小林慶一郎のちょっと気になる経済論文

第8回「金融デリバティブの導入によって、市場を必ず不安定にできるのだろうか? ― 経済学における『ゲーデルの不完全性定理(Gödel's Incompleteness Theorem)』」

小林 慶一郎
ファカルティフェロー

マスターくん
某私立大学大学院修士課程2年生(経済学)。経済学者志望で目下猛勉強中。

小林 慶一郎写真小林フェロー:オプションなどの金融デリバティブ商品の開発は、投機を助長し、金融市場を不安定にする、という批判がされることがあります。実際問題としては、デリバティブのせいで市場が不安定になることがあるかもしれませんが、それは、市場に「情報の非対称性」などの歪みが存在しているためだ、というのが経済学者の常識です。少なくとも、経済学の純粋理論が仮定するような歪みのない市場では、デリバティブの種類が増えれば、リスク分散の方法が増えるので、当然、市場は前よりも安定し、社会全体の厚生は上がる、というのが経済学者の常識的予想であるといえます。

マスターくん画像マスターくん:実はそうではない、ということでしょうか?

小林 慶一郎写真小林フェロー:Bowman-Faustの論文に、デリバティブの種類が増えると、それまで完備だった市場が不完備になり、社会厚生が下がる、という驚くべき理論モデルがあります(市場が完備であるとは、その市場に存在するすべてのリスクに対応する保険商品(金融商品)が存在していることをいう。市場が不完備であるとは、金融商品を全部合わせても、完全に分散できないリスクが残るということ)。これは、「そういうこともあり得る」という理論モデル例を示した論文で、11年前にJPEで発表されました。

Bowman, D. and J. Faust. (1997) "Options, Sunspots, and the Creation of Uncertainty." Journal of Political Economy 105(5):957―75.

この論文は、たいへん不思議で、印象的な論文で、10年来、もっとも気になっている論文の1つです。その内容を一言でいうと次のようなことになります。経済に存在するリスク(急に消費したくなる、とか、急に生産が失敗するとか)を分散する保険の機能が金融商品の基本的機能ですが、そこに、デリバティブの一種であるオプションを導入する。すると、既存のリスクに加えて、「オプションが行使されるか、されないか」という事象が、経済主体にとってのリスクとなってしまうということです。

マスターくん画像マスターくん:つまり、リスクを分散させるために導入したオプションが、新しいリスク(オプションの行使の有無)を経済に導入し、その結果、経済は不完備になってしまうということでしょうか?

小林 慶一郎写真小林フェロー:そういうことになります。内容を少し詳しく説明しましょう。このモデルには2人の消費者がいて、金融市場で取引をしています。時間は0、1、2の三時点です。消費者は、時点2で消費するが、この経済にはリスクとしてPreference shockが存在し、どちらか一方の消費者しか消費しないものとします(ある確率pで「消費者1が消費し、消費者2は消費しない」という状態が時点2に現れる。確率1-pで「消費者2が消費し、消費者1は消費しない」という状態が時点2に現れる)。このPreference shockは、時点1で経済に訪れ、どちらの消費者が消費するかが判明します。この経済は1財モデルです。リアルな生産活動としては、時点0で1単位のインプットを行うと、時点2でA単位のアウトプットが出てくる生産技術のみが存在します。このような環境で、消費者1と消費者2は、時点0と時点1において、金融商品(株式、債券など)を取引するものとします。

この経済のリスクは、「消費者1が消費するか、消費者2が消費するか」という事象であり、経済の「状態」は「消費者1が消費する」と「消費者2が消費する」の2つです。したがって、金融経済学の基本的な理論(状態の数と同じ数か、それ以上の数の金融商品が存在すると、市場は完備になることが知られている)から、この経済が完備になるためには、2つの金融商品が存在しなければならないということになります。

Bowman-Faustは、まず、この経済に「株式」しか存在しないケースを考えました。当然、株式しかない経済は不完備です。そこに、オプションを導入すると、基本的な理論が予想するように、市場が完備になるような均衡が存在することが示されます。Bowman-Faust論文が示した面白い結果は、さらにそれだけではなく、市場が不完備になるような均衡も出現する可能性があるということです。オプションが導入されたことによって、当初は2つの状態しかなかった経済に、次のような3つの状態が出現する場合があるのだということを実例で示したのです。

(1)「消費者1が消費し、オプションが行使されるケース」
(2)「消費者1が消費し、オプションが行使されないケース」
(3)「消費者2が消費し、オプションが行使されないケース」

第2に、彼らは「株式」と「債券」の2つが存在する市場を考えた。この市場は完備です。そこに、オプションを導入すると、普通の金融理論では、オプションはリダンダント(冗長)な金融商品であり、付け加えても、市場の完備性は変化しないはずです。ところが、Bowman-Faustは、オプションが導入されたことによって、経済の状態が次の4つになる場合があることを示しました。

(1)「消費者1が消費し、オプションが行使されるケース」
(2)「消費者1が消費し、オプションが行使されないケース」
(3)「消費者2が消費し、オプションが行使されるケース」
(4)「消費者2が消費し、オプションが行使されないケース」

これら4つの状態に対して、金融商品の数は3つ(株式、債券、オプション)だから、市場は不完備になってしまいます。

マスターくん画像マスターくん:オプションを付け加えると、もともと完備だった市場が不完備になる、という結果は、どういう理由で起きるのでしょうか?

