11月5日、ブルネイにおいて「ASEAN+3」の首脳会議が開催された。今や10カ国に広がったASEAN諸国の首脳が、日本、中国、韓国の「+3」の首脳と顔を合わせる機会である。13カ国の首脳が顔を揃えたバンダルスリベガワンにおいては、「ASEAN+3」、「ASEAN+1」、二国間などさまざまな首脳外交が展開されたが、その一連の会合の中から、予想もしていなかったニュースが伝わってきた。
中国が、ASEAN諸国との間で、今後10年以内の締結を目指して自由貿易協定のための協議を開始するというのである。
この「ASEAN+3」の首脳会議においては、時節柄、テロ対策が注目され、日本の新聞においても、「日本がテロ問題についての声明の発出に向けて働きかけたが、出席各国からの理解を得ることができず、見送られた」との点に着目して報道する向きが多かったが、今後のアジアの姿を考えると、中国とASEAN諸国との間で自由貿易協定の協議の開始について合意したことの持つ意義は、これとは比べものにならないくらい重要なものである。
自由貿易協定の締結は国と国との基本的な関係の在り方に関わる戦略的な意味を持ちうること、日本も中国も従来は地域主義に距離をおくアプローチをとってきたが、両国とも近時方針を転換し地域主義のプラス面を評価する姿勢に転じていること、中国とASEAN諸国との自由貿易協定の構想については昨年11月に中国側からASEANに持ちかけたが、ASEAN側は日韓を含む「東アジア自由貿易圏」を逆提案するとの慎重な姿勢であったこと、日本の対東南アジア外交はアメリカと中国というこの地域に大きな影響力を持つ国との関係を踏まえながら検討されてきたこと、日本にとって東南アジア諸国が安全保障・国際政治の面でも、経済の面でも極めて大事な地域であることを考え併せれば、このニュースの持つ意味の大きさが見て取れるであろう。
これによって、日本の東南アジア政策は従来のものでよいのかとの問題が、なお一層鋭く問い直されることになった。
「1977年の『福田スピーチ』以来、日本のASEAN重視政策は不変であり、総理が代わっても、日本のASEAN重視の姿勢は変わらない」
今回のブルネイでの日・ASEAN首脳会議において、小泉総理は、ASEAN首脳にこう語ったが、日本の対東南アジア外交というと、今でも、1977年の福田総理の東南アジア歴訪の際、最後の訪問地であるマニラで行った政策スピーチに言及されることが多い。今、日本が東南アジア諸国にどう向き合ったらよいのかを考えるために、まず、このスピーチまで遡ってみたい。それにより、今の時点で見て、25年前に福田ドクトリンが前提としたことのうち、何が変わり、何が変わっていないかが明確となってくるはずである。
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福田ドクトリンのメッセージは、次の3点に要約される。 |
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日本は、軍事大国にならないとの決意のもと、東南アジア、ひいては世界の平和と反映に貢献していく。 |
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日本は、東南アジア地域との間で、政治・経済のみならず、社会、文化など広範な分野において、心と心の触れあう相互信頼関係の構築を目指す。 |
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日本は、対等な協力者として、連帯と強靱性の強化に向けたASEANの自主努力に他の域外国とともに協力する。 |
一見すると、きわめて平凡な言葉が並んでいるようにも思える。しかし、このスピーチは、ASEAN側からも高く評価され、長年にわたり日本の対東南アジア外交の柱となってきた。この「福田スピーチ」の意義を考える際、その時代背景として、当時の国際環境と日・ASEAN関係の経緯とを念頭に置いておく必要がある。
