ノンテクニカルサマリー

過去の賃下げ経験は賃金の伸縮性を高めるのか:企業パネルデータを用いた検証

執筆者 山本 勲 (ファカルティフェロー)/黒田 祥子 (早稲田大学)
研究プロジェクト 企業・従業員マッチパネルデータを用いた労働市場研究
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

人的資本プログラム (第四期:2016〜2019年度)
「企業・従業員マッチパネルデータを用いた労働市場研究」プロジェクト

2015年の有効求人倍率(パート除く、年平均)は、1992年以来23年ぶりに1を上回り、近年では「人手不足」や「求人難」という言葉も散見されるようになってきた。こうしたことを受けて、賃上げによる経済の好循環に期待が寄せられているが、実際の賃金は企業業績の改善に比べて伸び悩んでいる。こうした現状に鑑み、本稿では、賃上げや過去の賃金カットに関する情報を含んだ企業パネルデータを用いて、どのような企業で賃上げが生じやすいかを検証した。

賃上げが抑制される要因としては、先行研究において、不確実性の増大や外国人株主・機関投資家からのガバナンスの強まり、グローバル化などが指摘されているが、本稿は、これらの理由に追加して、名目賃金の上方硬直性は下方硬直性によってもたらされている、という可能性を検証することを目的としている。ここで、名目賃金の下方硬直性とは、額面(名目レベル)での賃下げができない状況のことを指す。本稿では、不況にもかかわらず賃下げができず人件費調整に苦慮した経験を持つ企業は、再び不況になった際に同じ問題に直面する可能性を考え、景気が回復しても賃上げに慎重になってしまう可能性について定量的に検証する。

分析に利用するデータは、経済産業研究所の「人的資本形成とワークライフバランスに関する企業・従業員調査」の2014〜15年度企業調査の個票データであり、欠損値や外れ値などを除外した従業員10人以上の776企業、2099サンプルを用いた。

分析の結果、まず、図1に示したように、過去10年間で所定内給与自体の引き下げを実施した企業は2割弱と少なく、リーマンショックなどの大規模なショックが生じた期間であったにもかかわらず、所定内給与は下方硬直的だったことが示唆された。

図1:過去10年の賃金カット回数の構成比
図1:過去10年の賃金カット回数の構成比

次に、過去に所定内給与の引き下げができなかった企業ほど、景気回復後の賃上げを躊躇する傾向にあるか、逆に過去に所定内給与を引き下げた企業ほど近年の賃上げに積極的になっているかを推計したところ、図2に示したように、部分的ではあるが、そのような傾向が確認された。図2は、賃金カットの経験が賃上げに与える影響を推計した結果を図示したものである。推計では、過去10年間の賃金カットの経験(賃金カットの回数)によって所定内給与改訂額(単位:千円)がどのように変わるかを確認しており、他の要因を統計的に一定とするために、不確実性、外国人株主の有無、成果主義の導入状況、利益率、雇用者数、労働時間、産業、企業規模などをコントロールしている。図2では、賃金カットの影響の大きさが統計的に有意にゼロと異ならない影響は濃いグレー、それ以外のケースは薄いグレーで棒グラフを示している。なお、賃金カットの情報としては、非管理職の所定内給与の賃金カットの回数を用いた。

図2:過去の賃金カットが賃上げに与える影響
図2:過去の賃金カットが賃上げに与える影響
備考:
1) 濃いグレーは統計的に有意な影響を示す。
2) 基本ケースは変量効果モデル、利益率との相乗効果は固定効果モデルの推計結果。
3) 図中の棒グラフは、過去に賃金カットを実施した企業は、賃金カットを一度も実施しなかった企業よりも賃上げがどの程度大きく生じたかを示したものである。

図2(1)で推計結果の基本ケースをみると、過去10年に所定内給与を4回以上カットした企業では、賃金カットの経験がない企業よりも所定内給与改訂額が有意に高くなっていることがわかる。改訂額への影響の大きさは780円程度であり、改訂額の平均が3500円程度であることを踏まえると、影響は小さくないと判断できる。このことは、過去に所定内給与のカットを複数回実施したような企業では、名目賃金の下方硬直性による賃上げの不可逆性がなくなり、所定内給与を引き上げていることを示唆する。

さらに図2(2)には、利益率が改善する局面でより多く賃金に配分するような行動がとられているかを検証するため、利益率と過去の賃金カットの経験の相乗効果の推計結果を示している。ここでは、利益率が高まると賃上げが実施されるが、その際には、過去に賃金カットを経験した企業ほど賃上げの度合いがより大きくなるかといった相乗効果の推計値が棒グラフで示されている。図をみると、利益率が高くなった場合、賃金カットを1回経験している企業では賃金カットを経験しなかった企業に比べて、有意に賃金改訂額を増加させる傾向があることがわかる。つまり、業績が改善する局面においても、過去に賃金カットを経験している企業では、賃上げの不可逆性が弱まり、賃上げが生じやすくなっていると解釈することができる。

日本では1990年代末以降に年間給与に関しては下方硬直性が観察されなくなったとされるが、所定内給与については依然として下方硬直的となっていることが示唆される。所定内給与の下方硬直性は、デフレを深刻ではなくマイルドにとどめるという意味では望ましいともいえよう。しかし、その結果、企業にとって所定内給与の増加が不可逆的なものになってしまっており、賃上げやインフレが生じにくい構造が生じていると指摘できる。

1990年代以降、多くの先進諸国では低インフレに直面し、経済学ではそうした環境下で生じるリスクの1つとして、名目賃金の下方硬直性が大規模な失業の発生を通じて労働市場の資源配分を歪める可能性について考えられてきた。本稿の結果は、名目賃金の下方硬直性は不況が起こったその時点のみならず、その後の景気回復局面においても賃金や価格の上方向の調整を遅らせる影響があることを示唆している。景気回復局面における影響は、これまで必ずしも注目されてこなかった点であり、低インフレ・ゼロインフレのもう1つの弊害と指摘することもできる。