ノンテクニカルサマリー

最低賃金の労働市場・経済への影響‐諸外国の研究から得られる鳥瞰図的な視点‐

執筆者 鶴 光太郎 (ファカルティフェロー)
研究プロジェクト 労働市場制度改革
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

人的資本プログラム (第三期:2011~2015年度)
「労働市場制度改革」プロジェクト

最低賃金政策の是非を巡って重要な判断基準となる雇用への影響については、日本でも実証分析の蓄積が進んでおり、大規模なミクロ・パネルデータを使い、より最低賃金変動の影響を受けやすい労働者へ絞った分析は、ほぼ雇用へ負の効果を見出している。一方、アメリカでの最近の研究をみると、新たなデータや手法を使い、正負の影響を巡って論争が続いている。

しかし、単に雇用への負の効果の有無のみを巡って論争を続けることは不毛であろう。なぜならば、第1に、完全競争を仮定したとしても最低賃金の上昇でさまざまなレベルで代替効果が起き、「勝者」と「敗者」が生まれるためである。最低賃金上昇は最もスキルの低い労働者への需要を減少させる代わり、よりスキルの高い労働者の賃金は相対的に割安になるため、彼らの需要は増加すると考えられる。また、労働コストの割合、中でも、最低賃金労働者の割合の高い企業(主に中小企業)・産業は相対的に不利になる一方、スキルの高い労働者をより多く雇い、スキルの低い労働者も最低賃金よりも高い賃金で雇っている可能性の高い大企業・産業などは相対的に有利になり、雇用を増やす可能性もあるのだ。

第2は、最低賃金の影響を考える場合、雇用への影響のみならず、所得再分配、企業の収益や価格、長期的には人的資本への影響まで考える必要があるからである。雇用への影響がみられない場合でも、最低賃金上昇の負担は、労働者の生産性が上がらない限り、労働者の労働時間が減少するか、企業の収益が悪化するか、企業が負担を価格に転嫁できれば、それを消費者が負担することになる。つまり、最低賃金上昇はその負担を誰かが担うわけであり、決して「フリーランチ」(ただの昼飯)ではない。

日本の最低賃金政策へのインプリケーションは以下の通りである。まず、第1は、最低賃金上昇に特に影響の受けやすい層への配慮である。日本の分析でも10代若年が雇用への悪影響を受けやすいことが明らかになったが、ヨーロッパ諸国のように、若年も年齢階層に分けて異なる最低賃金を適用する(より若年の最低賃金の水準を低くする)ことも検討に値しよう。日本の場合、OECD諸国の最低賃金・中位所得比率が国際的にかなり低いことを根拠に大幅な引き上げの必要性を訴える議論があるが、最低賃金の水準を購買力平価で評価した実質賃金でみると、OECD諸国の中では中程度であり(図)、慎重な議論が必要だ。第2は、最低賃金を引き上げる場合でも、なるべく緩やかな引上げに止めるべきであることだ。第3は、雇用への影響ばかりではなく、企業へのマイナスの影響を十分認識することである。第4は、最低賃金制度への依存は労使関係の機能不全の象徴と考えると、低賃金労働者の待遇改善を労使関係の中でいかに実現させていくかという方向の努力も重要であることだ。第5は、最低賃金政策も「エビデンスに基づいた政策」への転換が求められていることだ。イギリスでは、新しい全国最低賃金制度の導入とともに最低賃金政策の提案を行う低賃金委員会を発足させ、調査・分析機能を大幅に強化した。交渉の現場であり公益委員が労使の調整役を果たしている日本の中央最低賃金審議会においても、こうした観点からの組織見直しが必要であろう。

図:実質最低賃金(時間当たり、購買力平価USドル表示)の国際比較(2010年、OECD)
図:実質最低賃金(時間当たり、購買力平価USドル表示)の国際比較(2010年、OECD)