大竹 文雄 (大阪大学社会経済研究所教授)

    大竹・小原が「全国消費実態調査」を用いて年齢階級別相対貧困率を計算したところ、1990年代後半から25~35歳の若年層と、その子どもの世代である10歳未満の貧困率が上昇していた。日本では特に子供の貧困が深刻になっている。

    貧困対策の1つとして最低賃金引き上げが議論されるが、川口氏の最低賃金に関する一連の研究から、貧困対策としての最低賃金の引き上げの有効性は小さいことがわかっている。

    まず、最低賃金の引き上げによって、低賃金労働者は職を失う可能性がある。川口・森(2009)(2012)の県別の最低賃金と賃金分布の図表から、最低賃金の引き上げによって雇用増が見込まれる「買い手独占市場モデル」が当てはまるような県(例、2003年の青森県・男性)は少ないことが見て取れる。日本の多くの県には、最低賃金によって雇用が減少する完全競争モデルに近いタイプの労働市場が存在しているのである。

    そして、最低賃金水準の労働者の多くは世帯所得が500万円以上の世帯員であり、世帯主で年収が300万円以下の相対的に貧しい労働者の比率は15%弱である。つまり、貧困対策として最低賃金を引き上げても、その恩恵を受ける多数は貧困者でないことになる。また、川口・森(2009)の計算によれば、現在の最低賃金水準の労働者(世帯主)の年収を200万円以上にするためには最低賃金を1000円以上に引き上げなければならないが、その結果、先述の通り低賃金労働者の雇用が奪われる可能性がある。

    以上から、最低賃金の引き上げは貧困対策として非効率な政策であり、給付付き税額控除や勤労所得税額控除のような、貧困者にターゲットを絞った再分配政策の方が有効と考えられる。所得の捕捉が難しい場合の次善の策として、子供を持つ親への所得控除、現物給付、定額の給付などがあげられる。

    第4部

    コメント及び報告

    有賀 健 (京都大学経済研究所教授)

    タイの最低賃金引き上げの事例

    タイでは2012年4月に平均40%の最低賃金の引き上げが実施された。2011年に実施されたタイの高卒者アンケートを用いた計算によれば、最低賃金引き上げによる市場賃金水準の変動は生じないと仮定した上で、最低賃金未満となる高卒以下の労働者の割合は36%であった(改定前は4%程)。一方、TDRIのDilaka Lathapitat 氏の暫定的な推計によれば、この改定は24歳未満の高卒以下の失業率を5%高め、労働参加率を11%下落させるというマイルドな影響に留まっている。

    大きな最低賃金の引き上げがタイの労働市場にそれほど影響を与えない理由は2つある。タイは1997年の経済危機にバーツの切り下げを経験し、それ以降実質最低賃金は低下し続けた。生産労働者の多くは最低賃金で雇われるので、あたかも工場間で談合が行われたかのように賃金が低く押さえられ、最低賃金引上げによる雇用の減少は小さかった可能性がある。また、タイではインフォーマルセクターの就業率が7割と高く、最低賃金の引き上げによって職を失った人はインフォーマルセクターに吸収されるので、失業が増えないのかもしれない。

    タイの事例は、部分均衡分析によるだけではわからないことがあることを示唆している。たとえば、最低賃金の上昇によって職を失った人の全てが失業者になるわけではなく、非労働力化する人もいるかもしれない。最低賃金の影響で失業した人は、他の求職者に比べて失業期間が長いかについてもわからない。日本の最低賃金研究における政策インプリケーションを考える上では、部分均衡分析に限定されず、一般均衡的な視点に基づく実証分析が重要であろう。

    最低賃金政策について、買い手独占モデルが妥当な場合があるとして、それを解消する方法として最低賃金を正当化することはできない。最低賃金制度は、見かけ上あまりコストもかからないので、政治的に濫用されかねないので気をつけねばならない。

    所得再配分などの理由で最低賃金が不可欠ならば、市場賃金との差額は企業負担ではなく税負担で保障すべきである。ドイツの研究では、市場賃金との差を補填するか、最低賃金を引き上げるかでは、失業給付の増加がない税負担による差額補填が望ましいことが示されている。また、フランスでは社会保障費の本人負担分を税で補填する政策が行われている。

