一般均衡の幻想

荒田 禎之
研究員

「マクロ経済学には大きく新古典派経済学とケインズ経済学の2つがあり......」

大学の学部生向けの教科書ではこのような教え方をすることが多い。そして、財政・金融政策に話題が移ると、多くのページを割くのはケインズ経済学についてである。しかし、これがマクロ経済学の基本と思って大学院に進んだならば、その学生はひどく戸惑うことになるだろう。多くの大学院でまず勉強する内容は、ケインズ経済学の延長線上にあるものではなく、完全な別物と言っても過言ではないからだ。

この状況は1970年代にマクロ経済学に起きた激変を反映したものである。キーワードは「ミクロ的基礎付け」だ。

例として、インフレ率と失業率が逆相関するという「フィリップス曲線」を取り上げよう。今、マクロデータを検証してフィリップス曲線が観察されたとする(図・P1)。しかし、だからといって、政策当局がその曲線上の点を都合よく選ぶことができると考えてはならない。

仮に政策当局が失業率を下げようとインフレ率を上げる政策に踏み切ったとしても、企業や家計がこの政策変化から将来のインフレ率を完全に予測できるならば、価格をそのインフレ率に合わせて変更しさえすれば、企業や家計にとって実質的な変化はなく、失業率も変化しないからだ。インフレ率が上がるだけである(図・P2)。

図:インフレ率を上げる政策がフィリップス曲線そのものを動かし、失業率は変わらない
図:インフレ率を上げる政策がフィリップス曲線そのものを動かし、失業率は変わらない
(出所)筆者作成

これは、企業や家計の形成する期待によっては、政策変化がフィリップス曲線そのもの、つまりはマクロ変数の関係を変化させてしまうことを意味している。マクロ変数だけを見ていてもどうしようもないのだ。そこで、企業や家計というミクロの経済主体の行動、特に合理的な個人の最適な行動にまでさかのぼってモデル化し、それをベースにマクロ変数の関係についての議論をするべきだ、ということになる。これが「ミクロ的基礎付け」と呼ばれるものである。

ルーカスの勝利宣言

このミクロ的基礎付けという考えは、70年代以降、中央銀行の政策論議の範囲を飛び越え、マクロ経済学のありとあらゆる分野を席巻することになった。そして、このミクロ的基礎付けを持っていないとして、それまで経済学の主流を占めていたケインズ経済学は厳しい批判にさらされ、葬り去られることになる。

例えば、87年のルーカスの講義録にはその考えがよく表れている。ルーカスは「近年の最も興味深いマクロ経済学の進展は、インフレや景気循環のようなマクロの問題が、ミクロ経済理論の一般的なフレームワークの中で扱われるようになったことであり、この進展が進めば、マクロという言葉自体も使われなくなるだろう」と述べている。そして、ケインズ経済学について「理論にそぐわない、理解し難い現象が現れた時に、それは何か全く別の経済理論の証左だと言いたくなる誘惑に屈服したものである」と切り捨てている。

この見方から言えば、ミクロ経済学とマクロ経済学を隔てるものは存在しない。現在広く受け入れられている動学的確率的一般均衡論(DSGE)もこの見方を踏襲し、個人の最適行動から議論がスタートするという点では同じである。そのため、論文の中心を占めるのは、家計や企業など経済主体の最適な行動をいかに解くかであり、大学院のマクロ経済学で扱う内容もここに焦点が置かれることになる。

この流れは、ルーカスが2003年に米国経済学会の会長講演で行ったマクロ経済学の「勝利宣言」にまで至る。その冒頭でルーカスは「いかなる実際的な目的に照らしても、恐慌を防ぐというマクロ経済学の中心的課題は解決をみた」と明言した。しかし、その5年後、1930年代の大恐慌以来の金融危機、リーマン・ショックが世界を襲ったのである。

さて、このミクロ的基礎付けを、アローやドブリューによって完成されたとされる一般均衡論から見てみよう。

一般均衡論は、合理的、利己的な個人が価格を基に市場で取引を行えば、社会的に効率的な状態、均衡に自然に達するという「見えざる手」の理論的な背景とみなされ、多くの経済学者にとってある種の「心のよりどころ」のようなものである。

一般均衡論でいう均衡とは「市場参加者が与えられた価格で、どの財をいくら売り買いするかについて最適な行動を行い、かつ全体として見た時、超過需要も超過供給も発生していない状態、またそのような価格」を意味する。

この均衡の存在は、経済学的に見ても自然な仮定の下で証明できることが知られている。しかし、一般均衡論の議論はそれで終わりではない。均衡があると言ってもその均衡は一つに定まるのか(唯一性)。また、もしその均衡から外れた場合、ちゃんと均衡に戻るのか(安定性)。均衡を分析するにしても、そもそもそこに向かうのでなければ分析の意味がない。残念ながら、ゾンネンシャインらの一連の研究から、これらの問いに対し否定的な結論が導かれている。

つまり、ミクロの経済主体が全て同じ(同質性)など、強い仮定を置けば唯一性も安定性も担保できるが、経済主体は皆異なる(異質性)というようなより現実的な仮定の下では、唯一性も安定性も何ら約束されないのである。比喩的に言えば、個人の合理性からは「見えざる手」は見えないのみならず、存在もしないのである。

ここで注意すべきは、実際の経済主体が合理的であるか否かを議論しているのではなく、仮に合理的としてもマクロレベルで言えることがほとんどないという点である。前述のアローは86年の論文でそのことを次のように簡潔に表現している。

「集計レベルでは、合理的な行動という仮定は一般に何のインプリケーションも持たない」

この結論を素直に受け入れれば、個人の合理性というミクロ的基礎付けを分析の正当性の根拠にしようとしたここ数十年のマクロ経済学の歩みは、その根本的な部分に深刻な問題を抱えたままのように思える。少なくとも、かつてケインズ経済学を葬り去った時のように、ミクロ的基礎付けが明確か否かで事の正否を決めるのは行き過ぎではないだろうか。

マクロ経済の新しい展望

実際、DSGEや一般均衡論の枠組みから離れて、異なるアプローチで経済現象を理解しようという試みはある。例えば、一般均衡論で価格システムは、モノでも労働者の給料でも全く同じであるが、法律や制度、慣習などの要素を重視する研究もある。また、経済主体間に働く相互作用、特に価格システム以外のものに注目し、景気循環や金融市場のパニックを「集団現象」という立場から理解しようという試みもある。

もちろんこれらのアプローチは、今もさまざまなアイデアが提起されているが、いまだにもがいている段階と言わざるを得ないだろう。また、1つの原理から全てを統一的に理解するというものでもないため、不完全で、時には泥臭く見えるかもしれない。しかし、その泥臭いもがきからこそマクロ経済学の新しい展望が開けるものと、私は考えている。

『週刊エコノミスト』2016年5月31日号(毎日新聞社)に掲載

2016年6月15日掲載

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