書評:山中 優著『ハイエクの政治思想』

市場機能の論争

政治や政府が市場をコントロールするべき派

山中 優著『ハイエクの政治思想』

(2007年、勁草書房)

渡辺陽一

ポイント

  1. 経済思想史として認識されているハイエクの思想を、自由論、文化的進化論、議会制改革論を通じ、政治思想史として検討する。
  2. ハイエクは、市場秩序の維持において政府の役割が重要である、と考えていたという。歴史的偶然によって、市場秩序は出現したが、元来、市場に不適合である人間本性は依然として市場への反発心を抱いている。それゆえ、市場秩序を守るために政府が必要なのである。
  3. ハイエクのいう自由主義思想は、途上国ではなく、日本を始めとした先進国に適用するべきものである。このことは、途上国に対してやみくもに市場化と競争をせまる新古典派の開発経済学とはことなる立場にあることを意味する。

内容要約

ハイエクの自由論と「人間の無知」

ハイエクの唱える自由論の大きな特徴は、「人間の無知」に自由の存在理由を求めたという点であった。つまり、人間は元来無知であり、すべてを推しはかることは不可能である、とハイエクは考えていた。それゆえに、市場における人々の自由な試行錯誤の活動こそ、ベター、ベストの結果に結びつくのだと考えたのである。しかしながら、市場競争はしばしば所得の減少や失業といった非情な結果を人々に押し付けるものであった。こうした自由な市場活動がもたらす無慈悲な側面を計画主義によって回避し、繁栄を目指そうとしたのが社会主義思想なのであった。それゆえに社会主義は、市場の冷徹さに耐え切れない人々をひきつける十分な魅力をもっていた。しかしながら、ハイエクにとって経済的自由を支配しようとする社会主義は、やがては政治的自由をも支配する全体主義への動きに他ならなかったのである。そこでハイエクは、社会主義が無慈悲な市場社会よりもさらに恐ろしい帰結をもたらすものであることを『隷従への道』で説くことで、何とか市場競争の社会に人々をふみとどまらせようとしたのであった。

帰結主義的な自由主義と義務論的な自由主義

こうした「人間の無知」に基盤をおいたハイエクの自由論は、帰結主義に中心をおいていた。しかしながら、一方では、義務論的な側面ももっていたのである。現実の自由社会における市場競争を通じ、利益を獲得できる人々はわずかであり、多くの人々にはむしろ苦境を強いるものである、とハイエクは考えていた。このような状況において、人々が自由の帰結として自らの苦難を受け入れるには、自由論における義務論的な側面を唱えることが必要不可欠なのであった。やがてこうした義務論的要素が強まり、ハイエクの自由論は帰結主主義的な義務論から義務論的帰結主義へと変容していったのである。こうしたハイエクの自由思想の変化は、市場秩序の出現に対するハイエク楽観主義から悲観主義への変容であるとともに、自生的秩序を説明する方法の変化でもあった。では、なにゆえハイエクは市場秩序の出現に対して悲観的になっていったのであろうか。

自生的秩序発生と維持

ハイエクによれば、市場秩序とは自生的で目的独立的な秩序であるという。それは、政府のように、ある特定の意図のために形成された目的依存的で、支配を目的とした組織とは明確に区別されるのである。こうした目的独立的な秩序形成を可能にするルールが、社会に自由、繁栄、平和をもたらすものとして他の社会へ波及していくことで、市場社会が形成されたという。当初、ハイエクはこうしたルールが形成される根拠を、方法論的個人主義に求めたのだった。しかし、利己的な個人を前提とするかぎり、社会にとって有益であっても個々人にとって有益でない場合には、ルールが形成されえないという問題を抱えていたのである。そこで、ハイエクは、集団全体として効率的な社会が生き残る、という集団淘汰論に着目する。効率的な社会が残るためには、個々人が社会全体にとって効率的となるルールを理解し、それを遵守し行動することが必要となる。しかし、ハイエクが依拠する「人間の無知」を前提とする限り、そのような集団にとって効率的な行動を、個人が事前知ることは不可能なのである。そこで、ハイエクは、個々人が集団のルールを遵守する動機を宗教的要因に求めたのである。社会においては宗教的な理由からある種の行動は、禁忌として人々によって遵守されることがある。それと同様に、市場に適合的なルールを破ることが、タブーとして長期間に渡り遵守されることで、市場秩序が出現したと考えるのである。こうした市場秩序は、歴史的必然などではなく、ルールが奇跡的に遵守されてきたことによって生じた、「意図せざる結果」なのであった。