国際環境については、南ヴィエトナム、カンボジア、ラオスで、非共産主義政権が雪崩を打ったように崩壊したのがその2年前の1975年である。これを受けて、ASEAN諸国も、インドシナと同様の運命を辿り、共産化するのではないかとの危惧が持たれていた。ASEAN諸国は、多かれ少なかれ、国内に反体制、反政府勢力を抱えており、インドシナでの共産主義の勝利は、これらの勢力を力づけ、現在の体制を脅かすことになろう。アメリカは、東南アジアから退く姿勢を見せている。米国が退いた後に残った「真空」を中ソが埋めて、共産化したインドシナを橋頭堡として東南アジアの非共産主義国の上に大きな影響を及ぼしていくのではないか、と考えられていたのである。
日・ASEAN関係の経緯としては、3年前の1974年の田中総理の東南アジア歴訪時に、前代未聞の反日デモ、反日暴動が起こっている。日本車など日本製品の洪水、増大する観光客、その振る舞いの悪さ。こうしたことへの反発が、現政権批判とも相まって、タイでは学生のデモが起こり、ジャカルタでは暴動にまで発展した。ジャカルタでは、群衆が日本大使館、日本企業などに投石し、日本車を焼き、トヨタの合弁会社に放火し、軍が発砲、死者まで出る騒ぎとなった。
先ほどの「福田ドクトリン」の3つのメッセージは、このような文脈の中で読む必要があるが、「福田ドクトリン」に対し高い評価が与えられた要因は次の3点に整理することができよう。
第一は、日本が東南アジア地域を重視して、この地域に対して積極的に関与していくというメッセージが、時代と相手の双方からの期待に応えるものであったことである。1951年のサンフランシスコ平和条約署名以来、日本の外交のエネルギーの殆どが、戦後処理、国際社会への復帰、安全保障体制の構築に費やされていたのが1970年代までの姿であった。これらを超えて、各国、各地域と自覚的にどのように関わっていくのかという「意思」も「スタンス」もそのための「ツール」もまだ成熟したものになっていなかった。アジアに対しても、戦争中の日本人の行為に対する許しを求め、専ら相互理解の増進を図るという低姿勢で来ていた。そうした日本が、東南アジア地域の安定と繁栄のために、国際政治の有力なアクターとして積極的、能動的に貢献しようとする姿勢を鮮明にしたのが福田ドクトリンであった。
「われわれは久しく日本がこういう姿勢で登場してくれることを待っていたのだ」
このスピーチを眼前で聴いていたフィリピンのマルコス大統領のコメントであるが、こうした日本の姿勢は、東南アジア各国の評価と支持を得たのである。
第二の要因としては、東南アジアと関わる際の「目線」の問題がある。「心と心の触れあい」、「対等の協力者」という「目線の方向」と「関わりの在り方」は、1974年の反日暴動の反省にたったものであった。もちろん、「対等」といっても、日本とASEAN諸国との相互の関わりが完全に対称ということにはならない。この福田総理の東南アジア訪問の目玉の一つは、日本がASEAN各国の1つの産業プロジェクトに対し、合計10億ドルの資金協力を行うとの支援であった。このように「非対称性」は紛れもなくあったのであるが、そうであっても、対等という「目線」による関係を構築しよう、深い部分で理解し合う関係を目指していこう、との意識を持つのと持たないのとでは、大きな違いが出てくる。
この「心と心のふれあい」という表現は、事務方が準備したものではなく、福田総理自身がコメントして加えられたものであったと伝えられたが、この表現の卓抜さは、福田ドクトリンを長く人々の記憶に残るものとした。
第三の要因は、日本が設定した政策課題であるASEANの「連帯と強靱性の強化」への支援というテーマが、ASEAN側が痛切に求めていたものであったことが挙げられる。ASEAN諸国は、インドシナの共産化の経緯から、いくら軍事や経済において世界で抜群の実力を持つ国が支えようとしても、国の内側に自らを支える力がなければ、国として立っていくことはできないとの教訓を学び取っていた。共産化の脅威に対し、ASEAN各国は、自らの社会を内部で支える力を強化することによって乗り切っていこうとした。それが、「強靱性の強化」への方向性であった。日本は、ASEAN諸国のそのような方向性をきわめて正確に理解し、それを支援することを自らの政策課題として設定した。福田ドクトリンに対するASEAN側からの高い評価は、こうしたASEAN各国の痛切で真剣な思いを深いところで理解し、それに対応しようとしたことに原因を求めることができる
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