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三位一体改革で数値目標はどこまで重要か

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2004年度予算から3年計画ではじまった三位一体改革(地方財政制度改革)が、今、佳境を迎えようとしている。この改革に関して現在、新聞紙上で大きく取り上げられている記事は、そのほとんどが補助金削減である。実際は、その分増える地方財源のあり方を考えることが重要なのだが、詳細を知らない一般読者は、補助金を削減することが目的なのかと勘違いしてしまうであろう。

また、その補助金も、昨年決まった国民健康保険をはじめ、義務教育費(11月25日現在、地方側の主張である中学校教職員給与の削減ではなく、小中学校教職員給与の補助率を下げるという折衷案で調整中)、現在議論中の生活保護費(25日現在、調整難航中)といった、一見、国が担うべきと考えられる仕事しか削減対象に上がってこない。

義務教育費に関しては、今年、文部科学大臣の諮問機関である「中央教育審議会」で活発な議論がなされ、国が(財源も含めた)責任を持つべきとして、補助金削減に反対する結論を下している。ほかにもさまざまな議論がなされてきたが、いずれも抽象論に過ぎず、相手のあら探しをするのに終わったというのが実態である。

この背景にはどのような問題が隠されているのであろうか。そもそもこの改革とは当初、いったい何を目指していたのだろうか。

三位一体の本質

まず、改革の経緯と内容を見てみよう。地方財政とは、各地方自治体(以下、全体を総称して地方政府と呼ぶ)が直面する財政制度のことである。現在、日本国は集権的な財政システムとなっており、中央政府(以下、国)からの財政的援助のもとで、地方政府は行財政運営を行っている。高度成長の時代には、均衡ある国土の発展という方針のもと、国からの補助金が全国に分配され、その補助金をもとに、地方政府は成長を遂げてきた。

しかしながら、バブル崩壊後、税収は減少する一方で、地方政府の財政を支えるため、より多くの補助金が配分されることとなった。その結果、現在、国家財政は危機的状況に直面している。国が抱える国債残高は、774兆円(05年度末)にも及ぶ状態にある。この背景には、非効率な景気対策を多く行ってきたという問題もあるが、非効率な政策を誘発する制度上の問題も大きい。すなわち、無責任体質を生み出す財政補助、縦割り行政が生み出す省益優先の補助事業などである。

現在行われている地方財政制度改革は、まさにその制度の構造を抜本的に改革し、国に頼らない、地方政府による自立した財政運営を生み出そうとする試みと理解されている。三位一体とは、(1)「税源移譲」、(2)「補助金の改革」、(3)「交付税の改革」を意味する。(1)は、国(中央政府)で集める税と地方で集める税の配分を変更し、地方の集める配分を高めようとする(国から地方への税源の委譲)ものである。

実際、地方が多くの事業を行っている一方で、地方税源は少ない。このギャップを埋め合わせるために、膨大な補助金が配分されている。(1)はまさにこのギャップを解消することを目的としていた。そして改革を後戻りさせないために、3兆円の税源移譲と4兆円の補助金削減という数値目標が定められた。来年度が最終の年度に当たるため、今年の予算編成では、その目標を達成するための内容を詰めるべく決断が迫られている。

ここで注意しなければならないことは、この数値目標が正しいのかどうか、正しいとしても、この数値目標を設定し、改革を進めるという方針が、かえって間違った方向に改革を進めてしまわないかどうかである。すなわち、この改革によって、現在の危機的な財政状況、非効率な財政運営を招いてきた要因を取り除き、真の目的である地方の自己責任による財政運営(地方自立)が可能となるのかどうかが問われているのである。

置き去りにされた議論

今回の改革には、三位一体という言葉からもわかるように、3つの問題ある制度を一体として改革しようという目標があった。しかしながら、数値目標はそのうち2つ、すなわち税源移譲(3兆円)と補助金削減(4兆円)に設定されただけである。これは、交付税に数値目標をあえて置かないことによって、それをクッション材として使用し、他の改革における数値目標の達成を実現しようという配慮の表れであったと考えられる。

数値目標の達成は、外見上、改革の成功の指標となるため、最優先課題となる。本来は、補助金を削減して得られた財源を地方に移譲するのであるから、国と地方の役割分担とその規模をまず固める必要があるのに、補助金削減の議論だけが新聞紙上で大きく取り上げられるようになった背景には、このような数値目標の設定があったのである。

また、使途の限定されていない一般財源である交付税や地方税の改革よりも、使途が決められている補助金のほうが、一般市民には実感がわきやすい。このことも、その削減というメッセージが新聞は大きく取り上げる誘因となった。

