未来に希望を持てる雇用システムと経営者の役割
―成果主義vs. 年功主義の議論を超えて―

鶴 光太郎
上席研究員

1990年初の株価下落をバブル崩壊の始まりと考えると、15年の歳月を経て、2005年は日本経済にとって節目の年になりそうである。なぜなら、長年、日本経済に重く垂れ込めていた暗雲であった銀行の不良債権問題・金融不安とその裏側である企業の過剰債務問題にも一応、その処理に目処が立ってきたためである。もちろん、地域金融機関の不良債権問題を含め、その完全解決には更に時間はかかるかもしれない。しかし、金融問題にがんじがらめになって身動き取れない状況から、日本経済が次のステージに向かって歩み出していることは確かであろう。

日本経済の重要課題は、教育を含む人材育成、働き方、組織の問題

そうした節目で考えるべき日本経済の重要課題は、教育を含む人材育成、働き方、組織の問題ではないであろうか。確かに、金融問題以外でも喫緊の対応が必要な課題は山積みである。しかし、人や組織の問題は今何が起こっているかを客観的に共有することは難しく、たとえ、客観的な指標があったとしても、その動きは他の分野と比べてかなり緩慢である。問題の深刻さが誰の目にも明らかになってしまってからでは、その解決は完全に手遅れになってしまうからこそ、早めに対応していかなければならない問題といえる。こうした見方は最近、識者の間でも少しずつ共有されてきているようだ。たとえば、年末恒例企画である某ビジネス週刊誌の「経済書ベスト30」をみても、労働に関するものがいくつか上位に入った。

その中でも話題を集めたのが成果主義の問題点扱った著作である(注1)。90年代半ば以降、日本的な雇用システム、特に、「終身雇用・年功賃金の時代は終わり、働き手のパフォーマンスを最大限引き出すためには、年俸制・成果主義が優れている」という見方を大前提にそれをいかに企業に導入するかを説く本が巷に溢れていた。そうした中で、人々がなんとなく感じていながらも言い出せなかった成果主義の問題点を歯切れよく指摘したところに新鮮さがあったのであろう。しかし、議論はあまりにも「振り子」のようにその時々の雰囲気にながされて行ったり来たりを繰り返しているようにもみえる。

かつての日本的な雇用システムも成果主義もメリット、デメリット両方持ち、メリットが発揮される条件も異なる。一方的にどっちが優れているかを議論すること自体、あまり意味がない。いわゆる「終身雇用・年功賃金」は、他の先進諸国よりも「長期雇用・後払い賃金(年齢・賃金カーブの傾きが急)」の傾向が強いというのがその実態であった。こうしたシステムを支えていたのは、マクロ、企業ベース双方での安定した高成長とピラミッド型の企業内年齢別従業員構成(豊富な若年労働力)であった。これらの要因が、自らの生産性よりも高いであろう中高年従業員の賃金を企業内の再分配で支えたり、また、将来に向かって確実に賃金が上昇していくという予想を経営側と従業員との間で共有したりすることを可能にしてきたのである。

しかし、90年代に入ってからこうした環境条件が大きく変化する。まず、マクロ経済の潜在成長率、期待成長率が大きく屈折することになった。また、「団塊の世代」が中高年となり、ピラミッド型の企業内従業員構成が崩れてしまった。また、バブル期の大量採用組といった大きな「コブ」も後に控えている。このため、企業側からすれば従業員は長く勤めれば将来高い賃金を享受できるという「後払い賃金」にコミットメントすることができなくなってしまった。景気低迷の中で相対的に高まった労働コスト削減のために大企業が採った方策は、中高年の雇用はできる限り守る代わり、「入り口」の学卒新規採用を大きく絞るというものであった。これにより必要な新規雇用はコストの低い非正規雇用へ大きくシフトする流れができた。こうした延長線上に現在の若年失業、「ニート」の問題がある。

一方、雇用は守る代わり、「後払い」方式で相対的に割高になっている中高年の賃金にメスを入れるため、大企業を中心に90年代半ば頃から年俸制が導入されていった。つまり、年俸制・成果主義はそもそも中高年の賃金抑制の手段として導入されたのである。加えて、成果主義を「成果を客観的に評価してそれを報酬に直接的に結びつける考え方」(pay for performance)と単純に定義すると、経済学的にもさまざまな問題があることが知られている。まず、そもそも成果を客観的に計測することが可能であるかという問題である。セールスマンの売上などは成果が量りやすい例であろうが、チーム・ワークを要する仕事の場合、労働者毎の寄与を明確化するのは至難の技である。つまり、成果は必ずしも立証可能でないので、雇用側は常に成果を過小評価し、報酬を抑制するインセンティブを持つ。賃金抑制が成果主義導入の動機であるならばこのようなバイアスは一層大きくなるのは明らかである。

また、労働者の側からすると、複数の仕事が与えられれば、成果が客観的に評価されやすい仕事(例、短期的に結果が出る仕事)や側面(例、質より量)を重視しがちになる。さらに、目標の達成度で成果が図られる場合は、労働者側はなるべく目標を低く設定しようとする一方、雇用側は労働者の目標が達成されれば、さらにその目標水準を高く設定しようとするであろう(ラチェット効果)。成果の客観的な評価は諦めて直属の上司の主観的な評価を重視すれば、部下の「ごますり」や上司の「ひいき」がはびこることになる。

