ノンテクニカルサマリー

従業員のメンタルヘルスと労働時間-従業員パネルデータを用いた検証-

執筆者 黒田 祥子 (早稲田大学)
山本 勲 (慶應義塾大学)
研究プロジェクト 労働市場制度改革
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

人的資本プログラム (第三期:2011~2015年度)
「労働市場制度改革」プロジェクト

2000年以降、日本では精神疾患を患う人が増加傾向にあると言われており、昨今では、メンタルヘルスの不調は個人の問題だけでなく、経済的・社会的損失をもたらす問題として社会的に注目されるようになってきた。たとえば、厚生労働省の試算によれば、自殺やうつ病による経済的・社会的損失は2009年度だけで約2.7兆円に上ることが示されている。精神疾患の発症原因については、仕事や職場、とりわけ日本では労働時間の長さにあると指摘されることも少なくないが、メンタルヘルスと労働時間との関係を検証した国内外の研究は、疫学あるいは社会科学の分野のいずれにおいてもそれほど蓄積されていない。そこで、本稿では、労働時間との関係に注目しながら、同一個人を追跡調査した従業員の個票データを活用して、メンタルヘルスを毀損させる要因の特定化を試みる。

具体的に、本稿では、従業員を追跡したパネルデータを用いて、労働時間の長さとメンタルヘルスとの関係を検証する。先行研究では、労働者に固有の効果をコントロールしたり、労働者属性や職場環境などの詳細な情報をコントロールしたりしたものが少ないため、長時間労働がメンタルヘルスの毀損につながるのかどうか、必ずしも明確な知見が得られていない。そこで、パネルデータを活用することで、逆の因果性を考慮するとともに、仕事の特性や自律性、残業時間、不払い残業時間などの要因とメンタルヘルスの関係を明らかにする。

また、本稿では、従業員のメンタルヘルスを測る指標として、GHQ(General Health Questionnaire)という統一尺度を利用する。疫学分野の研究では、こうした統一尺度を用いることは通例となっているが、経済学分野の既存研究のほとんどが、「ストレスの有無」や「仕事への満足度」といった簡便な指標をメンタルヘルスの状態をあらわす変数として用いてきた。本稿の分析では、GHQというメンタルヘルス指標の統一尺度が労働時間や労働者属性、職場環境などの諸要因とどのような関係にあるかを明らかにする。

分析の結果、まず、メンタルヘルスの状態は同一労働者でも経年的にみると大きく変化することが確認された。次に、表に示した固定効果モデルの推計結果によると、労働時間の長さはメンタルヘルスを毀損する要因となりうること、特に、サービス残業という金銭対価のない労働時間が長くなると、メンタルヘルスを毀損する危険性が高くなることが明らかになった。

表:メンタルヘルス指標の規定要因:固定効果モデルの推計結果(抜粋)
表:メンタルヘルス指標の規定要因:固定効果モデルの推計結果(抜粋)
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備考)1. 括弧内は頑健標準誤差。
   2. *、**、 ***は、それぞれ10、5、1%水準で統計的に有意であることを示す。

ただし、(表には未掲載だが)属性別にみると、男性・40歳未満・大卒といったグループではサービス残業がメンタルヘルス悪化の要因として挙げられる一方、女性や大卒以外の層では金銭対価の有無にかかわらず時間的な拘束が長くなるほどメンタルヘルスが悪化する要因となることも示唆された。これは時間制約に直面する度合いが属性間で異なることも関係していると考えられる。また、メンタルヘルスの毀損は個人の問題に帰するものとはいえず、表に示されているように、仕事の進め方や職場環境・風土によっても大きく左右されることも分かった。これらの結果は、労働時間の長さや職場環境の改善が一次予防対策として有効となりうることや、こうした改善を図ることによって悪くなりかけた心の健康を取り戻すことも可能であることを示唆している。

ここで、有効な施策としては、ある一定の短期間内に心身の疲れをリセットできるような制度の整備があり、その1つとして「勤務間インターバル制度」が考えられる。この制度は、一定時間以上の休息時間を義務化するものであり、たとえば、1日当たり最低連続11時間以上の休息期間を付与することを義務付けた欧州連合(EU)の「休息時間制度」などが例として挙げられる。企業としては、効率的なシフト体制の構築や複数のタスクをこなせる人材育成などに取り組むことが必要になるが、オフィス・店舗・現場などで長時間拘束されるような労働者の休息を確保するためには有効な制度といえる。

もう1つは、「労働時間貯蓄制度」の普及である。この制度は、繁忙期の超過労働時間の一部を「貯蓄」し、閑散期に休日として使用することを認める制度であり、ドイツなどで実際に導入されている。労働者には、閑散期にまとまった休暇をとれるという意味でメリットがある。また、企業にとっても、時間外手当が休日へ振り替えられるため、手当分のキャッシュが不要になるという意味でメリットがある。この制度は、特に、交代要員が容易に見つけにくい専門性の高い職種の労働者に有用と考えられるほか、金銭的な対価が支払われないサービス残業も、休暇というかたちで代替的に補償されればメンタルヘルスの毀損もある程度の回復が見込める可能性がある。