外交再点検

第1回 アメリカ同時多発テロに思う

北野 充
コンサルティングフェロー

想像を絶するテロ事件が起こった。

残虐。非道。冷酷。非人道的。どんな言葉を使ってみても、この事件を形容するには十分ではない。犯人グループが、自分たちの頭の中でどんな「大義」を抱いていたとしても、このような行為はいかなる意味でも正当化されえない。

この大惨事は、サンフランシスコ平和条約の調印50周年の式典の3日後に起こった。周知のように1951年のサンフランスコ平和条約は日米安保条約とともに、戦後の日本の世界における位置と生き方を決定づけたものである。今、日本が今回のテロ事件に対して、どのような対応をとるのかが問われているが、日本の対応を考えるにつけ、戦後の日本の「国の在り方」に思いを馳せざるを得ない。

ここで、私は、一種の既視感に襲われる。思えば、10年前の湾岸戦争の時にも、同じ問題が問われたのである。

1990年8月、イラクが突如、クウェートに侵攻した。明白な国連憲章違反であり、国際秩序への挑戦である。冷戦が終了し、平穏な世界に向かうとの楽観論は冷水を浴びせられた。アメリカは、イラクの侵略を既成事実化させないため、直ちに湾岸地域への兵力集中を開始した。イラクに対する行動は、国際社会こぞっての活動として行われなければならない。アメリカは、同盟国日本の貢献を切に求めた。資金面での協力。膨大な人員や物資の輸送の分担。それも、目に見える形で日本としての存在を示すこと。

しかし、日本が対応できることは限られていた。アメリカが求めていたのは、一種の軍事的な支援である。それに、人が派遣されれば、危険がないとはいいがたい状況である。平和憲法の下で、およそ軍事に関すること、人身に危険が及ぶことがタブーになる国柄でやってきていた戦後の日本にとっては、極めつきの難問であった。

イラクの侵攻から3週間後の8月24日、ワシントンに出張した外務省北米局の丹波実審議官は、米国務省の会議室で、一枚のペルシャ湾の衛星写真を見せられながら、米側に詰め寄られたという()。

「ここに20の点がある。全部日本のタンカーだ」

日本側は、米側からの強い要請を受けながらも、情勢が緊迫している湾岸地域に向けて米軍の物資輸送のために日本の船や飛行機を出すのは、労働組合との関係があって容易でないと説明してきた。しかし、現に20隻ものタンカーが日本に石油を運んでいるではないか、これをどうやって説明するのか、との指摘だった。

丹波はこう答えたという。

「DC(ワシントン)に来るのはいつも喜びだったが、今回はつらい。テーブルのそちら側に移って座って、『日本は平和ぼけ』と批判するのは簡単だ。しかし、今は、日本の戦後の生き様が問題になっている。日本が灰燼に帰し、再建を決意したとき、今の憲法を持った。このような日本以外に、日本が再び国際社会に受け入れられる道はないと考えたからだ。そういった過去の遺産という重い荷物を日本は背負っている」 丹波の苦悩は、丹波一人の苦悩ではなかった。この難問は、海部総理をはじめとする政府閣僚、与野党の指導者、関係省庁の多くの者に、突きつけられた。私も、外務省の担当官として、この難問にどう応えるか、苦闘した一人だった。

私は、丹波の訪米の直後、作業チームに加わるよう求められ、アメリカをはじめとする関係国の資金ニーズに対応するための資金協力のスキーム作りを担当した。

「資金協力のスキームができていない。今日中に、スキームを立案してほしい」

それが、私が受けた指示だった。作業は困難を極めた。日本の予算制度には、米軍に対する直接の資金拠出のための予算の費目などない。時間的な制約からすれば、既存の予算の費目から手当するしかない。国際機関を活用するという方法が検討されていた。しかし、既存の国際機関で使えるものはない。とすれば、一つの国際機関を新たに作るしかない。どうやって作るか。どういう意志決定のメカニズムにするのか。資金の適正使用をどう担保するのか。外交上の問題だけではなく、国内法上の問題もある。米軍の戦費を負担することは、憲法が禁ずる集団的自衛権の行使に当たらないのか。武器や弾薬を運ぶ費用に使うのはどうか。徹夜の連続になった。それでも、不思議と体が動いた。戦後の日本が直面した未曾有の危機だけに、自分たちもありったけの力を出そう。皆がそう思って仕事をしていた。

その結果はどうだったか。114億ドル(1兆5000億円)という巨費が新たに設立された「湾岸平和基金」に投じられた。しかし、日本の「貢献策」に対する国際的な評判は、「日本はカネだけ」と黙殺に近かった。私は、自分の持ち場でやるべきことはやったと思いつつも、カネを出すため苦闘した帰結が「カネだけ」との酷評だったことについてやりきれないものが残った。ヒトの面での支援ができなかったこと、万事にわたって「軍事」や「危険」からできる限り身を離そうとの対応しかできなかったことが決定的であった。

