RIETI海外レポートシリーズ 国際金融情報スーパーハイウェイの建設現場から

第二回「投資銀行におけるオフショアリングとアウトソーシングの胎動期」

松本 秀之
コンサルティングフェロー

投資銀行業界における情報システム戦略立案の過程で、コストセンターのオフショアリングとアウトソーシングは、現在、見逃す事のできない論点となりました。そこで、このオフショアリングとアウトソーシングという仕組みが、どのようなプロセスを経て、投資銀行業界に定着していったのかを、国際政治経済の動き、投資銀行ビジネスの変化、コンピュータの進化という3つの観点から、分析していきたいと思います。

オフショアリングとアウトソーシングの発展プロセス

オフショアリングとは、現在、国内で行われている、あるビジネスプロセスを、別の国に移動することを意味します。他方、アウトソーシングとは、現在、組織内で行われている、あるビジネスプロセスを、外部の組織に委託することを意味します。このオフショアリングとアウトソーシングという仕組みは、既に投資銀行業界に定着したようです。本シリーズにおいては、1970年から現在までの間を、以下の5段階に区切り、この仕組みの発展プロセスを分析します。

1)胎動期:1970年から1989年まで
2)黎明期:1990年から1994年まで
3)建設期:1995年から1999年まで
4)拡大期:2000年から2004年まで
5)定着期:2005年から現在まで

今回のレポートは、1970年から1989年までの「オフショアリングとアウトソーシングの胎動期」における、国際政治経済の動向、投資銀行業界の変化、情報システム技術の革新を中心に考察します。

国際政治経済:東西冷戦構造の変化、プラザ合意、そしてブラックマンデー

1985年3月、ソビエト連邦共産党書記長に就任したゴルバチョフ氏は、ペレストロイカとグラスノスチを理念の中軸として改革を開始。これにより、第二次世界大戦以降、共産主義陣営と資本主義陣営とに二分されていた、国際政治の枠組みは大きく変化します。この流れから、東西冷戦が終結したのが1989年。すなわち1989年までは、東西冷戦期であったため、投資銀行ビジネスを行うことのできるマーケットは、当然、資本主義陣営に所属する先進国に限定されていました。

1985年9月、当時の資本主義陣営のリーダー的存在であった、アメリカ、イギリス、西ドイツ(当時)、フランス、そして日本の5カ国は、G5(蔵相・中央銀行総裁会議)の席上、アメリカ合衆国の貿易赤字削減を主な目標として、協調的にドル安の実施を図るとする、プラザ合意を採択しました。これが切っ掛けとなり、たとえば日本円・米ドルの為替レートが、1985年の1米ドル250円の水準から、1989年には1米ドル150円を割り込む水準まで変化するといったように、他の通貨に対して米ドルは下落をしていきます。その間、1987年10月には、証券市場史の最大の世界同時株安である、ブラックマンデーが起きています。

投資銀行ビジネス:米ドル安と日本への進出

プラザ合意以前から、既に欧米系投資銀行は、国境を跨いだビジネス展開を開始しています。たとえば、あるアメリカ系投資銀行は、1970年代前半にロンドン支店を開設。1980年代半ばに、ロンドンでの取引高10社以内に数えられるにまでロンドン支店の業務を拡大しています。また、別のスイス系商業銀行は、1970年代半ばにアメリカ系投資銀行と資本提携。ブラックマンデー以降、この国際的資本提携は国際的合併へと発展し、多国籍投資銀行の先駆けとなりました。

これに加え1980年代から欧米系投資銀行は、将来的に発展の可能性が高い日本の金融証券市場に注目し始めます。この時期は、まだ東西冷戦終結前という状況から、アジア地域には日本という選択肢しか無かったともいえるかもれません。前述の通り、プラザ合意に基づき、為替は米ドル安・円高へと変動。円高不況に対する懸念から、日本は低金利政策を実施。日経平均株価は、ブラックマンデーの半年後である翌年1988年4月には、早くもブラックマンデー時の下落分を回復。この低金利政策に伴う余剰資金は、土地と株へと流れることで、所謂バブル経済が発生。その結果、1989年12月29日に日経平均株価は、約3万8900円という水準まで上昇します。現在、東京に拠点を構える欧米系投資銀行の多くが、このバブル経済の渦中の1980年代半ばから1980年代後半にかけて東京市場に進出し、証券業の免許を取得しています。

このような金融ビジネスの国際化と米ドル安に後押しされる形で、アメリカ系投資銀行では、ニューヨークオフィスが米ドルベースの株式や債券の運用を担当、ロンドンオフィスが英ポンドの株式や債券の運用を担当、という従来のビジネスの枠組みから、ニューヨークオフィスも、米ドル以外の株式や債券の投資を行う仕組みに変化させていきます。その結果、アメリカ系投資銀行のバックオフィスでは、ニューヨークオフィスが行った米ドル以外の株式や債券、たとえばヨーロッパ諸国の国債や日本の株式などの投資に関わる、国際的な資金証券決済の事務処理が増加します。また、この頃から現物市場と先物市場の裁定取引なども活発に行われるようになり、資金証券決済の事務処理は複雑になります。そこで、東京・ロンドン・ニューヨークの事務部門は、各拠点間で密接な連携を取り合う必要が出てきます。

事務処理のシステム:投資銀行と商業銀行との比較

さて、投資銀行業務における資金証券決済の事務処理を取り扱うバックオフィスシステムは、商業銀行業務のバックオフィスシステムと比較すると、複雑な構造になっています。これは、商業銀行のコンピュータシステムが、基本的に資金為替だけを管理する機能が軸となっているのに対し、投資銀行業務のバックオフィスシステムは、資金為替の決済だけではなく、証券決済の機能を持つ必要があるからです。