では、改革の方向性に大きく影響を与えた数値目標とは、どのように設定されたのであろうか。

数値目標の根拠を明確に示した資料は、存在しない。現在、国と地方の税の割合は、6:4(03年度決算で45.4兆円と32.7兆円)、国と地方の歳出の割合は、4:6(同55.9兆円と91.3兆円)であり、これを5:5に近づける第1段階の措置として、数値目標が設定された。

1段階としては、区切りがよく無理のない範囲ということで、4兆円と、その75%としての3兆円(25%は効率的な財政運営によって節約が可能と判断)が設定されたと考えられる。しかしながら、ここに来てその予想は大きく崩れ、4兆円の削減達成が危ぶまれている。

この混乱の背景にある問題は第1に、根拠のない数値目標である。補助金には、毎年政策に応じてその額を決定する奨励的補助金と、法律で支出が決められている義務的補助金がある。本来まず削減対象と考えられるべきなのは、奨励的補助金である。この補助金には実際、非効率的なものも多いとされているからである。

しかし、非効率であるならば、そもそもその事業の必要性はないのであるから、税源移譲の対象にはなりにくい。また、そこに含まれるであろう公共事業は、主に国債でその財源をファイナンスしており、財務省は、財源移譲になじまないと反論する。その結果、このタイプの補助金が削減対象にならないという悪循環に陥ったのである。一方、義務的補助金に関しては、そのあり方を議論する前に、国と地方の間で、どちらがその根拠となる法律にかかわる権限・責任を持つべきかを議論することが筋であろう。これをしないまま、義務的補助金も含めた数値目標が設定されたため、大いに混乱することになったといえる。

第2の問題点は、国と地方の役割分担・規模を議論しないままの(国から地方への移譲という)方向決定である。義務的補助金が削減対象の候補に挙がったときに議論が混乱する背景には、その仕事の全責任を地方が担うべきであるのか、つまり国と地方の役割分担が明確化されていないことがある。

通常、全国統一の法律に基づく義務的な経費は、その財源の配分の仕方(インプットを細かく規定するのか、自由に支出させアウトプットで評価するのか)の議論はあるとしても、その法律に全責任を持つ国が財源も担うのが当然であると考える国民は多い。確かに、地方の歳出と歳入の間に存在するギャップは、自己責任による財政運営という地方分権の目標の観点からは是正すべきである。しかし、その是正の方向はひとつではない。歳出が歳入を上回っている現在の状態に対して、(1)歳入を増やす(地方への税源移譲)、(2)歳出を減らす(国への歳出返還)の2つの方法がある。

このどちらになるのかは、まさに、各仕事の責任をどちらが担うべきなのかに依存するのである。現在地方が行っている歳出の中に、国が行うべき義務的歳出が含まれているのであれば、それは、税源移譲ではなくて、国へ仕事(及びかかわる財源負担)を返還するのが正しい方向であろう。税源移譲だけがギャップを埋める方法ではないのである。

第3は、地方分権の真の意味をとり間違えた改革となっている点である。前述したが、地方の歳出に合わせて歳入を増やすことだけが、真の意味での自己責任による財政運営の確立を意味するわけではない。重要なことは、真に地方が行うべき仕事を選別し、その仕事に対しては、自己責任で財政運営を行い、自立した地方政府を生み出すことなのである。義務的経費がカットされ、税源移譲されたとしても、その補助金の根拠となる法律に対して国が責任を持つ限り、自己責任の範囲は拡大しない。

戻れない改革、迫られる決断

改革が始まっていない時点であれば、これまでに述べた問題点をあらかじめクリアにして改革に望むべきであると言えるが、現時点では、すでに最終年度を迎えた改革をどのように締めくくるのかを考えなければならない状態にある。

政治的プロセスを考慮すれば、数値目標の実現が絶対条件であるわけであるから、たとえ誤った改革が含まれているとしても、「誤った改革+正しい改革」のセットという意味での総合的視点から、少しずつでも改革を進めることが容認されるのかもしれない。数値目標も税源移譲も実現できない場合、「改革の失敗」というイメージによる小泉内閣の求心力の崩壊、及びそれに伴う今後の改革スピードの低下が起きる可能性があるからである。