    コメント及び報告

    橘木 俊詔 (同志社大学経済学部教授)

    1カ月間、最低賃金水準の収入で生活するという実験を行うと、多くの人は途中で生活費が尽きて実験から脱落する。最低賃金水準ではフルタイムで働いても生活できない状態を改善するために、最低賃金の引き上げ政策は不可欠である。最低賃金の引き上げは失業を増やし、企業の負担を増加させることが予想されるが、それでも国民の合意が得られるであろう最低賃金引き上げの手段として、以下の3つの案を提示したい。

    1つ目に、最低賃金の引き上げによって倒産する企業は生産性の低い企業であるため、むしろ最低賃金の大きな引き上げを利用して市場から退出させ、生産性の高い企業の新規参入を促すという方法である。

    2つ目に、最低賃金と賃金の差額を賃金補助金として支払う方法である。賃金補助金は経済の最適な資源配分を阻害するため最善の策とはいえないが、賃金の上昇は労働者の勤労意欲を高めるので、企業の生産性も向上するだろう。

    3つ目に、相対的に高賃金を享受している一部の正規労働者の賃金をカットして、最低賃金引き上げの資金に回すという方法である。最低賃金の引き上げ額を決める最低賃金審議会の労働側委員には、大企業、男性、フルタイム労働者を代表する連合のみが参加する。最低賃金が上がれば、彼らの賃金がカットされる可能性があるために、連合は引き上げに積極的な行動を示さないのかもしれない。最低賃金審議会に、中小企業、女性、非正規労働などの弱い立場の人たちの意向が反映されない代わりに、彼らの賃金を多少下げて最低賃金を引き上げるという政策が議論されても良いのではなかろうか。

    討議のための整理

    モデレータ:川口 大司 (RIETIファカルティフェロー / 一橋大学大学院経済学研究科准教授)

    最低賃金の望ましい決め方

    2007年からの最低賃金の引き上げが、企業の雇用決定に何らかの影響を与えたことはワークショップの報告から明らかであるが、それでもなお所得再分配の観点から最低賃金の引き上げについて検討を迫られるかもしれない。全体討議で議論されるべき論点の1つに、最低賃金の望ましい決め方がある。報告ではLow Pay Commissionのあり方、中央・地方最低賃金審議会の必要性、最低賃金審議会の代表性の偏りの問題などが指摘された。

    望ましい対貧困政策

    最低賃金政策の批判にとどまらず、その代替策として低賃金労働者の賃金を高め、生活を保障する政策を検討せねばならない。たとえば、賃金保障の方法として給付付き税額控除で割り戻す方法や、社会保障費を直接補填する方法があげられた。また、日本の税制は80年代後半からフラット化したが、高額所得者への累進課税を強化し、その税収で対貧困対策をするという方法もあり得る。さらに、他の対貧困政策に対する国民の抵抗が大きいのであれば、やはり最低賃金の引き上げもありうる。他の対貧困政策と比較し、その効果と政治的実現可能性をセットで考えなければならない。

    Evidence-based policy

    医療分野では、ある治療が本当に効果があるのかrandomizationの手法に基づいて厳密な検証が行われる。翻って経済学では、たとえば最低賃金の上昇に対し雇用は失われないという論文の推定結果を見ると、非現実的な大きさの係数が推定されていることもある。政策決定は、査読に耐え専門家の中で認められた分析に基づいてなされるのが望ましい。

    今後の研究課題

    今後の研究課題にはどのようなものがあるだろうか。たとえば、最低賃金引き上げによって恩恵を受ける多数が非貧困世帯であるとしても、少数でも貧困世帯を救うことができると検証されるのであれば、最低賃金を引き上げるという考え方もあり得るだろう。また買い手独占モデルでは、雇用が増え、生産量が増えるので製品価格は低下するはずだが、これまで最低賃金の製品価格への影響についての日本の分析はない。その他、最低賃金の存在が、働くことの喜びや訓練の機会を求めて低賃金でも働きたいと考える人の雇用にどの程度影響を与えるかを検証することも研究課題の1つと考える。

