第17回RIETIハイライトセミナー

米国新政権下での通商政策と雇用・社会保障のゆくえ(議事概要)

イベント概要

議事概要

米大統領に就任したトランプ氏は「米国第一主義」を掲げて既に新たな政策に着手し、株式市場では経済政策への期待が先行している。しかし、環太平洋経済連携協定(TPP)からの離脱表明、所得格差や経済的弱者に対する雇用・社会保障政策の不透明さなどから、しばらくは冷静な分析が求められる。今回のセミナーでは、RIETIの川口大司ファカルティフェローが雇用や社会保障政策の面からトランプ氏の政策の影響について論じ、冨浦英一プログラムディレクターはトランプ氏の通商政策の方針から、日本や世界の経済がたどるべき進路について語った。続いてディスカッションが行われ、米国の保護主義的通商政策や国際通商ルールの行く末について議論を深めた。

理事長挨拶

中島 厚志 (RIETI理事長)

「米国第一主義」を掲げるトランプ氏が米大統領に就任した。実際に大統領になれば言動が変わるのではないかとの予想に反し、就任初日から従来同様の振る舞いを続けている。今回のセミナーでは視点を少し変えて、トランプ大統領が米国第一主義を掲げたことよりも、現在の米国の大きな問題であり、トランプ大統領もこれまでにさまざま言及してきた米国の通商政策や社会保障、雇用政策について理論的に見ていきたい。

通商問題では、トランプ大統領は既に環太平洋経済連携協定(TPP)からの離脱を宣言する大統領令に署名している。また、最大の貿易赤字を負っている中国に対して、厳しい言動を取り続けている。

一方、米国は日本や欧州主要国と比べて成長に伴って経済格差が拡大しやすいので、大幅減税や教育のインフラ投資など大胆な成長戦略を行うと同時に、社会保障の充実や踏み込んだ分配政策が不可欠なのだが、今のところそうした政策は打ち出されていない。

本日はこのあたりに焦点を当てて、新政権誕生に伴う米国の経済・社会の展望や、日本や世界への影響について、専門的見地からお二人の先生に議論していただく。

講演1「トランプ新政権と雇用・社会保障政策」

川口 大司 (RIETIファカルティフェロー / 東京大学大学院経済学研究科教授)

賃金格差拡大とトランプ大統領が掲げる政策

トランプ大統領は、通商政策を通じて、米企業が海外に工場を造り、国内の雇用を失っている部分を取り返すと主張している。さらに、メキシコ国境の壁に代表される制限的な移民政策を提唱し、オバマケアを廃止すると主張している。

米国でトランプ大統領が誕生した要因の1つとして、格差の拡大が挙げられている。普通の人々の中でも格差が拡がっており、その主たるものは学歴による賃金格差拡大である。

物価水準を考慮した実質的賃金の動向で見てみると、男性の場合、1964年と2012年を比較したところ大学院卒のような一部の高学歴の人たちの賃金は約2倍になったが、高卒程度の中間層の賃金の伸びは低く、1980年を起点とすると、むしろマイナスになっている。女性に関しては、すべての学歴の人たちの賃金は上昇しているが、学歴間の格差は年々拡大してきている。

この要因としてトランプ大統領が指摘するのは、グローバル化の影響である。高卒の工場労働者の仕事が中国からの輸入によって駆逐されたり、米企業の工場が途上国に移ったりすることで彼らの仕事がなくなってしまうという論理である。トランプ大統領の政策は、それを逆転させるためのものと整理できる。

しかし、賃金格差の拡大は、他にいくつも要因があるとされている。グローバル化の流れを逆転させても、格差拡大を逆転させられるかは不透明だ。

賃金は需要と供給の相対的なバランスで決まる。つまり大卒と高卒の賃金格差が拡大しているということは、大卒の需要が増え、高卒の需要が減っていることを意味している。

賃金格差が拡大している要因

2001年に中国が世界貿易機関(WTO)に加盟して以降、中国からの輸入品がものすごい勢いで米国市場に入り、結果として製造業の仕事がなくなったとされているが、2000年代初期の格差研究では、輸出入の影響はあまり大きくないとされていた。それは中国のWTO加盟前の研究だったからで、このことに研究者が気づいたのは比較的最近である。