このままだと(責任・財源を国が担うべきか、それとも地方が担うべきかに関しての国民投票をした場合、国が望ましいと判断されるような)真に国が担うべき事業が、数値目標を強引に達成することに伴い、地方に任されてしまうことになりかねない。それでも間違った補助金が削減され、税源移譲されることからくる弊害は、「改革を断行した」という小泉内閣のイメージに比べると、小さいのかもしれない。言い換えれば、悪いイメージの払拭に比べれば、その事業に関しての弊害を事後的に改良することは、相対的に容易なことであるとも考えられるからである。

役割分担を明確にした真の地方分権を

最後に、国と地方の役割分担を明確にし、真の意味での地方分権である、「自己責任に基づく財政運営」を実現するための地方財政制度とは、どんなものであるべきなのかを考えてみよう。

現行制度のもとでは、国が責任を持つべき事業に関しても、その財源は国からの補助金だけではなく、一部が地方の財源や交付税によって負担されており、国と地方の責任が明確化されていない。

地方に対しては特定財源で財源保障することで、事業をやらない口実を封じ、その一方で追加的な部分は地方の裁量に任せることを徹底することで、国の過剰な関与を抑制することが重要である。また、責任を一元化し、地方の財政運営をアウトカムベースで評価する一括交付金にすれば、地方に一般財源化と同様の自由度を保証しながら、国と地方の責任分担を明確化することが可能となる。

また、地方の必要経費と自主財源の差額を補填する交付税制度は、地方の自己責任という意識を曖昧にし、財政規律を損なわせている。費用を追認して国が面倒を見るというようなシステムではなく、地方で追加的に選択した事業はその地域の住民の追加的な税負担によってまかなわれるようにし住民のコスト感覚に合わせた事業が選択されるようにすべきである。

そこで、以下では、地方交付税と国庫支出金を統合した上で、国の責任として財源を保障する「財源保障機能」のみと、と機会均等の観点から格差を是正する「財政調整機能」のみを行う2つの補助金システムを提唱したい。この補助金で不足する部分に関しては、地方政府が独自に課税した財源で、自己責任で財政運営を行うのである。

(1)財源保障機能を担うブロック補助金

財源保障機能に特化した補助金である。全国でナショナル・ミニマムを達成するために国が財源を負担するとともに、その範囲は、国民の合意として国の責任として行うべきもののみに限定する。すなわち、真のナショナル・ミニマムとして、国民が認める「基礎サービス」に限定し、国の事後的裁量を抑制(過剰に地方の自立を妨げない)する。基礎的サービスとしては消防・警察、義務教育、最低限の社会福祉、災害復旧などを念頭におくが、その基準は全国一律にすべきであろう。

特定財源であるから使途は分野ごとに限定されるが、運営の詳細は、民間委託も含めて地方の裁量に委ねられる。交付金化とあわせて地方自治体の基礎的サービス供給の実態(アウトプット)を情報公開し、アウトカムで評価する制度を整備する。そのため、ブロック補助金の使途は分野で限定するが、分野内では自由にする。その規模は、地域間の相互比較を行って、努力インセンティブを埋め込むように決定する。決められた水準を達成できない場合には、財源を所管する省庁が責任を持って、その達成に邁進することも必要である。特に、ノウハウの少ない小規模自治体に関しては、その必要性は高い。

(2)財政調整機能を担う水平的移転または、新交付税

国税の一部を、地方のための税源として確保し配分する現在の交付税制度を、財政調整特化型にする。これは、財政的に自立の困難な地域に、自立のための機会を与える最低限必要な財源を配布するものである。重要なことは、財政調整機能のみを担う制度にして、透明性を高めるということである。また、基礎的な生活水準は、財源保障機能を担うブロック補助金で達成されているから、この補助金は、機会のみを調整するという意味で、需要を考慮せず、簡素な仕組みで収入格差のみを是正するものとすべきである。財政調整は追加的なサービスを行うための財源配分であることを明確にし、その規模はあらかじめルールで決まった国の主要税収の一定割合として国家財政と連動させ、財源保障名目での曖昧な裁量の余地を制限することで新交付税の膨張を抑制する。調整方法・基準に関しては、透明性を確保し、国と地方が協議して決定する。

このような明確な機能を持つ2つの補助金を設定することで、国の責任が必要最小限に限定され、追加的サービスに関しては、自己責任のもと、財政調整による交付税で担保される財源に加え、地方税で独自に調達された財源によってまかなわれることになる。これによって、究極の自立した地方政府が生まれることになるのであり、それが地方分権の真のゴールなのである。

今後は、このゴールに向け、国と地方の役割分担に関する国民との議論を徹底的に行うことから始めるべきである。

2006年1月号『論座』(朝日新聞社)に掲載
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