ノンテクニカルサマリー

引退が健康状態・機能状態・生活習慣に及ぼす影響;「暮らしと健康」調査パネルデータによる検討

執筆者 橋本 英樹 (東京大学)
研究プロジェクト 社会保障問題の包括的解決をめざして:高齢化の新しい経済学
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

社会保障・税財政プログラム (第三期:2011~2015年度)
「社会保障問題の包括的解決をめざして:高齢化の新しい経済学」プロジェクト

1.本研究の目的:引退の健康影響について先行発表研究との関係

本研究は2013年に発表した先行研究(13-E-078)をさらに精緻化した追加報告となる。先行研究ではJSTARデータの第1回ならびに第2回調査データを用いて、賃金労働(自営業含む)からの引退が中高齢者の健康・機能状態に与える影響を検討したところ、男性でうつの増加ならびに認知機能の低下が見られたが、引退前職業の仕事がストレスの高いものであった場合、その程度が少ないことなどを見出した。しかし就労形態や職種・その他就労条件による違いについて、十分な検討がなされていなかった。また手法論的にも逆の因果による影響(健康状態が引退の意思決定に影響すること)や未測定要因の影響を十分除去しきれていなかった。

その後2013-2014年に相次いで発表された、引退による健康影響をめぐる国際的研究動向の総説においても、就労形態や就労条件などによって引退の健康影響は不均一なものであることが次第に明らかになってきている。そこで今回は1)引退⇒健康影響の因果関係をより厳密に検証する手法を採択し、2)就労形態や職種・就労条件による違いを層化分析したうえで、より詳細に引退の健康影響を検証することを目的とした。また今回は喫煙や食行動などの生活習慣行動についても引退前後での変化が見られるかを検討した。

2.分析の方法と結果

本研究では、因果関係の方向性をより確かなものとし、未測定要因(ただし時不変な)による交絡の影響を極力除くため、傾向スコアマッチングを施した差の差分析(Difference-in-difference)を実施した。また用いる変数の欠損値によるバイアスを極力抑えるため、多重代入法(multiple imputation)によりデータを補完し、分析を実施した。前回研究の成果をもとに、性的役割の違いを反映し男女で引退過程は大きく異なることから、男女別に、就労形態・職種などによって層化分析を実施した。

主な結果は以下のとおりである。まず引退の健康影響は男女いずれにおいても、平均的に見れば大きなものではなかった。しかし、層化分析の結果、属性や健康アウトカムによって影響が見られやすいものがあった。たとえば、男性でホワイトカラー職についていたものや職安定性の高い職についていたもの、女性では65歳以上の高齢で職安定性の低い職についていたもので、引退により認知機能の低下が見られる傾向があった。また男性で正規雇用職についていたもの、職安定性の高い職についていたもので、引退後うつ状態に陥りやすい傾向が見られた。一方、職業ストレスの高い職についていた男性では、引退後高血圧の有病率が低下していた。

図:引退による影響(ATET:引退者での平均効果)
図:引退による影響(ATET:引退者での平均効果)

3.政策的な意義

今回の詳細な検討の結果、引退が健康に与える影響は、おしなべて見れば大きなものではないが、影響を受けやすい属性、受けやすい健康アウトカムがあることが明らかになった。このことは海外の近年の研究総説でも示されているように、引退の健康影響が引退前の就労形態・職種ほか条件によって不均一に見られるという見解と一致している。

特に男性では、仕事にコミットする度合いが高いホワイトカラー職・職安定性の高い職・正規雇用職などで、認知機能の低下やうつ状態の増加などが見られる傾向があり、これは我々の先行発表論文の結果とも一致していた。いわゆる「役割理論」によれば、仕事役割から引退後に地域や家庭での役割への移行がスムーズに行かない場合、自尊心や自己効力感などが低下し、健康に負の影響が出ることが示唆されている。仕事にコミットしやすい属性を有する男性で、仕事役割の喪失により認知・心理的な側面で負の影響が見られていたことは、「役割理論」と合致した結果であると考えられる。すなわち男性の場合は、役割移行について支援を必要とする属性をハイリスクグループとして選定し、引退後の役割設計を支援するための教育機会の提供などが必要なのかもしれない。

一方、女性の場合は高齢・職安定性の低い、むしろ就労条件の質が低いグループで認知機能に負の影響が見られていたことから、男性とは別のメカニズムが想定される結果となった。今回の検討では、引退前後での本人収入の低下が、男性では有意ではなかったのに対し、女性ではいずれの層においても有意に見られていたことから、引退が経済的状況に与える負の影響は女性において著しく、特にその影響を受けやすい層で、健康・機能の低下が見られていたことは示唆的である。つまり、女性の場合、引退前後での経済的状況の変動が大きい層をハイリスクグループとして選定し、年金ほか社会保障によるサポートが健康維持に必要なのかもしれない。