2001年のWTO加盟を境に、米国では労働年齢人口に占める製造業労働者の割合は小さくなり、中国からの輸入増加率が急激に高まった。中国からの輸入が米製造業を代替し、米国における低技能労働者の需要が減少したと考えられている。今回、トランプ大統領が多くの票を獲得した地域は、製造業の雇用が減少した地域である。

労働者の需要構造を変化させたもう1つの要因といわれているのが、技術進歩である。2000年代初頭までの研究では、雇用の変化は技術進歩でほとんど説明できるのではないかといわれていた。しかし、1960年から2000年までの間のタスクの変化を見ると、非ルーティンの作業でコミュニケーションを伴う仕事、分析的な仕事が増加した一方で、帳簿をつけるようなルーティンの頭脳労働は減少した。そうした仕事は、一定のルールに従った仕事を繰り返し処理する作業を得意とするコンピュータに置き換わったからである。

ルーティンの頭脳労働には、所得分布の真ん中あたりに位置する人々が従事していた。この中位の人々に対する労働需要の減少は技術進歩によって説明できるが、このことにトランプ大統領は言及していない。

グローバル化で高卒者の仕事がなくなっているとすれば、グローバル化を止めれば歯車が逆転するかもしれないが、技術進歩の影響によって格差が拡大しているとすれば、通商政策を変えたところで格差拡大を止められるとは限らない。

移民が米国の低スキル労働者の雇用を減らしたり賃金レベルを引き下げたりしているという見方もあるが、近年の研究ではそのインパクトは数量的にそれほど大きくない。移民の流入を止めたいと言っているのは、中間層の所得を上げたいというモチベーションからだけでなく、文化的な側面もあると思う。

需要と供給で格差がどう変化するかを示すに当たって、米国と日本の経験を比較すると、面白いことが分かる。大卒者の相対的な供給量は日米ともに増えていて、増え方のペースは日本の方が速いが、大卒の相対賃金は米国では上昇しているのに対し、日本は上がっていない。つまり、日本では大卒と高卒の賃金格差がそれほど広がっていないのである。

疑問なのは、米国で大卒者の需要が増えているにもかかわらず、なぜ供給が増えないのかという点である。米国は高等教育の質が高いことはよく知られているが、大卒者の供給が制約される要因の1つは、中等教育までの質がそれほど高くないことだと指摘されている。

地域の雇用と投票行動

今回の米大統領選の結果を見ると、明らかに地域性がある。クリントン氏が勝ったのは西海岸と東海岸の州が多く、他ではトランプ氏が勝っている。

投票結果をルーティンな仕事に就いているかどうかという視点で整理し直すと、ルーティンの仕事をしている人の割合が多い地域でトランプ氏が大勝し、ルーティンの仕事をしていない地域ではクリントン氏が勝っている。このことから、グローバル化や機械化によってルーティンな仕事が奪われ、相対的な地位が下がった人たちがトランプ氏に票を入れたのではないかともいえる。

オバマケアとは何か

オバマケアの背景には、米国特有の事情がある。

米国には貧困世帯と高齢世帯を除いて公的な保険がない。個人レベルの民間保険が売られているが、健康に不安がある人ばかりが保険を買うので、いわゆる逆淘汰と呼ばれる現象が起こり、結果的に保険料がどんどん上がる。保険料が上がると健康な人はますます買わなくなり、保険として成立しなくなる。

この問題を解決するため、雇用者のレベルでまとめて保険に加入し、リスクをある程度プールするのが一般的である。ただ、転職すると保険に新しく入り直さなければならないので、既往症がある人は転職が制限されてしまい、賃金を抑圧されるとの批判もあった。

