外交再点検

特別編 ベトナムのSARS制圧:日本の支援の果たした役割

北野 充
コンサルティングフェロー

金丸 守正
国際協力事業団ベトナム事務所長(※)

4月28日、ベトナムのチエン保健大臣は、SARS(重症急性呼吸器症候群)制圧を宣言し、これにより、ベトナムは、世界で初めてのSARS制圧国となった。WHOは、同日付で、ベトナムを域内感染国から除外し、日本の外務省も、ベトナムに対する渡航情報(危険情報)を解除した。

ベトナムがSARSの問題に直面してから2カ月。この制圧宣言に至る道のりにおいて、日本の支援が果たした役割は非常に大きなものがあった。二度にわたる国際緊急援助隊専門家チームの派遣。感染防止や治療用の資機材供与。そして、技術協力プロジェクトを活用した支援。長年のベトナムに対する保健・医療分野の協力の積み重ねの上になされたこれらの協力がベトナムのSARS制圧に大きく貢献した。

Ⅱ 緊張の日本大使館

「この病気の原因も感染経路もまだわかっていない。治療法も確立していない。どうやってベトナム側を支援していくか」

ベトナムのSARSに対応するための国際緊急援助隊を迎えての日本大使館での打ち合わせ会議は緊張感に包まれていた。

ベトナムは、世界の中でも、最も早くSARSの問題が認識された国であった。発端は、一人のハノイ在住の中国系アメリカ人男性である。この男性は、上海、香港を経由して、2月23日にハノイに帰着したが、原因不明の呼吸器症状で2月26日、ハノイのフレンチ病院に入院した。そうしたところ、この病院で、20人以上のスタッフが同様の症状を発症した。その対処に当たったWHOの感染症専門家カルロ・ウルバニ医師がWHOに新しい種類の肺炎として報告した。これが、世界にSARSを知らしめることになった最初の症例であった。

3月13日、事態を重く見たベトナム保健省は、日本大使館、JICA事務所の代表者の来訪を求め、長年、保健・医療分野の協力を行ってきている日本に緊急の支援要請を行った。われわれは、直ちに、東京の外務本省、JICA本部と支援措置の詰めに入った。関係省の理解と協力も得て、東京の反応は早かった。翌14日、国際緊急援助隊の派遣が正式決定された。また、ほぼ時を同じくして大使館内に服部大使を本部長とする「館内対策本部」を設置し、毎日、会合を開催し対応に遺漏なきを期した。これは、まさに危機管理であった。

「医療事情が良くないベトナムが国際的な感染拡大の熱源となりはしないか」

万一、感染がハノイ市中に広範に広がるようなことになれば、ハノイ在住の在留邦人にとっても、悪夢の事態であった。孤立した都市に悪疫が蔓延して行くさまを描いたアルベール・カミユの「ペスト」が脳裏に浮かんで、消えなかった。

Ⅲ 国際緊急援助隊の派遣

3月16日より、国際緊急援助隊専門家チーム(第一陣)が活動を開始した。川名明彦医師、照屋勝治医師(共に国立国際医療センター所属)及び山下望JICA職員がメンバーである。状況把握のため、関係者との協議から作業をスタートさせた。保健省。WHO。そして、バックマイ病院。SARSの患者は、フレンチ病院とともに、ベトナム最高峰の病院であるバックマイ病院の熱帯医学研究所で治療を受けていた。バックマイ病院は、日本の無償資金協力によって病棟の建設、機材の供与がなされ、技術協力プロジェクトを実施中の病院であった。

援助隊第一陣の三名は、現地入りした二日後に緊急報告書を取りまとめ、日本の関係者に警鐘を鳴らした。感染対策が焦眉の急であること。マスク、ガウン、消毒薬などの感染防止用の資機材が深刻な不足に直面していること。日本人の罹患者の発生の事態にも備えを作っておく必要があること。

これにより、緊急の資機材供与が加速され、直ちに臨床の現場へと配置されて行った。更に、援助隊第一陣の三人は、保健省及びWHOとの強固な連携体制を構築して、退院許可ガイドラインの策定、患者受入予定病院の体制強化支援、と息をつく間もなく作業に当たった。

第一陣に引き続き、3月26日から国際緊急援助隊専門家チームの第二陣が派遣された。外務省三井孝次課長補佐、国立国際医療センター小原博医師が参加し、山下JICA職員が第一陣から引き続き業務調整に当たった。小原医師はかつてJICAの専門家としてバックマイ病院に対する技術協力プロジェクト(以下「バックマイ病院プロジェクト」と略称)のリーダーを勤め、当時から同病院における感染防御体制の強化に尽力した。

