1. はじめに
前回、自由貿易協定(FTA)の効果についての最近の研究を紹介した。近年の精緻な実証研究によって、FTAによって確かに貿易が増加するというところまでは分かってきた。Baier and Bergstrand (2007) によれば、自由貿易協定の効果は、10年後に締結国間の貿易額を平均的に2倍にするほど大きなものである。
しかし、もちろん、貿易の自由化は、単に貿易を増加させる以上の効果を持つはずである。これまで貿易理論は、貿易の自由化によって、経済厚生が増加するということを理論的に示してきた(Feenstra, 2003が詳しい)。
では、その「貿易利益」(gains from trade)は、どの程度の大きさであろうか。今回は、実証研究に基づき、貿易利益の大きさを検討することとする。
2. 伝統的貿易理論と貿易利益
貿易理論によって、さまざまな貿易利益が提唱されてきた。本稿は、代表的な貿易理論である、伝統的貿易理論、新貿易理論、新々貿易理論の3つの貿易理論が主張する貿易利益を取り上げる。
まず、伝統的貿易理論では、国々は、比較優位のある財を輸出し、そうではない財を輸入するという特化によって、貿易利益を得る。国によって、生産技術や生産要素の賦存量が異なる。そのため、財の相対的な価格は国によって異なる。
その違いによって、貿易から利益が生じる。比較優位のある財を輸出し合うことで、貿易がない状態よりも、生産も効率化し(production gains)、消費できる量も増える(consumption gains)。各国が比較優位のある財に特化することで、貿易利益が得られるというのが、伝統的貿易理論の主張である。
しかし、どの程度の貿易利益が得られるのかを明らかにするのは、難しい。貿易利益は、貿易のある状態の経済厚生から貿易のない状態の経済厚生を引いた値であるが、現実には、片方の状態しか存在しないからである。
Bernhofen and Brown (2005) の研究は、日本の開国前後のデータを用いることで、貿易利益を推定しようとした、著名な研究である。日本は、1854年に下田・函館を、1859年には横浜・長崎・函館を開港し、本格的に貿易を開始した。1869年には、明治政府が開国を決定している。
開国によって、外国から輸入品が流入し、日本経済は、大きな影響を受けた。関税自主権がない中での開港であり、自由貿易が開始されたといえる。生糸の輸出開始によって、生糸価格が高騰し、生糸を原料とする織布産業が打撃を受けたり、綿製品の輸入開始により、綿織物産業が打撃を受けたり、日本経済は急激な変化に見舞われた(三和、2002)。
こうした苦痛にみちた生産構造の変化の一方で、日本の消費者が、産業革命により外国で安価に生産された綿製品を手に入れることができるようになったのも事実である。伝統的貿易理論の予測に従えば、日本の生産は、比較優位に従った特化により効率化するとともに、消費者は鎖国時よりも多くの量の消費が可能になったはずである。
Bernhofen and Brown (2005) の研究は、その貿易利益の大きさを最大で国内総生産(GDP)の8~9%ほどであったと見積もっている。彼らは、技術的な理由から、1851-1853年に開国していたら得られたであろう貿易利益の上限(鎖国時の価格×純輸入量)を推定している。それは、比較優位のDDN指標(the Deardorff-Dixit-Norman index of comparative advantage)と呼ばれる、貿易開始によって輸入し、消費できたであろう額である。実際には、開国による生産額の減少があるので、貿易利益はもう少し少なくなるはずである。
3. 新貿易理論と貿易利益
貿易から得られる利益は、以上で述べた比較優位に基づくものだけではない。
Krugman (1980) などで展開された新貿易理論では、消費者は、多様な財を消費できるほど、高い効用が得られると考えられている(love of variety)。貿易によって、外国のさまざまな財を消費できるようになれば、効用は高まる。
また、新貿易理論で仮定されている規模の経済が働く場合、生産量が多いほど、平均費用が低下して、生産が効率化する。貿易によって、外国に輸出するために、各国の財の生産量が増加すれば、生産が効率化する。
つまり、新貿易理論では、規模の経済と財の多様性の双方から、貿易利益が生じる。
Broda and Weinstein (2006) は、この内、財の多様性から得られる貿易利益(gains from variety)の大きさを初めて推定しようとした研究である。
財の多様性から得られる貿易利益の推定には、代替の弾力性と呼ばれる、財と財の間の代替性の指標を算出する必要がある。この代替の弾力性が低いほど、個々の財は他の財に代え難く、財の種類の増加による利益が大きくなることを意味する。