国民全員が保険でカバーされるようにしようとしてAffordable Care Actは既往症の有無などで保険加入を制限することを禁止しようとし、年齢や居住地域、家族構成、喫煙の有無などの外形基準に従って保険料を定めるルールにした。そうすると、今までは健康な人が多く働く大企業は保険料が安かったが、人口属性でリスクをプールして保険を売ると、一部の人は保険料が上がってしまう。それが不満を生んでいることをトランプ大統領はアピールしたのである。

無保険者には罰金を科し、基本的に皆が保険にカバーされる形にするというのがオバマ氏のアイデアだったが、非常に強い批判に遭っているのが現状である。その理由は、そもそも米国の自助の精神とあまり一貫性がないことと、実際に保険料が上がってしまった人たちがいたことだといわれている。

労働市場の観点からすると、既往症のある人が転職できないことで、労働者の交渉力を弱めるともいえる。そのため、これが賃金を抑圧する形に働いているという指摘もある。一方、オバマケアが普及すると労働市場の流動性が高まり、労働者の交渉力が上がって、賃金も上がるという少しひねりの利いたメカニズムも議論されている。

トランプ大統領の政策と格差解消

米国における賃金格差拡大の要因には、グローバル化、技術進歩に加え、労働市場制度の変化も挙げられる。米国では日本と同様、組合組織率が低下している。労働組合は労働者の格差を縮小する機能があることが知られているので、これが縮小すれば格差が拡大する。もう1つは、実質的な最低賃金が低下していて、これによって格差が拡大していると指摘されている。米国の賃金格差は、複合要因によって拡大したと理解されているのである。

では、各要因がどれだけの割合を占めているかという話になるが、1つの枠組みの中で全てを分析するのは難しくみえる。そのため、グローバル化を逆転させると、どれぐらい格差が縮小するかは明らかではないが、少なくともいえるのは技術進歩の影響が大きいことであり、この部分に関しては何も変わらない可能性がある。

トランプ大統領に希望を託して投票したのはごく普通のアメリカ人が多かったのだが、彼らの期待は今後大きく裏切られる可能性がある。技術進歩が格差拡大の発生原因とするならば、それはどうしようもない。米国の知識層はトランプ大統領を強烈に批判し続けると思うが、その批判が有権者に届くとは考えにくく、分断はより深まっていくかもしれない。

国内的な不満が外に向けられたとしても不思議ではなく、今後の対外政策が懸念される。われわれは現実を見据え、それを所与のものとして対応していくしかないと思う。

講演2「米国トランプ新政権と貿易の長期趨勢について」

冨浦 英一 (RIETIプログラムディレクター / 一橋大学大学院経済学研究科教授)

トランプ政権の通商政策

トランプ政権の通商政策の特徴として現時点で挙げられるのは、就任演説にもあった「アメリカ・ファースト」で、二国間(バイラテラル)交渉による輸出振興、米製品の優先購入(バイ・アメリカン)である。

国際経済政策をゼロサムのビジネス交渉と見ているということが、言葉の端々から感じられ、就任演説でも、米国がどれだけ外国の産業をもうけさせてきたか、米国の中間層の所得がどれだけ海外にばらまかれてきたかといった話が出てきた。

また、マクロの経済バランスよりも、分かりやすいミクロの個別ケースに注目する傾向が強く、昔からのモノの貿易に関する話が多いという特徴がある。

日米貿易摩擦の「記憶」

米国の貿易収支の推移を見ると、1960年代はほとんど赤字がなかったが、レーガン政権時の1980年代半ばに記録的に増えた。それでも最近の貿易赤字額と比べれば小さかった。

しかし、日米貿易摩擦が沈静化して、日本では日米の貿易収支にはあまり関心が払われなくなっていた。米国の貿易赤字の推移は、米国にとっては非常に重要な政治的イシューだったが、日本の視野からは外れていた。

その後、非常に大きな節目となったのは、中国の世界貿易機関(WTO)加盟である。それまでは中国側が最恵国待遇を得られなくなるかもしれないという不確実性があったが、それがなくなったことで貿易赤字が急速かつ大幅に拡大した。