秩序維持における政治の役割

こうして歴史的偶然によって誕生した市場社会は、かならずしも多くの人々に豊穣をもたらすものではなかった。むしろ、それは多くの人々に厳しい現実を強いるものであった。このことは、人々の反市場への感情を高め、自由社会を脅かすものだったのである。こうした脅威から市場秩序を維持するために、利益政治から隔離された政治権力をハイエクは求めたのだった。また、市場競争の厳しさゆえに生活が困難になってしまった人々に対して、一律に最低限の補償を行うことも政府の役割であると考えていた。それは、これまで人々の窮地を支えてきたが、崩れつつある地域共同体、地縁・血縁の伝統といった組織の役割を政府が代替する意味を持っていたのである。

ハイエク議論の現代的含意

こうした議論を鑑みるならば、ハイエクのいう「自生的」という言葉は、単に政治権力を否定し、市場競争による自由放任の追及を意味するものではないことがあきらかであろう。それは、1980年代以降台頭した新古典派経済学に基づく、途上国を市場競争にさらすことで経済成長を実現しようとする開発経済の考えとは相容れない議論なのである。筆者は、こうしたハイエクの市場競争の議論は、先進国諸国にこそ向けられた議論であり、途上国に対しては開発主義を認めるものであったという。これを踏まえ筆者は、先進国は自由主義的競争のなかで技術革新を行い、既知となった技術を途上国に譲渡するという国際的な雁行形態による経済発展を実現するべきだという。そして、国際政治経済システムを安定化させる必要があるのだという。一方、先進国の一員である現代日本を振り返った場合、バブル発生と拝金主義、利益政治の蔓延、さらには戦後以来の開発主義への固執というハイエクのいう理想とはかけ離れたものである。こうした現実を踏まえた上で、ハイエク的な自由原理の思想的、政策的な着実な対応が今日の日本において求められるという。

コメント

(1) 市場原理の拡大とそれを支える基盤の必要性

本書を通じて見えてくるのは、ハイエクの議論が単なる自由競争の追求を目指す議論ではなく、社会全体を見据えた議論であるという点である。政府による過度な市場への介入を警戒しつつも、その市場競争の秩序をどのように維持していくのか、という今日の社会のあり方にも示唆を与えるものだと考える。

筆者によれば、伝統的な社会の崩壊と市場競争によって窮地に立たされる人々に対してハイエクは、最低限度の社会保障を認めていたという。このことは、所得保障という点においては伝統的社会の担っていた役割を代替しうるであろう。しかしながら、それによって家族や地域社会のもっている精神的な支え、絆といった側面を肩代わりするものではないように思われる。漸進的に個々人それぞれが市場社会に適合的になることが可能であったとしても、過酷な市場競争の現実があるかぎり市場参加を支えるには、そうした非市場の領域の重要性は依然としてかわらないのではないだろうか。こうした点を踏まえ、市場社会を維持していく上では、地域共同体や私的領域の再構築も重要であると考える。

(2) 社会発展と市場競争

ハイエクが市場秩序を維持するために、政府にその役割を期待していた、という筆者の見解は、現代社会における市場を取り巻く問題を考えるうえで大きな示唆を持っている。もちろん、一般民衆とは切り離されたエリートによる賢人会が市場秩序を守るために必要であるというハイエクの議論は、再考する必要があろう。しかしながら、政府の役割として、市場秩序を守るために、人々に対して市場競争を受け入れさせることを期待していたという点は、あらためて注目する必要があろう。昨今の市場をめぐる議論は、市場競争の帰結やメリット、デメリットばかりが論じられ市場競争を人々が受け入れるためには、どのようにするべきなのかといった議論が十分でないように思われる。ハイエクの議論に依拠するならば、人間は無知であるがゆえに、社会の発展において自由や市場競争が重要なのである。つまり、多くの人が市場に参加し、競争するからこそ多くの人々が参加し、試行錯誤することでベター、ベストの結果が生まれるのであった。それゆえに、市場社会は多くの人に受容され、参加がなされなくてはならないのである。このことは、社会発展において多くの人々が市場競争に参加し、それを受け入れることを意味する。それゆえに、現代日本において必要とされているのは、そうした市場参加の機会やインセンティブを高めるための議論や政策なのではないだろうか。