彼らは、この代替の弾力性が低下していることを明らかにしている。つまり、財の多様性から生じる貿易利益の重要性は高まってきている。
彼らは、1972年から2001年の30年間にアメリカの消費者が、輸入によって消費できる財の種類が広がったことで、GDPの2.6%の価値を得たと推定している。これは、消費者が、1972年の財の種類しか入手できないのであれば、所得の2.6%の額を払って、2001年の財の種類を入手することを意味する。
年率では、消費者は、新しく消費可能になった財の種類のために、所得の0.1%を払うということになる。500万の所得の人であれば、年0.5万に相当する。
4. 新々貿易理論と貿易利益
Melitz (2003) による企業の異質性を考慮した新々貿易理論は、さらに新しい貿易利益の存在を示している(本コラム第4回で紹介)。Melitz (2003) の新々貿易理論では、貿易の自由化によって、競争が激化し、生産性の低い企業は退出を余儀なくされる。また、競争の結果、生産性の相対的に低い企業から高い企業へと、労働者が移動し、生産性の高い企業は生産量を拡大し、低い企業は生産量を減少させる。
貿易自由化に伴うこうした資源の再配分によって、生産の効率性が高まる(再配分効果)。結果として、経済全体の生産性が上昇するという、貿易利益が生じる。
実証的には、Melitz (2003) 以前から、貿易自由化によって、産業全体の生産性が高まることは知られていた。著名な研究としては、チリの貿易自由化を検証したPavcnik (2002) が挙げられる。
チリは、「チリの奇跡」と呼ばれることがあるように、1970年代以降、急速な自由主義的経済改革を進め、経済成長を遂げた国である。貿易面でも、1974年に100%を超える場合もあったような高率関税を、1979年には一律10%にまで急激に下げた(Pavcnik, 2002)。
Pavcnik (2002) の研究は、急激な貿易自由化を実施したチリにおいて、1979年から1986年の7年間に、製造業全体の生産性が、19.3%上昇したことを明らかにしている。そのうち、約3分の2にあたる12.7%の成長は、低い生産性の事業所から高い生産性の事業所に売上シェアが移ったことで実現されたものであるという。この結果は、再配分効果の重要性を示唆している。
生産性の成長は、非貿易財部門では6.2%に過ぎなかったが、輸出部門では25.4%、輸入品と競合している部門(輸入競合部門)では31.9%に達している。その差は、それぞれ19.2%、25.7%であり、20%を超える。これは、生産性の成長に貿易の自由化が寄与した傍証といえる。
事業所レベルでみると、輸入競合部門の事業所の生産性の成長のうち3%から10.4%が貿易の自由化による生産性利益(productivity gains)と考えることができると、Pavcnik (2002) は分析している。
5. 終わりに
今回は、伝統的貿易理論、新貿易理論、新々貿易理論の3つの貿易理論が示している貿易利益が実際にはどの程度の大きさなのかを、代表的な実証研究に基づいて、紹介してきた。表1は、その概要をまとめたものである。
もちろん、貿易利益の実証を試みた論文は、今回紹介した以外にも多数ある。また、ここで紹介した以外の種類の貿易利益も考えることもできる。例えば、日本の開国は、外国からの技術や知識の流入をもたらし、日本の経済成長の推進力となったと考えられる。
伝統的貿易理論 | |
---|---|
貿易利益の種類 | 比較優位による貿易利益 |
研究 | Bernhofen and Brown (2005) |
事例 | 19世紀末の日本の開国 |
結果 | 最大で国内総生産(GDP)の8~9%ほどの貿易利益 |
新貿易理論 | |
貿易利益の種類 | 財の多様性による貿易利益 |
研究 | Broda and Weinstein (2006) |
事例 | 1972年から2001年の30年間のアメリカ |
結果 | 年率で所得の0.1%の価値 |
新々貿易理論 | |
貿易利益の種類 | 生産性の成長 |
研究 | Pavcnik (2002) |
事例 | 1970年代以降のチリの貿易自由化 |
結果 |
産業全体の生産性成長の3分の2が再配分効果による 3~10.4%の生産性成長(輸入競合部門の事業所) |
ストルパー&サミュエルソン定理やTrefler (2004) が指摘するように、貿易自由化の過程で、国内で勝者だけではなく敗者も生じる可能性がある。一方で、貿易自由化交渉を進めるうえで、今回紹介したようなさまざまな貿易利益が存在することを念頭においておくことも必要であろう。