実は、直近のオバマ政権の8年間は、米国の貿易赤字は増えておらず、むしろやや減っている。しかし、1990年ごろから2000年代半ばにかけての爆発的な貿易赤字拡大が強く印象に残っているため、米国の貿易赤字が破滅的に拡大しているという議論が多い。

その議論の中で、特に大統領自身がよく使うレトリックとして、日米貿易摩擦の「記憶」がある。しかし、日本の対米貿易黒字は長い間にわたって拡大しておらず、また、米国の貿易赤字解消に米国の輸入制限措置が与える効果はごくわずかであったというのが経済学者の一致した意見である。

近年、日本の国際収支は赤字基調が続き、黒字を輸出ではなく海外への直接投資(FDI)で稼いでいる。そのため、米国の通商政策の日本への波及効果を見る場合に重要なのは、日本製品の輸出がどれだけ減るかよりも、米国やメキシコ、ヨーロッパ、東南アジアに展開した海外子会社の収益がどれだけ打撃を受けるかである。

なお、日米でバイラテラルな交渉が行われる際に、世界経済に占める日本の地位が小さくなったことは、日本の交渉力の問題として認識しておくべきだと思う。

WTOとメガFTAの行く末

世界の通商秩序は、貿易自由化交渉(ドーハ・ラウンド)が動かなくなって久しく、世界最大の輸出国である中国はWTO加盟当初から非市場経済と認定されたままで、不確実性が高くなっている。

しかし、紛争処理機能はWTOの重要な役割であることに変わりはない。日米貿易摩擦が激化した1980年代にはGATT(関税および貿易に関する一般協定)しかなく、世界的に紛争処理機能が非常に弱かった。その状況下でバイラテラルの交渉をせざるを得なかったため、米国は通商法301条やスーパー301条で日本の不公正な貿易慣行に対して一方的な輸入制限をしていた。

それに対する防波堤として、WTOで紛争処理機能が付け加わったことは非常に大きな変化だった。だから今、バイラテラルで一方的な輸入制限をすれば、相手国がWTOに訴えて、当時とは違う展開になることが期待される。ただ、世界で最大の貿易国の1つである米国がWTOを無視すれば、それが世界の通商秩序に与える影響が懸念される。

米国が主導していたメガFTAについては、トランプ大統領はTPPを永久に離脱するとはっきり宣言しており、自国にとって有利な二国間交渉を求める方向への転換が予想される。

ただ、TPPは単なるFTAではなく、サービス貿易やFDI、デジタル電子商取引など、従来のGATTやWTOで合意されていなかった分野について高い水準の規律を導入し、法の支配の原則を貫徹した透明性の高い国際経済ルールを作ろうとした点で非常に意義がある。米国のTPP離脱により、そのクオリティの高いルールが壊れてしまうことの影響は大きいと言わざるを得ない。

また、トランプ大統領は北米自由貿易協定(NAFTA)についても「大惨事」と表現して「再交渉する」と言っており、当面は米国内に工場を残して雇用確保を優先することが政策的に重要なアジェンダになると思われる。ただ、現状、NAFTAには、締結当時にアジェンダに挙がっていなかったeコマースやロジスティクス、アウトソーシングなどについては規定がないので、再交渉でそれらについてTPPで合意されたような内容が加えられれば、国際展開している企業にとってはメリットとなる。

貿易構造の変化

最近は国際分業で中間財の貿易が増えている。今や日本の輸出の主力は部品や素材、中間財をアジアに輸出することで、それらは中国で組み立てられて最終的に米国に輸出される。見かけ上、日本の輸出額は減っているが、経済協力開発機構(OECD)では、見かけの貿易量ではなく、貿易に含まれる付加価値分だけを取り出した輸出額を試算している。

それによると、2000年ごろまでは日本は輸出額が大きく、中国は見かけ上の輸出は多いが、付加価値があまりないので付加価値ベースで見ると輸出額は少なかった。しかし、今世紀に入って付加価値ベースの輸出額でも中国の方が日本よりも多くなった。