    全体討議

    生産性の低い企業の退出

    • 最低賃金を利用して生産性の低い企業を退出させなくとも、市場が競争的ならば生産性の低い企業は退出し、高い企業が参入してくるはずである。自然淘汰が起こらないとすれば、何が阻止しているのか。
    • 外国と比べると日本は新規参入・退出が非常に少ない。解雇規制が原因かもしれない。
    • 行動経済学の双曲割引の考え方で、長期の職探しをせず目先の低賃金の仕事を選ぶ労働者がいることを説明できる。このような非合理な労働者がいる限り、彼らを雇って生産する企業は存在し続ける。労働者側の非合理性を排除するために最低賃金を上げるのは、1つの正当な手段である。
    • 最低賃金と市場賃金の差額を国が給付するならば、企業は賃金を低く設定し、残りを国に負担してもらおうとするだろう。その結果生産性の低い企業が生き残るかもしれない。
    • 研究開発補助金・税制で生産性を上げるという政策を前に申し上げたが、技術はスキルの高い労働者との補完性が強いため、最低賃金近辺の労働者にプラスの効果が及ぶかどうかはわからない。
    • 最低賃金で労働市場が歪み、その上低利の融資などの優遇をすれば資本市場にも歪みをもたらすので、結果として生産性の低い企業が温存されるという副作用があるかもしれない。

    最低賃金とマクロ政策

    • 最低賃金がマクロの視点でベンチマークとしての調整的な役割を果たすという研究はあるか。
    • 最低賃金がインフレーションに与える効果の研究結果はまちまちである。最低賃金の影響を受ける労働者の割合が少ないので、マクロ経済全体に影響が及ぶというコンセンサスはない。かつて日本は春闘の効果が大きく、春闘で決まったことが全体に均霑していたが、今はその環境は大きく変わってきている。
    • 春闘相場というのは日本のマクロ政策から見ると重要なベンチマークを提供してきたが、それが事実上無くなって久しい。賃金面でのベンチマークとしての最低賃金という議論はあってもおかしくない。
    • デフレが問題なのであれば、金融政策でインフレーションを発生させることの方がストレートである。金融政策のプラスアルファとしての賃金政策は必要なのか。
    • 製造業、輸出産業が円高の中、国際競争で苦しんでいて、企業としてはコストを上げることができない。非正規という賃金総額を抑えた雇用の仕組みも広がった。金融政策でというのは私も賛成だが、需要面が引っ張っていかなければ価格に反映しないだろう。
    • 賃金を外生的に上昇させれば良いことが起こるという考え方に、経済学者はもともと懐疑的である。一般の賃金の問題を考える時にこの話は切り離すことができないが、最低賃金とマクロ政策をつなげるのは難しいと思う。

    北欧との比較

    • カリフォルニアでは最低賃金が上がると企業は不法移民を雇い、その結果、労働者階級の下位の雇用が失われた。なぜデンマークではEU内のより賃金の低い国からの移民が入ってきても高い賃金を維持できるのか。
    • 北欧には海外直接投資があり、成長率はかなり高い。日本は外国からの投資は少ない。北欧が8%に対し、日本は1~2%である。
    • 北欧は小さな国がそれぞれ独自の政策で競争している。日本は中央が政策を決めるので、地方が固有の政策で競い合う状況になっていない。ある地域は最低賃金を廃止するとか、最低賃金を高くして企業の参入退出を図り、再雇用のための職業訓練を行うなどがあってもよい。
    • 北欧は労働協約で最低賃金を決めており、Neumarkによれば、最低賃金を労働協約で決めている国は、雇用への負の影響が小さい。北欧は労使関係がよく、中央ではソーシャルパートナーが物事を決めている。Aghion, Algan and Cahuc(2010)の指標によれば、最低賃金の規制はけして高くなく、最低賃金の厳しい規制が必要なく、うまくやっていける一例である。