湾岸戦争から10年。

今回のテロ事件の衝撃的な映像を見ていると、これまでの10年間のさまざまな光景や、その時々の感情がフラッシュバックのように思い浮かんでくる。

湾岸戦争後、「国際貢献」が時代の惹句となったときの期待感。1993年、野党の牛歩戦術による抵抗を押し切ってPKO法案が成立したときの安堵。93年、カンボディアの文民警察に派遣された高田警視が殉職されたときの衝撃。94年、日本として何も備えができていない状況であるのに、北朝鮮への核査察問題で朝鮮半島情勢が緊迫していったときの戦慄。

いくつかの制度はできた。PKO法ができ、自衛隊員が国連の平和維持活動に参加することができるようになった。自衛隊法が改正され、自衛隊の航空機や、艦船を日本人の救出のために使えるようになった。周辺事態法もでき、日本の安全に関わる周辺での事態に際し、米軍への後方支援を行う仕組みが整備された。これらによって、危機管理のための制度や、対外的な政策ツールが、以前に比べれば段違いに拡充されたことは事実である。

しかし、これで備えができたわけではない。もし、湾岸戦争がもう一度起これば、同じような右往左往が再現されることになってしまうだろう。実際に日本周辺で紛争が起これば、戦闘に巻き込まれないことを支援の前提としている日本の国内法と、現実とのギャップが浮き彫りになるであろう。やっとのことで成立した、これらの制度は、やはり、「軍事」や「危険」からできる限り身を離そうとの発想を基盤にしているのである。そして、今回のテロ事件・・・。

この凶行に関わった者には、その「代価」を支払わせなければならない。それは、アメリカのみの問題ではなく、国際社会全体の問題である。われわれがオウムの事件で学んだように、そして、今回の事件が示すように、相手を選ばないテロリストが存在するのが、今、われわれが生きている世界である。

今回のテロの実行犯とこれに支援を与えた者に「代価」を支払わせるためには、軍事オペレーションを要することになろう。もう既に、関係者の間からは、空からのピンポイント爆撃のような「外科手術的」なオペレーションだけではなく、地上での作戦行動をも想定した発言や、相当の長期の作戦を覚悟すべきとの発言も出ている。日本として何ができるかは、作戦の内容によっても変わってこようが、軍事行動に関わることで日本としてなし得ることがあるとすれば、輸送や医療などの「後方支援」であろう。このための新法の検討が浮上してきたとの報道もあるが、「国際的な行動に参加していく」との強い意志を持って、可能な方策を検討していくべきであろう。

すでに自衛隊による米軍基地警備、有事法制検討の前倒しなども議論の俎上に上がってきている。しかし、これらは、「日本でのテロ」に備えた対応策である。これまでに手が着けられていなかった制度整備が行われることは歓迎すべきではあるが、これは一国として自らの責任で当然行うべきものであって、今回のテロ事件に対して国際社会の一員として参加するとの文脈に位置づけられるものではない。

日本として何をなし得るかにつき、「内向き」の視点のみでなく、「外向き」の視点でどれだけ構想を練り、行動に移すことができるか。それこそが、今、問われている問題である。それを行えば、テロリストとの関係では、リスクを高めることになるだろう。しかし、そのリスクは、われわれが共有すべきリスクなのではないだろうか。湾岸戦争の時も、われわれに突きつけられたのは、「日本は世界の秩序を享受しているが、世界の秩序を支えているものはほかにある。それに、日本は関与する意志を持っているのか」との問いであったはずだ。言い換えれば、「そもそも、外界に対し、自分で責任とリスクを負って関わっていこうとするのか」、との問題が問われたのである。

その問題に正面から答えを出せないままに10年の時間が経った。進歩がないとしたら、寂しい話である。

今回、米側から日本側に対し、「必要なのは精神的サポート」とのメッセージが入ってきたとの報道もある。湾岸戦争の時のように、国際社会からの期待と自分たちが行動できることのギャップに苦しむのもつらいことではあるが、最初から、「員数」にカウントされていないとすれば、これほど残念なことはない。更に、日本において、こういった「軍事」や「危険」に関連した分野で日本に新たな国際的な課題が生じないことを「安心」する向きがあるとすれば、「国の在り方」としてこれほど懸念すべき状況はないのではないか、と私は思う。

脚注
  • 国正武重著「湾岸戦争という転回点:動顛する日本政治」(岩波書店)による。