「他力企業」から「自力企業」への変革を目指して

鶴 光太郎
上席研究員

最近、不良債権問題に関連して、「確かに、不良債権処理加速策のような構造調整策に『痛み』が伴うことは覚悟しているが、将来の日本経済の展望が必ずしも明らかでないような状況では日本経済が活性化するとは限らない」という議論をしばしば耳にする。たとえば、「不良債権処理を行っても景気が良くなるとは限らない」とか、「銀行は不良債権処理ができても、低収益体質から脱却できるような新たなビジネス・モデルが見つからない限り将来はない」などである。「患者」(経済、または、銀行)の体力が十分でないまま、構造調整という「大手術」を行えば、「患者」の命は持たず、「ハゲタカ」(外資)に食い散らかされるのが落ちであるという見方である。

先行きの不透明さを問題先送りの言い訳にしてはならない

確かに、この先必ず「病状」が回復すると信じることができれば、つらい「痛み」にも耐えていける面はあろう。また、理論的(リアル・オプション理論)にも、「将来展望」が明確でないという意味で、先行き不透明感・不確実性が強ければ、「不透明感が消えるまで待つ」というオプションに価値があるため、(サンク・コストを伴う)やり直しの効かない行動を先延ばしにすることにはむしろ経済的な合理性がある。

しかし、「将来展望」が不透明・不確定であることを、これ以上「痛み」を避ける言い訳にしてはならない。なぜなら、ミクロ主体で合理的な行動だとしても、すべての経済主体が「待ち」の体制に入ってしまえば、それはマクロ的には負の外部性効果(コーディネーションの失敗の一例)を生み、経済はいつまでたっても動かないし、それぞれの主体は更に「待つ」という悪循環に陥ってしまう。また、他力本願的な「待ち」を続けているうちに、既存の資本が劣化してしまう効果(例:ラーニング・バイ・ドゥーイング(習熟効果)によって可能な人的資本の毀損)も深刻である。

「将来展望」を語るのが困難な今、我々がすべきことは?

それでは、なぜ、「将来展望」ということが強調されるのであろうか。戦後、80年代まで、日本経済はさまざまな外部ショックを受けながら比較的安定的かつ高い成長をしてきた。この時期、企業にとっては需要の「パイ」が着実に増加していくため、それぞれの産業の中で「つつがない」戦略をとっておれば、企業は成長することができた。また、政府の規制の下で保護されていた産業は、最初から「パイ」が確保されてきたのでなおさらであった。このような状況では、産業としてどのような方向にいくのかという「将来展望」が重要であり、企業は同じ産業の中で「横並び」の行動を取っておれば安心であった。「将来展望」は、業界団体をパイプ役にして政府と産業界によって、ア・ウンの呼吸で作り上げられてきた。

一方、バブル発生・崩壊、経済の長期的な低迷、構造調整の遅れの中、更には、アメリカにおけるITバブル崩壊も加わって、マクロ経済にとっても、また、個別産業界にとっても、「将来展望」を語ることが非常に難しく、これまでのように以心伝心でコンセンサスを作り上げること自体不可能な状況となってしまった。このような状況に直面してどうすればいいのであろうか。

次のような寓話を考えてみよう。学校で先生(政府)に引率されて、クラス毎(産業毎)に山登りをする生徒(企業)がいるとする。80年代までの日本経済は、山の頂(目標)やそれに続く登山道(企業戦略)が見えており、みんなが安心して登山できる状況であった。特に、引率の先生(政府)の持つ旗を目印に、クラス毎、足並みを乱さないようにすれば、比較的容易に山の頂までたどり着くことが可能であった。特に、クラス(規制産業)によっては、登山が得意でない生徒もクラス全体がその生徒のペースにある程度あわせてくれたことで押し上げてもらった面もあったということである(護送船団方式)。

