外交再点検

第4回 グローバリゼーション時代の外交:NGOとの対話

北野 充
コンサルティングフェロー

「NGOとの対話、かな」

新聞記者のN氏から、2001年の自分の仕事を振り返って印象的だったことを尋ねられた時、私はこう答えた。

N記者は、この答えに少し不思議そうな表情を浮かべながら、私の外務省の同僚の名前を二人挙げ、彼らからも、NGOとの対話や共同作業に熱心に取り組んでいることを聞きましたよ、といいつつ、次のように続けた。

「どうして今、皆がNGOとの対話、なのでしょうね」

私は外務省で、経済協力の仕事をしている。政府開発援助(ODA)の1つの形態である円借款という資金貸付による援助が私の担当だ。

そして、N記者が名前を挙げた私の同僚はといえば、一人は世界貿易機関(WTO)を担当しており、もう一人は緊急人道援助を含む資金援助を担当している。

緊急人道援助はともかくとして、円借款も、国際貿易のルール作りも、これまでNGOとの対話や共同作業が盛んに行われてきた分野ではなかった。外交の世界の中で、伝統的にNGOとの接触が多かった分野といえば、例えば環境であり、人権であり、軍備管理・軍縮であった。N記者が、私の言葉に「どうして、今、皆が」と「共時性」(シンクロニシティ)を感じたのも不思議ではない。そして、このN記者の言葉は、私に自分の体験していることの意味を考え直すきっかけを与えてくれた。

円借款という私が担当する援助スキームにおいては、毎年、約20カ国への協力を実施している。プロジェクトの数でいうなら、毎年、80余りの新規プロジェクトを採択しており、その候補となるものについてはその数倍もの数を検討の俎上に乗せるのであるが、2001年において、アフリカのK国のSという地方の水力発電所の案件ほど、私たちが時間と労力をかけたものはなかった。

このプロジェクトは、電力の供給不足のため、恒常的に停電に悩まされ、それが開発のボトルネックとなってしまっているK国の電力供給拡充のためのものであり、工事は、前半部分(第一期)と後半部分(第二期)に分けて実施することになっていた。第一期の工事が進行中で、第二期工事への資金協力を検討しているときに、NGOから環境破壊の問題が生じている、とのキャンペーンが開始された。

K国の現地のNGOがEメールを活用して訴えかけを行い、これに呼応した日本のNGOが各方面に呼びかけた。私たちは、何人もの国会議員に説明を求められ、国会の委員会においても、繰り返し質疑が行われた。

国会において、「このような問題プロジェクトに協力するのはとんでもないこと」との質問が何度もなされるので、田中真紀子外務大臣より、担当責任者がきちんと現地調査を行うようにとの指示があり、私は急遽、K国に出張することになった。私は、現地住民の人たちがこのプロジェクトをどう思っているかをできる限り正確に、客観的に把握するため、プロジェクトサイトの近く10カ所で即席の住民対話集会を行った。アンケート用紙に考えを記入してもらい、意見を聞いた。このプロジェクトについて最も批判的な立場をとっているグループを含めて、NGOとの対話も何回も行った。

こうして現地で実際に見聞した状況は、日本の国会で指摘されていたものとは、相当に異なった様相のものだった。

現地にはこのプロジェクト自体に反対し、これを中止すべきだといっている人は一人としていなかった。事業の実施に伴って生ずる問題には、現地において設立された「技術委員会」という極めてユニークな組織が真剣に対応していた。住民の代表、地域に住む大学教授やエンジニアなど広範な層の人たちが、NGOの人たちと一緒になって、この委員会を構成し、無給でプライベートの時間を割いて、移転に際しての補償の問題から、工事車両の通過に伴う埃の問題まで、住民から提起された環境社会問題について、事実関係を調査し、提言をまとめる作業をしていた。

私は、現地調査からの帰国後、日本で問題提起を行っているNGOの人たちと頻繁に会うようになった。それまでも会っていなかったわけではないが、帰国後はこれまで以上にこちらの方からも話をし、先方の考えを聞きたいと思うようになった。先方は、「住民の総意をどう捉えたらよいのか」といった問題をどのように考えて活動を行っているのかを聞きたいと思った。

会って話をすることを続ける内に、少しずつ、共通の認識や、共通の問題意識も生まれてきた。お互いにそれぞれの立場を変えたわけではないが、私はNGOの人たちとの対話から、政策に関る判断を行う際のいろいろな材料を得ていた。

このプロジェクトを巡る議論・検討は「現在進行形」の状況であるが、私にとって、このNGOとの対話は新鮮な体験だった。従来の仕事の仕方とは違ったものが求められる世界だった。そこには多くのフラストレーションもあり、「その認識は違うと思う」といいたくなる局面もあった。しかし、そこから学ぶことがあったのも事実だった。

私にとって、この案件でのNGOとの対話は、自分が仕事において直面する問題に対処するため、無我夢中でやっていたものであったのだが、「どうして今、皆がNGOとの対話、なのでしょうね」とのN記者の指摘を頭の中で思い起こしている内に、私が、このK国のプロジェクトで経験していたことは、グローバリゼーションの時代が外交にもたらしつつある変容の1つの断面なのかもしれない、と思うようになった。