証券決済は、歴史的に券面(証券という紙)をもとに行われています。そこで、投資銀行業務のバックオフィスシステムでは、この券面を管理する機能と、資金を管理する部分とをリンクさせる必要があります。たとえば、コーポレートアクションの分野では、株式や債券の保有者は、配当金あるいは金利を受け取る権利があるために、投資銀行が自己勘定で株式や債券を保有している場合、株式や債券の発行者から配当金あるいは金利を受け取る、という事務処理を行う必要があります。また、投資銀行がカストディ業務を行っている場合、株式や債券の発行者から配当金あるいは金利を受け取り、他方、その配当金あるいは金利を、実質的な株式や債券の保有者に支払う、という事務処理を行う必要があります。

このような事務処理を効率的に行うために、1980年代、アメリカ系投資銀行で、ストックレコードというシステムが開発されました。これは、各証券取引毎に、証券の名称、証券の所有者、証券の数量、そして証券が実際に保管されているカストディアンを一元管理することで、国際的な資金証券決済を効率的に行い、更にそれが各拠点の経理処理につながる、という仕組みのシステムです。

事務処理の現場:効率化と国際化への取り組み

ブラックマンデーを経験したアメリカ系投資銀行は、収益構造の改善を行うために、プロフィットセンターとコストセンターとを明確に分離しました。その結果、プロフィットセンターは、収益向上を目指し、コストセンターはコスト削減を目指すという、明確なミッションの差別化が組織内に定着しました。この「部門別ミッションの明確化」、前述の「国際的な資金証券決済の事務処理増加」、そして「コンピュータの革新」という3つの圧力から、アメリカ系投資銀行では、「事務処理を、どこの拠点の誰が、どの様に行うと最も効率的であり、最もコストを抑えることができるのか」という分析が積極的に行われました。それに加えて、コンピュータ投資に対する、コストベネフィット分析と組織内でスポンサーシップの明確化が、定着しています。

あるアメリカ系投資銀行では、ブラックマンデー後、米国の証券市場で思うように収益が得られなかった時代、ニューヨークのバックオフィスのマネージャーは、同じニューヨークのフロントオフィスではなく、当時好況であった東京支店のフロントオフィスにプロジェクトスポンサーを引き受けてもらうことで、グローバルバックオフィスシステムの構築を行ったという例もあります。このような努力によって、1989年の時点で、東京・香港・ロンドン・ニューヨークの各拠点間を連結し、国境を越えた資金証券決済の事務処理を行うグローバルバックオフィスシステムを構築・運用するアメリカ系の投資銀行が数社出現しています。その中には、インターネットの普及に伴う一般ユーザーへの浸透に先駆けて、各拠点間の通信を可能にした電子メールを導入した投資銀行もありました。

情報技術:基礎固めが終了し、汎用性が改善した時代

先進的な投資銀行は、コンピュータを駆使した金融分析を、既に1960年代半ばから開始しています。それは、過去のさまざまな市場の動きを記憶させたデータベースを参照してパターン分析を行い、金融市場の近未来予測から金融商品の売り買いの指示を出す、コンピュータプログラムの開発です。このプログラム売買の発達は、初めの微妙な市場下落が切っ掛けとなり、コンピュータプログラムが次々に発する売り命令が、更なる売り命令へと連なる、負の連鎖を巻き起こす可能性があることから、ブラックマンデーという史上最大の株価下落の原因の1つと考えられています。

1970年代、コンピュータの世界は、インテル社のマイクロプロセッサ、マイクロソフト社のMS-DOS、クレイ・リサーチ社のスーパーコンピュータ、アップル社のパソコンといった、ハードウェアとソフトウェアのさまざまな初期版が発表される「現代情報技術の基礎固め」の時代でした。その後の1980年代は、マイクロソフト社のウィンドウズ、サン・マイクロシステムズ社のワークステーション、IBM・東芝・日本電気などのメーカーによるパソコン開発競争、そして、表計算ソフト、ワードプロセッサ、リレーショナルデータベースなどのビジネス用ソフトの開発・普及といった、ユーザー拡大に向けた取り組みが始まる「現代情報技術の汎用性改善」の時代でした。

情報社会:未来予測は定着したものの、まだ政治的意思決定が無い時代

別の見方をすれば、アルビン・トフラーが『第三の波』を出版したのが1980年。クリントン政権が発足し、「情報スーパーハイウェイ構想」を政治的課題として推進し始めるのが1993年。つまり、高度情報化社会になるという「未来予測は定着」したものの、まだ「政治的意思決定が無い」時代、これが今回焦点を当てた1989年までのオフショアリングとアウトソーシングの胎動期の特徴です。

そして、この時期に投資銀行業界が向き合った課題は、「国際的に拡大する金融証券取引に関する資金証券決済事務処理を、どこの拠点の誰が、どの様に行うのか」という問いでした。そして、この問いは、1990年以降にオフショアリングとアウトソーシングという火山を作り上げる、地中に溜まったマグマであったと捉えることができます。このマグマが噴火し火山を作り上げるまでに、国際社会では旧東側諸国における市場経済の導入、国際的金融取引の更なる拡大、インターネットの普及という、3つの大きな出来事が起こります。また、その間、国際金融情報スーパーハイウェイの建設現場では、欧州通貨統合とコンピュータ2000年問題への対応に、追われることになります。

さて次回は、投資銀行におけるオフショアリングとアウトソーシングの黎明期の状況を、ご報告を致します。

2007年10月31日
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2007年10月31日掲載

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