ノンテクニカルサマリー

相対的剥奪、選択的インセンティブ、および男女不平等に対する、報酬システムにおけるエミュレーションの影響

執筆者 山口 一男 (客員研究員)
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

その他特別な研究成果(所属プロジェクトなし)

相対的地位に対する賞罰のある競争であるエミュレーションがもたらす社会的結果については、社会的機会が増大すると社会的不満が増大するというパラドックスの原因を「相対的剥奪」により説明するブードンの理論(Boudon 1981)と職場での労働意欲に関する石川(1981)の理論を例外として、合理的選択に基づく社会学理論で今まで体系的に理論分析されてこなかった。また近年フランクとサンスタインにより相対的地位の行動への影響が理論化され、フランク(2018)はさらに近著『ダーウィン・エコノミー』で、それを進化ゲーム理論的に発展させたが、エミュレーションの影響については触れておらず、そこは不十分と思われる。

 

エミュレーションとは相対的順位に関する賞罰のある競争を言い、例示すると、学校における成績の絶対評価はエミュレーションではないが、相対評価(成績分布上の位置で評価)はエミュレーションとなる。オリンピックはエミュレーションだが、高校生の国際数学オリンピックはエミュレーションではない(金銀銅メダリストの人数は固定されず試験成績の絶対評価で決まる)。また内部労働市場による「空き埋め連鎖(vacancy chain)」型の昇進や賃金競争はエミュレーションだが、もし賃金が限界生産性に等しいなら、賃金競争はエミュレーションではない。日本の正規雇用は内部労働市場に類似するので、正規雇用における昇進と賃金の企業内競争はエミュレーションの性格を持つ。

本稿は、エミュレーションのない報酬システムと「努力に関するエミュレーション」と「達成に関するエミュレーション」の二種のエミュレーションを伴う報酬システムのモデルに基づいて、エミュレーションの存在がいかに人々の仕事努力量を変えるか、またその選択の変化が相対的剥奪と男女の不平等にどう影響を与えるかを明らかにしている。ブードン理論や石川理論同様、本稿の理論的結果は、報酬モデルの仮定の下で、全て数理的な演繹的論理によって導かれる。ただし、少人数間のエミュレーションを想定した石川のゲーム理論モデルと異なり、本稿では特定他者の選択が直接個人のコスト・ベネフィットに影響を与えないが、他者の選択の分布は各個人のコスト・ベネフィットに影響を与えるという、ブードン理論型のモデルを仮定している。

  

まず、本稿はモデルの仮定により、エミュレーションのない報酬モデルの下では、最適な仕事努力の量は仕事達成への報酬度が大きいほど大きくなり、仕事努力の機会費用係数(機会費用の個人差の指標)が大きいほど少なくなることを示される。ここで仕事努力の機会費用とは、仕事努力により失われる家庭生活・個人生活時間の犠牲によるコストである。

本稿はまず努力に関するエミュレーションと達成に関するエミュレーションは共に人々の努力レベルを引き上げる効果をもたらすことを示す。同時に、努力に関するエミュレーションと達成に関するエミュレーションは、エミュレーションの下で誰が努力向上のインセンティブをより多く受けるかという相対的インセンティブについて、ほとんど対照的といえる差があり、前者は仕事の機会費用係数の大小で人を選別し、機会コストが小さいためエミュレーションが無くても努力量の大きい者の努力量をより大きく増大させるため努力格差を拡大させるが、後者は仕事達成への報償度の大小で人を選別し、仕事達成への報酬が少なく、またこのためエミュレーションなしでは比較的努力量の少ない者の努力量をより大きく増大させるため努力格差を縮小させることを示す。

この結果、伝統的家庭内分業による男女間の機会費用の差(女性が大きい)を既存の条件とすると、努力に関するエミュレーションの導入(例えば長時間労働できるか否か)は、男女の努力格差を増大させ、その結果男女の達成の格差も拡大させるが、機会費用の大きい女性は増加努力量が少ないので、相対的剥奪は起こりにくいことが示される。ここで相対的剥奪は、エミュレーションの下で他者と同等かそれ以上に努力増加をしたにもかかわらず、エミュレーションの結果において他者に劣るためペナルティーを被ることと定義している。一方男性にとっては、努力に関するエミュレーションの導入は、仕事努力の機会費用の小さい(家事育児を妻に任せきりにできる)男性の過度な努力量(働きすぎ)を、特に所得の高い者に生み出しやすいことが示される。

他方、達成に関するエミュレーションの導入(例えば企業内成果主義)は、フルタイムだが相対的に所得の少ない女性により大きな努力量増大のインセンティブを与える結果、男女の努力格差も達成格差も減少させるが、女性の平均的努力量は男性と比べ(平均機会費用が大きいため)小さくなるため、努力量が少なくとも仕事達成度が他者を上回る能力の高い女性を除き、エミュレーションの結果ペナルティーを受けやすく、相対的剥奪が起こりやすいこと。また男性の場合も仕事能力が低くかつ仕事達成への報酬度が低い者は、達成に関するエミュレーションの下では人一倍に努力量を増やすにもかかわらず、達成結果が他者より劣るため、エミュレーションの結果ペナルティーを受けやすく、相対的剥奪が起こりやすいことが判明した。

この結果エミュレーションは努力量を増やし達成度を向上させるが、努力に関するエミュレーションは男女格差を増大させたり、家事育児をしないですむ高所得男性の働きすぎを生み出したりする可能性が高く、他方達成に関するエミュレーションは男女格差を縮小させるが、努力を人一倍増すにもかかわらずその努力が報われない相対的剥奪者を特に平均所得の低い男女に生み出しやすい、というそれぞれの独自の弊害もあることが示された。

 

以上は、あくまで数理理論による予測結果であるが、事実との整合性も高いと思われる。しかし理論予測の厳密な実証的検証は今後の課題である。

参考文献
  • 石川経夫. 1981.「労働意欲の決定要因としてのエミューレーション効果について」『経済学論集』第47巻
  • ロバート.H.フランク. 2018. 『ダーウィン・エコノミ―:自由、競争、公益』(若林茂樹訳)日本経済新聞出版社
  • Boudon, Raymond. 1982. Unintended Consequences of Social Action. London: McMillan Press.