第二陣の活動では、バックマイ病院における感染防御体制の強化を最優先の課題とした。ベトナム保健省、WHOがとりまとめていたSARS対応のための感染対策ガイドラインの策定を支援し、また、ベトナムの医療関係者を対象とした感染防御のためのワークショップを保健省、WHO及び国境なき医師団とともに開催した。このワークショップには、バックマイ病院プロジェクトの金川リーダーと隅田専門家も参加した。

Ⅳ 緊急援助から技術協力へ

「今後、どのような形でベトナム側を支援していったら良いだろうか」

第二陣の派遣期間が終わるに近づくにつれ、われわれは、第二陣のメンバー、ハノイ、東京の関係者と議論を重ねた。幸い、関係者の努力が功を奏し、ベトナムにおける感染の拡大は、くい止められつつあった。われわれが選択したのは、SARS対策を技術協力で引き継いで行くという道であった。バックマイ病院プロジェクトを核とし、これに資機材供与を組み合わることによって、SARS対策の更なる強化とベトナムにおける全般的な感染防御体制のレベルアップを図って行くとの方針だった。未知の病気であるSARSへの対応が国家的な課題となる中、ベトナムの最高峰の病院であり、地域医療ネットワークの要である中核病院の役割を果たすバックマイ病院に協力してきたことが大きな意味を持つこととなった。

4月28日、SARSの潜伏期間とされる10日間の倍の20日間、新たな患者の発生がなかったことから、ベトナム保健省は、WHOと協議の上、SARS制圧を宣言した。ベトナム当局が、国際的な支援に支えられて行った、患者の早期発見の努力、発見された患者の隔離の措置、感染防御対策、情報共有などの取り組みの成果だった。ベトナム保健省は、WHOに加え、特に、日本と国境なき医師団の名前を挙げ謝意を表明した。

制圧宣言の後も、ベトナム政府は、周囲の国の状況にも鑑み、危機が去ったとは考えていない。日本側としても、そうしたベトナム側の努力を引き続き支援していく立場である。資機材供与の継続。感染防御対策強化への支援。バックマイ病院プロジェクトでは、ベトナムの感染防御体制を更に強化するよう、院内感染予防の教育教材(ビデオ、リーフレット等)の作成及びベトナム国内外関係者を対象としたSARS感染予防セミナー開催等の対応が進められている。

Ⅴ オペレーションを振り返って

今回のベトナムのSARS対応支援のオペレーションを振り返って、思うところがいくつかある。

第一は、「国際協力」の持つ意味の再確認である。一国のみでは対応できない問題にドナー、国際機関、NGOからの支援が有効であった点において、ベトナムの成功は、ベトナム自身の勝利であるとともに、国際協力の勝利であった。

第二は、日本がドナーとして総合力を発揮し、その存在感を示したことである。ベトナム側の要請の翌日には援助隊の派遣を決定した即応性。ハードとソフトの両方で支援したメニューの多様性。これらは、ドナーとしての高いレベルの総合力の反映であり、ベトナム側との間でも、また、援助コミュニティーの中でも、大きな存在感を示した。

第三は、ベトナム側への支援と在留邦人の方々にとって意味を持つ支援が密接不可分であったことである。われわれは、ベトナムのSARS対応を全力で支援することを通じて、日本人社会に迫る危険を低減させるために力を尽くしたいと念じていた。

最後に、肝に命じておくべきことがある。今回の日本の支援は、これまでのベトナムでの保健・医療分野の協力の積み重ねの上にあった成果であった。また、上記の即応性は、援助隊の派遣候補者リストを整備し、派遣機関との意思疎通を行なう日々の努力によって支えられたものだった。

いざと言うときに、日本の持ち味を生かし、力を発揮する援助を行うことができるかどうか。それは、どれほど、平生から相手国の開発ニーズに対応する質の高い援助を行い、また、体制整備を行なっているか、にかかっている。

『国際開発ジャーナル』7月号より転載
きたの・みつる

東京大学文学部卒。ジュネーブ大学(国際問題高等研究所)修士。昭和55年外務省入省。内閣法制局参事官、外務省経済協力局有償資金協力課長などを経て、2002年9月から現職。経済産業研究所コンサルティングフェローを兼任。

かなまる・もりまさ

法政大学社会学部卒。昭和48年、海外技術協力事業団入団。研修事業部管理課長、バングラデシュ事務所長、総務部総務課長などを経て、2000年6月から現職。
(※)現職名は、本原稿執筆時(5月)のもの。

2003年7月8日掲載