日本企業は1980年代の貿易摩擦の頃のように国内で生産して海外に輸出するのではなく、FDIによる海外生産が主力となっており、現在、日本の製造業企業の海外生産比率は全業種平均でも2割を超えている。しかも、海外生産の場所は、欧米との貿易摩擦を回避するための現地生産からASEANや中国に移っている。

日本企業にとって、EU向けには英国が、米国向けにはメキシコが生産拠点になっている。しかし、去年Brexitとトランプ政権誕生がともに決まり、英国とメキシコの両方に問題が生じる事態になった。

そうなると、残る拠点であるASEANの域内貿易が円滑に行われることは、日本の産業にとっての生命線となる。低コストの生産地を求めてさらに遠くへ行くのか、巨大市場に近接して生産を行うのか、国内に回帰するのか、日本は今、その岐路に立たされている。

一方、米国のサービス貿易黒字は一貫して拡大している。1980年代半ばに貿易赤字が一時的に増えた時期でさえ、金額的には非常に小さかったものの、サービス貿易は黒字だったが、近年は、サービス貿易の黒字は拡大して巨額になっており、モノの収支だけで見た場合とサービスの収支を足した場合とでは、違いがかなり大きくなっている。

つまり、米国はモノではなくサービスでお金を稼いでおり、米国の貿易収支にはサービスの黒字が非常に大きな役割を果たしているということである。このような時代にモノの個別品目の輸入規制や関税が重点的に議論されることは、米国の国際競争力の構造変化と合っていないと思う。

米国貿易の長期趨勢

政策の高い予見可能性は、企業が良好なビジネス環境を確保する上で重要な要素であり、特に国内で生産・輸出する昔の国際分業に比べ、FDIをして海外で企業活動を行う現在の方が、長期的政策の予見可能性が与える影響はより重大である。意表を突いた政策の変更が続くことは、特にFDIが活発な時代にあって決してビジネス・フレンドリーな環境とは言えない。

日本も米国も世界全体も、1980年代の日米摩擦が激しかった当時とは状況が一変している。通商政策の重点も、サービス貿易やFDI、デジタル・電子商取引に関する新たなルールの構築に移っている。そうした中で、昔からの個別品目のモノの輸入制限はグローバル化した現実の産業界の要請に合っているのだろうか。

トランプ大統領は、当面は選挙時にコミットしたアジェンダに従って輸入制限や過去の貿易協定の破棄を言い出すだろう。貿易構造や国際分業構造が変わっているにも関わらず、このような通商政策が打ち出されているのが現状だと思う。

しかし、長期的にはグローバルな市場や企業の実態に合うよう、折り合いをつけていかなければならないので、試行錯誤しつつ、ある程度は落ち着いていくとは思う。とはいえ、実際に経済活動を行う人々にとっての問題は、それまでにどのくらいの時間と個別具体的な試行を要するかである。

ディスカッション

中島理事長(RIETI): 学歴の差で賃金上昇の差が大きくなるとすれば、教育水準を上げないと格差を解消できない。しかし、トランプ大統領は保護貿易や移民流入規制で雇用を守るとは言っていても、教育水準を上げるとは声高に言っていない。その辺をどう見ているか。

川口: 教育水準を上げて、格差を縮小させることが王道だと思う。しかし、米国の大卒者が伸び悩んでいる理由として、高校を卒業した人の学力がそれほど高くないことと、米国の大学の学費が高くなって大学に行けない人が増えていることが挙げられる。高いコストが掛かるものを多くの人が利用できるようにするには、税金の投入は避けられないので、その部分がうまくいくかどうかが問題になる。また、初等・中等教育の質の向上も米国が長く抱えている問題である。トランプ政権がこの問題の解決に当たるのか、注意深く見守っていく必要がある。