この変容は、いくつかの側面を持っている。

第一は、国際関係におけるプレーヤーの側面である。Eメールによる通信は、世界のどのような場所における事案をも一瞬の内に地球的な規模で問題提起することを可能とした。それにより、NGOによる問題提起の活動は、かつてない幅の広がりとインパクトを持つようになった。NGOは、従来から国際関係におけるプレーヤーとして認識されていたが、そのプレーヤーとしての活動範囲が広がり、影響力が一層強まった。

第二は、政策当局として、行っていることの正当性をどうやって示すか、に関わる問題である。ひとたびNGOからの問題提起が行われれば、これにきちんと対応できなければ「正当性」は失われてしまう。そうならないためには、まずは、問題提起を行う側と議論のテーブルについて対話を行うことが出発点となる。議論の溝は埋まることもあるし、埋まらないこともある。しかし、このように対話を行うこと、それを通じて、自分の方針を裏付ける論理なり事実なりを説得力ある形で提示することなくしては、「正当性」は示せない状況となった。

第三は、政策当局の側の情報公開の側面である。政策当局の側は、従来に比し、より多くの情報を早い段階で公開するようになってきている。外交・国際関係というものは、国家間の交渉を伴うものである。交渉を行う際、経過を全部公開するのでは、まとまる交渉もまとまらなくなってしまうだけに、情報の全てを人々にさらけ出すことができない性格を持っている。しかし、IT技術の進展によって、NGOの問題提起を含めて情報のマーケットが急拡大したため、これに対応するために、外交に関わる政策当局の側にも、従来以上の情報公開が求められるようになってきている。

このように、グローバリゼーションが進展する中、外交の世界を取り巻く環境が変容しつつある。それは、外交だけの問題ではなく、行政全般に関わる変化の一環と見るべきなのかもしれない。言い換えるならば、今や、行政機構の中で政策決定に携わる者それぞれに対し、仕事のやり方としてどのような形でNGOを含む市民社会とつき合って行くか、との問いかけがつきつけられている。

近時、国際的な論壇において、先進国首脳会議やWTO閣僚会議に対する「反グローバリゼーション」の抗議活動を巡って、NGOの在り方について、さまざまな論議がある。ハーバード大学のジョセフ・ナイ教授は、「グローバリゼーション統治の民主化を促進するには」(フォーリン・アフェアーズ2001年7月/8月号)との論文の中で、グローバリゼーションの進展に関わる重要な政策決定に関与している国際組織の側に対してはその説明責任の向上を求め、一方、NGOに対しても、NGO自体は民主的に人々の利益を代表しているわけではないことを指摘し、自らの説明責任をはっきりさせよと指摘した。

ナイ教授のいうとおり、「NGOが主張しているから」といって、そのことのみでその主張に、客観性も、民主性も、正当性も自動的に保証されるものではない。NGOの側には、対案(オルタナティブ)を提示し、自らの主張について説明責任を果たすことにより、建設的な役割を果たすことが求められよう。政策当局の側には、このようなNGOの正当な主張に耳を傾ける態度が望まれるとともに、自分たちの立場がNGOの主張とは異なっているときには、自分たちの立場を率直に主張することもその任務として求められよう。そうでなければ、政策当局としての責任放棄であろう。

一方、国家であれ、国際機関であれ、NGOとの対話が従来以上に求められていることは否定できないであろう。それは、NGOから問題提起がなされるから、それに対応することが求められるという単に受動的な側面のみではなく、これらの機関が目指すべき公益をより効果的に実現するためには、多様な意見に耳を傾け、視野を広く保ち、新たな発想を取り入れることが大事になっていると思うからだ。

NGOの意見は市民社会の意見の代表なのだから、これを受け入れなければならない、といっているのではない。政策のマーケットも、情報のマーケットと同様に、一部の人たちだけの独占ではなく、活性化されることが望ましいといいたいのである。意見が異なることは、当然あり得る。私も、K国の案件では、NGOの人たちとずいぶん話をしたが、少しずつ共通の認識も形成されてきたものの、意見が異なる部分も、もちろんあった。大事なことは、行政当局とNGOとがお互いに対話を行うことにより、それぞれ自らの立脚点を見つめ直すことであり、「相手方の考えと自分たちの考えのどちらが社会一般の理解を得られるだろうか」との問いを自らに発することによって、緊張関係の中で自分たちの考えを検証していくプロセスだと思う。

私の中には、NGOを含む市民社会の側が建設的で責任ある形で活発な役割を果たしていくことへの期待がある。なぜなら、行政機構の中に身を置いているといっても、自分が行政機構の中で責任を担っている分野は、国の活動の中で見れば、ほんの一部に過ぎず、それ以外の分野において、私の立場は市民社会の一員としての立場に近いからだ。そして、自分が行政機構の中で担当しているもの以外の分野であっても、政策のあるべき姿を考え、建設的な発言を行っていくことができれば、社会への貢献につながると考えるからだ。