小林 慶一郎写真小林フェロー:これはすべて直感的な推測というか妄想に過ぎないのですが、どうやら本質的なところで、数学でよく知られたゲーデルの不完全性定理(Gödel's Incompleteness Theorem)と関連しているように思うのです。

Bowman-Faustの結果から出てくるカギは、オプションの行使が株価によって決まる(株価がオプションのストライクプライスを下回ると行使されるのがコールオプション)という構造にあるらしい。第2のケースの経済の金融商品の集合をFとすると、F={株式、債券、オプション}です。オプションの行使が株価によって決まる、ということは、金融商品全体FのPayoffが、Fの価格(ベクトル)によって決まる、という構造であるといえます。つまり、FのPayoffは、自分自身の価格によって決まる、という構造です。

ゲーデルの不完全性定理が示していることは、「ある真の命題Gが、自分自身に言及している命題である場合、その命題Gは真であるのに、それが真であることを証明することはできない」ということです(ゲーデルの定理の内容や証明のロジックに興味ある人は、Raymond M. Smullyan「ゲーデルの不完全性定理」(丸善株式会社)などを参照のこと)。

マスターくん画像マスターくん:つまり、Bowman-Faustの経済では、金融商品FのPayoffは、自分自身の価格によって決まる。そのため、Fは整合的な金融商品の集合であるにも関わらず、Fが完備ではないということが起きているといえるのかもしれないということでしょうか?

小林 慶一郎写真小林フェロー:ゲーデルの定理での「証明可能」という概念を、経済学の「完備」という概念に置き換えると、Bowman-Faustの結果は、ゲーデルの定理を経済学に応用した結果であるということが示されるのではないだろうかと考えられるわけです。

ちなみに、「オプションをたくさん導入すれば、必ず、市場は完備になる」という理論も証明されています(Kajii, A. (1997) "On the role of options in sunspot equilibria." Econometrica)。このKajiiの結果は、Bowman-Faustの結果と矛盾するように思われますが、実はそうではありません(と私は思います)。これら2つの論文の違いは、まさに上記の議論(Bowman-Faustがゲーデルの定理と関連している点)と密接に関連しています。

Kajiiのモデルは、時点0と時点1の二時点モデルであり、株式のPayoffが確定する時点とオプションが行使される時点は、ともに時点1です。そのため、「オプションが行使された後に、株式が取引される」ということは、モデルの構造上、あり得ません。したがって、「オプションが行使された後の株価」というものも存在しません。一方、Bowman-Faustでは、オプションが行使されるかどうか決まるのは、時点1であり、株式のPayoffが決まるのは時点2です。したがって、オプションが行使された後(あるいは行使されないことが決まった後)に株式が市場で取引され、当然、「オプション行使後の株価」や「オプション行使がなかった後の株価」というものも存在します。この違いが、Bowman-Faustの不完備性の結果を生むのだと思われます。私の直感では、Kajiiの結果は、オプション行使の後に金融商品が取引されずにPayoffが確定してしまうような、特殊なモデルについてのみ成り立つ結果であり、Bowman-Faustの結果の方が、より一般的な金融市場の性質を表しているのではないかと思われます。

最後に、1つの予言、あるいは予想(Conjecture)をしておきたいと思います。Bowman-Faust論文は、あくまでも、オプション導入が完備市場を不完備にすることがある、という特殊例を示した論文でした。しかし、もしも、この論文が扱っている問題の構造が、ゲーデルの不完全性定理と密接に関連しているならば、経済学(あるいは金融経済のモデル)において一般的に成り立つ定理(ゲーデルの定理の経済学版)を証明できるのではないだろうかと考えます。つまり、「どのような金融市場のモデルにおいても、何らかのデリバティブを導入することによって、もともと完備だった市場を不完備にすることが、必ずできる」という定理です。これはBowman-Faust論文よりも、ずっと強い結果であり、もしこのような定理が証明されたとしたら、「金融商品の種類が増えつづければ、究極的には市場は完備になる」という経済学者や市場参加者の信念は、根本から覆されてしまいます。ゲーデルの不完全性定理が、「数学が進歩すれば、世の中のすべての命題について、真であるか、偽であるかを決定することができるに違いない」という数学者の信念を崩してしまったことと同じようなことが、金融経済学の分野で起きるかも知れない、ということです。

マスターくん画像マスターくん:世紀の大発見の可能性があるかもしれないわけですね。今夜は眠れそうもありません。小林上席研究員、ありがとうございました。

2007年6月13日

2007年6月13日掲載

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