■スポーツの象徴機能

 

 スポーツの果たす「機能」あるいは「効用」に関して、「公共性」と同様に重要であると思われるのは「象徴性」であろう。スポーツは多くの人に同じ参画意識を持たせ得る強い「象徴機能」を有す。例えば静岡の石川県知事は、我々のインタビューにおいて以下の様にその価値を指摘した。
 「今回のWカップでは、多くの一般県民が自発的に様々な催しを企画・実施した。また行政とパートナーとなって共同で行った事業も多く、この経験はこれから民間あるいはNPOなどと行政がアフィリエート関係を結ぶなどして、共同でいろいろな問題に対処していく上で、いわばパイロット事業のような機会でもあった。これはWカップの持つ魅力によって、多くの人が同じ目的・目標意識を共有することで初めて可能であった。」
 ここで挙げられている、「自発的な参加」という点は頗る重要である。「行政主導のボランティア」とは言語矛盾以外の何者でもないのだが、ボランティアの思想・文化・経験に乏しい我が国では、従来そういった例が少なくなかったようだ。行政にも市民にも、ボランティアを「する」と「受け入れる」の関係をどうとり結ぶべきか、それは経験を通して学習するしかないのである。その過渡期であれば、行政主導のボランティアというブラック・ジョークのような事態にも一定の意味を認めなければならないのであろう。
 この点で「Wカップの開催」は両者の距離を一挙に縮める機会を提供したようである。開催地となった自治体の全てが、「ボランティア」に言及していることが、この問題へのアプローチに関する手詰まり観を推測させよう。
 もっともこれらも確かに大きな成果には違いないだろうが、その成果はどのように評価すべきかという点、いまだ確たる評価手法と評価指標が存在しないというのもまた冷厳なる事実なのである。
 しかし「スポーツは行政評価になじみにくい」という事実は、大会の事後検証を怠る言い訳にならないのは今更言うまでも無い。困難だということが、やらなくて良いということにはならないのである。どのような事項についても、どのような評価手法が開発されようが、100%正確な評価などは不可能ではある。それが評価不要の根拠にならないのも最早多言を要しまい。