いかにして「納得できる」評価システムを構築するか

このように客観的に評価を行い、それを報酬に直接結びつけることは現実には必ずしも容易ではない。しかし、それは人事システムにおける評価の必要性を否定するものではない。問題は評価を行う側とされる側がいかに「納得できる」評価システムを構築できるかにある。大企業を中心とした「終身雇用・年功賃金」システムの裏にあった評価システムは、時間を十分かけながら、評価の「報酬」を賃金でなく「ポスト」で与えるシステムであった。つまり、同期の間では入社15年くらいまでは賃金や仕事のランクではあまり差をつけず、協調性を高め、モラル・ダウンを防ぐ。一方、能力があり、成果を出した者は「本流」、「花形」と呼ばれるポストを歩ませることで高い評価に対する「報酬」を与えるというメカニズムである。そうしたポストの履歴・蓄積の結果として誰の目でみても明らかな形で評価が定まっていくことが、それなりの納得感や公平感を生んできたのである。また、こうした評価方法は、能力や成果のない者に高い評価を与えるような不公平な人事評価を難しくする。なぜなら、そうした者を重要なポストにつけることは組織全体にとって大きなマイナスになり、経営側も「しっぺ返し」を受けるためである。「人はお金のためではなく、仕事のやりがいや充足感を求めて働いている」という成果主義への典型的な批判からすれば、ポストを「報酬」として与える評価システムは、仕事のやりがいを重視したやり方といえる。しかしながら、こうした評価システムも同質的な従業員の生え抜き採用・終身雇用を前提として始めて成り立つものであることを忘れてはならない。最近のように企業の中に多様な働き方をする従業員がいて、その流動性も高まっている中では、時間をかけてポストの積み重ねで評価していく仕組みの維持は難しい。

そもそも中高年の賃金抑制を暗に意図していた成果主義がうまく機能しなかったことはなんら不思議ではない。だからといって、90年代以降、環境条件が大きく変化している中で、従来の「終身雇用・年功賃金」への回帰が問題の解決にならないことも明らかだ。したがって、これからの雇用・人事システムのあるべき姿を考えるためには、発想の転換も必要かもしれない。報酬にしろ、ポストにしろ、それを評価と明示的に結びつける必要があるのは従業員の仕事への動機付けを高めるためである。そこには、経営者と従業員はそもそも同じ目標を共有していないため、明示的な動機付けが無ければ従業員はやる気をなくすし、努力を怠るということが暗黙的に仮定されている。

不確実性の時代に必要な企業のミッション(使命)の明確化と従業員への浸透

しかし、経営陣と従業員が目標をしっかり共有できれば、そもそも従業員の動機付けを考える必要はあまりないといえる。そのために重要なのは、経営者による企業のミッション(使命)の明確化と従業員への浸透である。たとえば、顧客にどのような商品やサービスを提供したいのか、その「思い」や「夢」がより具体的な形で企業のそれぞれの構成員の間で共有されているかということである。もちろん、経営の目標は最終的には利潤最大化であるべきだし、それを行わない企業は淘汰される。しかし、目標や使命が単なる利潤最大化だけであれば、個々の従業員の仕事へのやりがいには繋がっていかないであろう。その意味で、ミッションは利潤最大化を超え(それと矛盾しない形で)仕事の充足感に結びつくようなものでなければならないのである。

ここで注意しなければならないのは、ミッションを浸透させることは、終身雇用で囲い込まれた「運命共同体」としての企業への忠誠心を要求することとはまったく別物であることである。生え抜きか途中入社に関わらず、異なった専門、バックグラウンドを持つ働き手を一つに束ねて企業の戦力にしていくためには、これらの多様な人材がそれぞれの立場で納得し、魅力を感じるようなミッションでなくてはならない。また、ミッションを浸透化させる過程では、経営者側が愛情を持って、多様な働き手の立場や気持ちを理解し、対話を図っていくことも重要である。さらに、こうしたミッションの浸透・共有化は一代のカリスマ的経営者の力だけでは難しい。それは、企業に内在化するDNAの如く、経営者が変わっても次の世代に受け継がれていくような企業文化にまで高められて初めて可能となる。

成果主義への批判を扱ったある著作を読んで、人が働くためには、その組織で「自分がどんな役割を担っているのか、どうしたら貢献できるか、そしてその結果、どんな「未来」が待っているか」、つまり、「未来」が開かれているかどうかが重要であることを強調した部分が特に印象に残った(注2)。不確実性の高い経済社会にあっても、従業員が希望を持って「未来」に向かって努力していけるためには、その企業に末端まで浸透し、過去、現在、未来へ続いていく確固としたミッションがあるかどうかにかかっているのである。

2005年1月11日

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脚注
  • 注1:高橋伸夫(2004)、『虚妄の成果主義:日本型年功制復活のススメ』、日経BP
    城繁幸(2004)、『内側から見た富士通:「成果主義」の崩壊』、光文社
  • 注2:上記、城(2004)、186ページ

2005年1月11日掲載

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