一方、90年代以降、日本経済が直面している問題とは、これから登山道が険しくかつ危険になるようなステージにきて(キャッチ・アップの終焉)、天気が急変し(景気の低迷)、かつ、霧が発生して視界が利かなくなった(不確実性の増大)状況である。もちろん、山の頂は見えないし、どの道が頂上に続いているのかもわからない。したがって、天気が良くなり、霧が晴れるまで、同じ場所でしばらく待機してみようというのが90年代の流れであったと考えられる。しかし、かなり待っても一向に事態は好転せず、全員の共倒れが懸念されるような段階が現在の状況である。このような場合、どうすればよいのか。

不確実性の時代には利己的行動が全体の危機を救う

先生(政府)は残念ながら無力な存在である。クラスを引率して無理に出発したとしても道を間違えて、クラス(産業界)ともども遭難してしまうのがせいぜいであろう。重要なのは、生徒一人一人が、どのクラスにいるのかにかかわらず、「共倒れはまっぴら御免だ」、「自分だけ正しい登山道を見つけて生き延びてやる!」という極めて利己的な行動(企業家精神)に出ることである。「自分だけ得してやろう」という「すけべ根性」があってこそ、多くの生徒が人とは違った登山道を試すことにつながる。中には、道を間違えたり、悪天候の下、落石や滑落で命を落とす者も出てくるであろう。一方、多くの者がこうした行動に出て行けば、山の頂に続く正しい道を見つけ出す者も必ず出てくるはずである。そうなれば、他の生徒も先駆者が見つけた道(新たなビジネスモデル)をフォローしながら、当面の危機を脱することができるかもしれない。「自分だけが助かるため、人とは違った道を選ぶ」という一見、利己的行動が結果的には全体の危機を救う可能性があるのである。したがって、先生からすれば、これまで「クラスの仲間のことを考えながら登山しなさい」といっていたのを、「自分だけ生き延びることを考えろ」といわなければならないほどの、180度の発想の転換が求められているといえる。先生ができることといえば、各生徒が困難に陥った時どうすればよいかというアドバイスをしたり、「がんばれ」と励ますくらいで、基本的には生徒を「突き放す」勇気がいる。この期に及んで生徒を安心させるために中途半端な「道選び」指南をすることは有害ですらある。

以上の寓話で明らかにしたいのは、マクロの成長率が低く、かつ、不確実な時代ほど、「自分だけ儲けてやる」という旺盛な企業家精神と、それを発揮していく過程における、実験、トライ・アンド・エラーが非常に重要であるということだ。その時、「産業全体で『将来展望』をコーディネートしながら横並びの行動を行う」というこれまでの行動パターンを捨てて、「他の企業がこれをやるのであるなら自分は別のことをやって勝負する」という発想に完全に転換することである。そして、政府もまずは民間を突き放すこと、そして、民間の発想の転換を後押しするような政策をこそ考えるべきである。

「他力起業」から「自己企業」へ脱皮する為には市場参加者の意識改革が必要

そして、他の企業と異なった戦略をとる企業をできるだけ客観的に評価する仕組みとして重要なのは、株式市場である。こうした企業の将来性については誰も確たる予想はできないし、市場参加者でコンセンサスを得ることは難しい。しかし、株式市場の重要な役割は、そうした「異なった意見」を株価という一つの指標に集約させていくメカニズムを持つことである。他方、日本の株式市場をみると、「異なった意見」を集約するどころか、それぞれの企業の株価は、まず、マクロ環境で決まり、次に、産業毎の調整を受けて、最後に個別の企業の地位・事情を反映して決まっているようにみえてならない。このような株価決定はかつての「横並び戦略」の下では整合的であったかもしれないが、株式市場の本来のメカニズムに反するものである。もちろん、「他人がやらないことをやる」というポリシーは元気のいい中小、ベンチャー企業では珍しいことではないが、声の大きい他力本願的な企業の存在により目立ちにくかったことも確かである。いつまでも外的環境の改善を持ちつづける「他力企業」が、強烈な企業家精神の下、人まねではないものを目指す「自力企業」に脱皮していくためには、企業のみならず、政府、マーケット(株式市場)の大いなる意識改革が必要なのである。

2002年11月19日

投稿意見を読む

2002年11月19日掲載

この著者の記事