ノンテクニカルサマリー

長時間労働が日本のメンタルヘルスに与える影響:国民生活基礎調査に基づく実証分析

執筆者 馬 欣欣(法政大学)/川上 淳之(東洋大学)/乾 友彦(ファカルティフェロー)/趙(小西) 萌(学習院大学)
研究プロジェクト 人的資本(教育・健康)への投資と生産性
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

産業・企業生産性向上プログラム(第五期:2020〜2023年度)
「人的資本(教育・健康)への投資と生産性」プロジェクト

メンタルヘルス疾患と長時間労働は、労働者に影響を与える2つの重大な問題である。日本では、長時間労働による労働者の職場ストレスが増加しており、メンタルヘルスに影響を与えると懸念される。厚生労働省の労働者健康調査によると、仕事や職業生活において強い不安や悩み、ストレスを感じている労働者の割合は上昇している。この職場ストレスの増加は、全国的な精神障害患者と自殺者数の増加にも表れている。

長時間労働がどのように日本労働者のメンタルヘルスに影響を与えるのか。この課題に関して、職業医学や疫学分野の研究が行われているが、経済学的アプローチによる実証研究の例は少ない。本研究では、日本国民生活基礎調査(2003-2019)のデータを用いて、非ランダム・セレクション・バイアス(たとえば、なんらかの理由によって労働者が長時間労働をしなければならない場合、長時間労働者と標準時間あるいは短時間労働者グループは完全に任意に選ばれるものではないこと)によって生じる可能性のある内生性の問題を考慮したうえで、長時間労働がメンタルヘルスに及ぼす影響を分析し、またこの影響におけるグループ間の違いを比較した。

3つの結論が得られた。第1に、長時間雇用者(特に週に55時間以上働く雇用者)は、通常の労働時間またはそれ以下の労働時間で働く雇用者と比較して、メンタルヘルスの問題を抱える可能性が高くなる(表1)。第2に、長時間労働がメンタルヘルスに及ぼす悪影響は、正規労働者よりも非正規労働者の方が顕著である(図1)。これらの結論は、傾向スコアマッチング方法(特徴が類似する新たなグループを構築して比較する計量分析方法)によって得られた結果を裏付けている。第3に、長時間労働がメンタルヘルスに及ぼす影響は、異なる就業環境のグループ間で異なる。その影響は、女性、管理職、非正規労働者、中小企業や大規模企業の従業員、および小規模都市の従業員のグループでより大きいことが示された。

表1 長労働時間とメンタルヘルス疾患(傾向スコアマッチング方法による分析結果)
表1 長労働時間とメンタルヘルス疾患(傾向スコアマッチング方法による分析結果)
出所:国民生活基礎調査(2003-2019)のデータに基づく計測。
注:週労働時間45時間以下のグループをコントロールグループとした。モデル1:コントロール変数を含まないモデル、モデル2:コントロール変数を含むモデル。性別、年齢、有配偶者、家計所得、子供の数、配偶者の就業状況、職種、企業規模、居住地の規模をコントロール変数として用いた。ATT:長時間労働者グループと属性が長時間労働者に類似する45時間および以下の労働者のメンタルヘルススコア(数値が高いほどメンタルヘルス疾患になる可能性が高いことを示す)の差。
図1 労働時間とメンタルヘルススコア
図1 労働時間とメンタルヘルススコア
出所:国民生活基礎調査(2003-2019)のデータに基づく計測。
注:縦軸はメンタルヘルススコア(数値が高いほどメンタルヘルス疾患になる可能性が高いことを示す)。

実証研究に基づく政策的含意は以下の通りである。まず、週労働時間が45時間以下のグループと比較して、週労働時間が55時間以上のグループは潜在的に精神疾患を発症するリスクが高い。この結果は、厚生労働省が最近施行している週労働時間45時間以下の推進政策を裏付けるものとなった。週労働時間が55時間を超えると精神疾患のリスクが高まるという結果が得られたため、労働時間規制における長時間労働の上限を週55時間に設定することが望ましいであろう。

次に、長時間労働がメンタルヘルスに及ぼす悪影響は、正規労働者に比べて非正規労働者の方が大きい結論が得られた。仕事―需要モデル(仕事の自由度あるいは権限が低い場合、メンタルヘルス問題が生じる可能性が高い)と努力と報酬の不均衡モデル(もらえる報酬が努力に比べて低い場合、メンタルヘルス問題が生じる可能性が高い)によると、大多数の非正規雇用者は、正規労働者よりも職務上の権限が低く、また正規労働者と非正規労働者間の賃金格差が大きいため、長時間労働は正規労働者よりも非正規労働者の精神的健康に悪影響を及ぼすと解釈できる。日本では、正規と非正規雇用者間の賃金格差が大きいため、ワーキングプアの問題が存在している。長時間労働者の決定要因分析によると、恵まれないグループ(たとえば、低学歴者、低所得者、小企業に勤める労働者など)が長時間労働者になる可能性はより高いことが示された。労働時間の短縮を目的とした政策は、勤労所得水準の低下につながる可能性があり、恵まれないグループの生活状況を悪化させる可能性がある。したがって、労働時間規制政策の実施と並行して、正規労働者と非正規労働者の賃金格差の縮小(たとえば、同一労働同一賃金政策の徹底)など、賃金や勤労所得の向上を目指す政策を重視すべきである。

さらに、ワークライフバランスへの取り組み、家族に優しい政策(たとえば、子供あるいは家族介護のための労働時間の調整を認める制度など)、労働条件を改善するための措置(たとえば、フレキシブル勤務時間制度、超過労働時間の上限を設ける制度など)を実施することで、全体的なメンタルヘルスが向上すると期待される。