中島理事長: すぐに教育水準を高度化できないにしても、時間稼ぎで人材高度化や職種転換などがあり得ると思う。

川口: おっしゃるとおりだ。人材育成は時間がかかるので、その間の時間稼ぎとして保護主義があり得ると思う。一方で、職種転換の話もあった。地域で製造業の仕事が失われたならば、その人たちが非製造業に行けばいいという話である。しかし、地域から製造業がなくなると、派生的にサービス業の需要もなくなってしまうため、サービス業が立ち行かなくなるということが、雪だるま式に起こってしまう。基本的に高卒者や高校中退者は地域の移動性が低いので、問題を解決するのはなかなか難しいという感じがする。

中島理事長: 社会保障の充実がないのに経済成長を高めると、所得格差が拡大する。こういうときにはどんな対策が望まれるのか。トランプ大統領は対策を実行する可能性があるのか。

川口: 一般的な回答は、税制の累進度を高めて再配分することだと思う。トランプ大統領に投票した人々が福祉社会を望んでいるのかという面もある。独立自尊という思いを強く持っている人が多いとすれば、必ずしも経済的に恵まれていなくても、福祉を拡大することには賛成しないという複雑な政治的判断をしている可能性があると思う。そう考えると、技能を高めて、自分で稼げる力を身に付けてもらうことが重要になる。ただ、それには税金の投入などが必要で、課題は非常に大きい。

中島理事長: TPPを永久離脱し、NAFTAを見直すということは、米国にとってこれから稼げるかもしれない分野を放棄することになるのではないか。そうだとすると、米国自身の利益のために、いずれTPPに回帰する可能性はあり得るか。

冨浦: TPPは大きな国が認めない限り発効しないので、TPP自体に回帰する可能性はないと思う。ただ、新しいルールなどTPPの内容自体は、米国にとっても重要だと思う。

中島理事長の資料にもあるように、アメリカ人の雇用に悪影響を与える要因のトップに「他国への業務アウトソーシング」があがるなど、米国にとってモノの貿易よりもサービスの越境が実は脅威になっているので、サービス貿易を無視してモノの貿易ばかりに注目する政策への反対の声が、どこかの時点で出てくると思う。

それから、海外生産が増えて中間財や部品が国境を越えて何回も行き来する国際分業が蜘蛛の巣のように込み入っている状態では、二国間交渉による原産地規則が非常に複雑になって、いろいろ問題になる。そう考えると、サービスなどの新分野を含んだリージョナルな協定は自国の利益になると最終的には認識されると思うが、どういう政治的プロセスをたどるか、また、リージョナルな協定に最終的に納得した上でたどり着くまでにどれだけ時間がかかるのか、私にはよく分からない。

中島理事長: 今回、米中の貿易摩擦が何らかの形で起きる可能性があると思うが、どういうパターンの摩擦になり得るのか。

冨浦: 予測するのは難しいが、かつての日米貿易摩擦の経験が現在の米中貿易摩擦に当てはまらない面が幾つかあると思う。まず、中国はWTOの認定どおり非市場経済であり、普通の市場経済のルールに従っているわけではない。また、貿易赤字も経済規模も全く違うので、摩擦が起きた場合の影響も異なる。それから、WTOが存在するので、日本が取った輸出自主規制のようなことは許されていない。また、安全保障面でも、中国は日本とは異なるので、日米貿易摩擦と同じ展開にはならない。

中島理事長: 米国で保護主義的な通商政策や雇用を守る政策が実施された場合、日本経済にどういう影響が考えられるか。

川口: 米国で競争制限的な政策が取られたとき、それが意図したとおりに米国の労働者のためになるかどうかは分かりにくいところがある。米国は労働政策に関しては何もしない国であり、労働者と企業の間の合意に基づいて労働契約が成立するので、トランプ政権が成立したところで、その延長線上となり、あまり大きな驚きを与える形の政策変更が行われるとは思えない。

冨浦: 直接的な影響としては、日本からの輸出が減ることが懸念される。日本は海外生産を増やしているので、日米のバイラテラルな交渉で決められることばかりではなく、メキシコやカナダまで含めた影響が広がってくると思う。間接的な影響としては、WTOの国際ルールが壊されたり無視されたり、バイラテラルの交渉による力づくの状態に戻ってしまったりすることが懸念される。

