著者からひとこと

インタンジブルズ・エコノミー 無形資産投資と日本の生産性向上

著者による紹介文(本書はしがきより)

L'essentiel est invisible pour les yeux

「本当に大切なものは目に見えない」。これは、サン=デクジュベリが「小さな王子様」の中でキツネに語らせた言葉である。同様の言葉は、日本企業の経営者や経営学者達によってたびたび語られてきた。おそらく彼らが指しているのは、日本的な組織やそれを支える人的資産であることが多いのだが、現実に「見える化」される企業の「見えざる資産」は、長い間電話加入権や特許権が対象であった。つまり、企業内に蓄積された「見えざる資産」のほとんどは、定性的または情緒的にしか評価されてこなかったのである。

本書は、この「見えざる資産=無形資産」が、経済成長や企業成長に果たす役割を実証的に評価しようとする試みである。何故、いま「無形資産」なのか。一つの要因は、IT革命である。1990年代後半に始まった IT革命は、ハードな資産よりもソフトな資産の重要性を再認識させた。それは単にソフトウエアの重要性が増したということに留まらない。人材や経営組織などの育成や改革もまた、この新しい技術革新にとって不可欠な要素であるということが認識されたのである。

もう一つの要因は、バブル崩壊後の日本の長期停滞をめぐる議論に関連している。この間積極的な財政政策、拡張的な金融政策、労働市場改革など様々な対策が経済学者や経営学者などから提起され、実際にその中のいくつかは実行に移されてきた。しかしこの 25年間日本経済が劇的に改善したわけではない。このことは、日本の長期停滞が特定の分野に問題により引き起こされたのではないことを示している。

1980年代を謳歌した「日本的経営論」は、故青木昌彦教授の洞察にあるように、生産システムや技術力、労働、金融のいずれかが優位であることから繁栄をもたらしたのではなく、それぞれが調和をもった関係であった点に特徴がある。この点を踏まえると、その後の日本経済の停滞は、生産や技術革新を実現する企業組織、労働、金融といった企業の内部・外部との関係性が、相互に噛み合わない状況が生み出したものとして解釈することができる。

本書は、こうした問題意識から、現代の日本経済や日本企業を労働、金融といったいわば確立された研究分野としての「縦軸」からアプローチするのではなく、「無形資産」というキーワードを軸に、分野横断的に企業の内部組織、企業を取り巻く市場の課題を明らかにしようとしている。こうしたアプローチは、かつて青木教授が経営学者である伊丹敬之教授と『企業の経済学』(岩波書店、1985年)を著したように、異なる分野の専門家の知見を必要とする。一方で、このアプローチは、一つの分野を深く掘り下げる専門家には物足りない部分が残る危険性がある。しかしその専門家が日本経済全体に対して何らかの提言を行う際に、見過ごせない他の専門領域の課題が本書には収録されていると考えている。

もとより「無形資産」という研究課題は、日本経済に対する処方箋の一つとしてのみ意義があるわけではない。集計的な無形資産投資の計測が、Corrado, Hulten, and Sichelら米国の研究者によって切り拓かれたことや、OECDでも Knowledge Based Capitalという名称で報告書が出されていることからもわかるように、無形資産をとりまく経済的・経営的課題は先進国間で共有されており、最近では、Journal of Economic Literatureのkeywordとにもなっている。こうした無形資産をとりまく研究の世界的な広がりについては、2015年1月に公刊された Intangibles, Market Failure and Innovation Performance (Bounfour and Miyagawa eds, Springer)を参照されたい。

学習院大学経済学部は、こうした分野横断的な研究を実施するには最適な環境であった。学習院大学は中規模大学であるため、経済学部は経済学科と経営学科が併設されている。無形資産のような両学科にまたがる研究課題については、こうした学科構成は有利な環境であったと言える。日本有数の経営戦略の専門家で、企画当初は経営学科に在籍されていた淺羽教授や、金融の分野で数々の卓越された業績を残されている細野教授が、無形資産を研究対象とする企画に賛同して下さった背景には、こうした学部内での距離感の近さがあると思う。両教授は、無形資産という研究課題に興味を示して下さっただけでなく、それぞれの専門分野から適切な人材を紹介して下さった。

私自身は、こうした方々から専門分野以外の知見を学ぶ機会を与えられただけでなく、プロジェクトを運営する中で、まさに組織や人材という無形資産の核となる研究課題を実践的に学ぶことができた。

本書は、2010年4月から5年にわたって続けられた科学技術研究費基盤(S)「日本の無形資産投資に関する実証研究」プロジェクト(代表者:宮川努)及び 2013年4月から2年間にわたって続けられた(独)経済産業研究所の「日本の無形資産投資に関する研究」プロジェクト(プロジェクト・リーダー:宮川努)での研究成果を中心に構成されている。両プロジェクトを長期にわたって支援して下さり、本書の刊行に際して助成をして下さった学習院大学経済学部及び(独)経済産業研究所に深く感謝したい。さらに、2015年度に入ってからは、両プロジェクトを拡張または継続するプロジェクトとして科学技術研究費基盤(B)「日本の無形資産投資に関する実証研究」プロジェクト(代表者:宮川努)及び(独)経済産業研究所の「日本の無形資産投資に関する研究」プロジェクト(プロジェクト・リーダー:宮川努)からも支援を得た。本書に収められている論文は、2014年に学習院大学で開かれたコンファレンスで報告された。学習院大学でのコンファレンスで討論者となっていただいた鈴木和志氏(明治大学)、本庄裕司氏(中央大学)、坂野友昭氏(早稲田大学)、朝井友紀子氏(東京大学)、権赫旭氏(日本大学)には深く感謝したい。また多くの論文に利用されている独自調査の実施に御協力いただき、本書の成立に多大な御助力をいただいた独立行政法人経済産業研究所、特に藤田昌久特別顧問、中島厚志理事長、森川正之副所長、深尾京司ファカルティフェロー(兼一橋大学経済研究所教授)には深くお礼を申し上げたい。本書を構成する多くの章(序章、第1章、第3章、第5章、第6章、第7章、第9章)は、それぞれ経済産業研究所におけるDiscussion Paperを発展させたものである。また、学習院大学の科研費プロジェクトに関しては森山由美子さん、土肥玲子さん及び吉田章子さんからの、経済産業研究所のプロジェクトに関しては内藤真理子さんからの忍耐強いサポートをいただいたことにも感謝したい。

最後に東京大学出版会の大矢宗樹さんには、従来の学問的な領域をまたがり、学問的にもまだなじみのない研究成果の刊行を快くお引き受けいただいた。心より感謝を申し上げたい。

2016年8月
編者を代表して 宮川 努

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淺羽 茂顔写真

淺羽 茂