国内で再分配の機能が十分果たされていないと、貿易自由化に対する国内の支持が広がらなくなる。競争が激しくセーフティネットもない国の場合、輸入制限に行きがちなので、貿易自由化やグローバル化を進めるためにも、米国内でオバマケアをなくす方向に行くことは影響があると思う。

中島理事長: 今後の国際通商ルールはどうなっていくのか。

冨浦: 世界の通商システムがWTOに回帰する可能性は小さいだろう。米国はバイラテラルな取引で交渉して自由化を決めていき、中国は非市場経済で国営企業の役割が非常に大きい経済を展開する。2つの大国が自由貿易や法の支配の原則、市場経済からかなり異なるアプローチを取ることで、世界的に非常に不安定になる恐れがある。それだけ米中のインパクトは大きい。

米国とWTOの緊張関係は当面高まるのではないか。米国と中国がしばらくその方向に振れるのであれば、日本を含む残りの国々が集まって、自由貿易やグローバル化のメリットを破壊されないために何ができるかを考える必要があると思う。

中島理事長: 世界の社会保障や雇用システムは今後どうなっていくと考えるか。ヨーロッパ型の社会保障重視や積極的労働市場政策などへの方向転換が加速することがトランプ現象の帰結だという気もするが、どう思うか。

川口: 今回の大統領選でサンダース候補が、貧しい人でも大学教育を受けられる改革をしようと強く主張して一定の支持を得たことは、そういった考え方が出てきている証拠だと思う。一方、社会保障を充実させる仕組みを入れていくときに重要なのは、国民の統一感というか、自分も将来、福祉の世話になるかもしれないから、税金でそれが賄われることもサポートするという社会的な信頼である。

ヨーロッパ諸国において、雇用を守るためのアプローチには2つあるといわれている。1つは失業保険を充実させる方法、もう1つは解雇規制を厳しくする方法である。主に北欧は失業保険を充実させる方向で、社会全体で仕事や生活の安定性を保つアプローチが取られていて、南欧では解雇規制を厳しくして生活の安定性を保っている。南欧は社会的な信頼関係が北欧ほど強くなく、雇用保険を充実させると、制度をうまく利用しようとする人が比較的多いので、結果として解雇規制を選択しているのではないかという研究がある。

だから、同じように米国で、分断がある状況で社会保障を充実させていくとなると、それを移民が持っていくのではないかと考える人が多ければ、社会保障を充実させる方向は難しいと思う。

Q&A

Q: 川口先生は統合をとても気にされていて、エビデンスに基づいたものをしっかり伝えるべきだとレポートに書いておられたが、そのためにやるべきことはどういうことか。

川口: 統合を考えると、エビデンスはみんなの認識を共有する上で非常に重要だと思う。トランプ大統領はそこをあまり重視していないので、その部分はあまり期待できず、悲観的な見方になってしまう。

Q: 中国の輸出は多国籍企業がかなり関係していると思う。2000億〜3000億円の米国の貿易赤字の中で、どれくらいそうした企業が関係しているのだろうか。

冨浦: 特に早い時期は欧米、それから日本の外資系企業の割合が非常に高かったことが知られている。ただ、詳細な数字はわからないが、中国からの輸出に占める中国現地企業の割合が上がってきているので、そこはだんだん変わってきていると思う。

Q: オバマケアは財政赤字の増加を一時抑えていたと評価されていたが、最近は明らかに保険料がおかしくなって、オバマケア自身がおかしくなったという議論がある。川口先生はどのように判断されるか。

川口: 今まで保険に入れなかった人をカバーする形で保険料を設定すれば、リスクが高い人が保険に入る確率が高まるので、結果として保険料が上がることは不思議ではない。こういう形で保険のカバー率が上がると、受診者の行動も変わる。たとえば日本では70歳を超えると自己負担の部分が減る仕組みだが、その時点で医療機関への受診が大きく増えるという実証研究結果がある。保険が入ってくることで医療の利用が増え、全体の支出が大きくなり、財政を圧迫することは十分にあり得る。