小林慶一郎のちょっと気になる経済論文

第5回「『分割できない労働(Indivisible Labor)』と大恐慌」

小林 慶一郎
ファカルティフェロー

マスターくん
某私立大学大学院修士課程2年生(経済学)。経済学者志望で目下猛勉強中。

小林 慶一郎写真小林フェロー:今回は、論文紹介に加えて、筆者の最近の研究内容(といっても、うまくいかなかった試行錯誤の結果)を紹介したいと思います。

1990年代の日本の長期不況や、1930年代のアメリカの大恐慌を研究する中で、「Labor wedgeの悪化」という現象が、大きな謎として出てきています(Kobayashi and Inaba, 2005, Business cycle accounting for the Japanese economy)。Labor wedge (1-τl)とは、消費者の消費・余暇の限界代替率と企業の限界労働生産性の比率です。もし、経済システムにゆがみがなければ、この比率は1になります。経済にゆがみが大きくなって労働投入の非効率が大きくなれば、この比率が1よりも小さな値になって下がってきます。日本の90年代も、アメリカの30年代も、いずれも、時間が経つほど、Labor wedgeが悪化し(1-τlが小さくなり)、労働投入が非効率になったことを示しています。

マスターくん画像マスターくん:この現象は経済理論的にどのように説明できるのでしょうか?

小林 慶一郎写真小林フェロー:Business cycle accountingを始めたChariたちは、賃金の粘着性(労働組合による独占的競争によって賃金が粘着的に決定される)の下で、貨幣供給量が減少するショックが起きると、Labor wedgeが悪化することを理論的に示しましたが、90年代の日本などで考えると、緊縮的な貨幣ショックは90年代前半に起きていたと思われるのに、Labor wedgeの悪化は、90年代末に激しくなっています。粘着的賃金と貨幣ショック(デフレショック)では、現実の説明としては不十分ではないか、と考えます。筆者は、金融的な要素(担保制約と担保資産の価値下落)が関係しているのではないかと考え、別の論文でそのことは論じました。

今回は、労働市場の構造が、Labor wedgeの悪化を説明できるかどうかを、考えます(正確にいうと、何らかの労働市場の構造があるときには、TFPの変化だけによって、Labor wedgeの悪化が引き起こされるかどうか、を検証する。もしそうなら、金融問題や貨幣ショックがなくても、生産性ショックだけで大恐慌や日本のデフレ不況が説明できるからです)。

まず、実際の日本のデータでLabor wedgeの悪化の要因を確認しておきます。Labor wedgeを構成する変数は、消費、労働時間(労働者1人当たりの)、雇用率(労働可能人口のうち、何割の人が働いているか)、資本ストック、TFPです。これらの変数のうち、1つの変数をデータどおりに動かし、他の変数を初期値に固定して仮想的なLabor wedge を計算することにより、その変数の変化がLabor wedgeの悪化を説明できるかどうかを調べました。

マスターくん画像マスターくん:それにより、どのような結果が得られたのでしょうか?

小林 慶一郎写真小林フェロー:「労働時間の縮小」が、Labor wedgeの悪化傾向を生み出しており、他の変数は、ほとんど関係がないということが分かりました。したがって、以下に述べるモデルを使って、(生産性低下に伴う)労働時間の(過剰な)短縮が説明できるかどうか、が重要なポイントとります。

Real Business Cycle モデルの世界で、労働市場の摩擦をモデル化するために広く用いられる方法は、Hansenの「分割できない労働(Indivisible Labor)」のモデルです:
Hansen, G.D. (1985). "Indivisible Labor and the Business Cycle." Journal of Monetary Economics 16:309-27.

Hansenのモデルでは、労働時間は企業によって一定の値に決められていて、労働者は、いったん企業に雇われたら、決められた労働時間を働かなくてはならないのです。では、労働者は何を決めるかというと、「雇用率」(雇用される確率)を決めます。この仮定の下では、労働者は消費と雇用率の代替関係を最適化することになります(従来のRBCモデルでは、労働者は消費と労働時間の代替関係を最適化していました)。このモデルでは、労働者の期待効用は、雇用率の線形関数になり、従来のRBCモデルよりも、現実のデータの動きに近い動きを示すことがわかりました。最近では、HansenのIndivisible Laborは、RBCモデルの標準的な仮定として使われています。

大恐慌期などのLabor wedgeの悪化を説明するため、筆者は、次のように、Hansenモデルの拡張を考えました(労働者の雇用率(雇用確率)は企業が定め、労働者は労働時間を定めます)この際、企業は労働者の定める労働時間を与件として雇用率を決め、労働者は企業が定める雇用率を与件として労働時間を決めます(注1)。

マスターくん画像マスターくん:賃金はどのように考えるのでしょうか?

小林 慶一郎写真小林フェロー:賃金は、総労働時間に比例する場合と「1人当たりの固定費+労働時間比例部分」の場合の2つのケースを考えます。前者のケースでは、総賃金支払いは、weh(wは賃金率、eは雇用率、hは労働時間)となり、後者のケースでは、総賃金支払いは、we+ξweh=(1+ξh)weとなります(ただし、ξは正の定数)。企業の利潤最大化より、w=MPLとなることがすぐに示されます。このモデルで、Labor wedgeを新たに定義し、日本のデータを代入して、Labor wedgeの値を計算してみます。その結果、Labor wedgeの悪化傾向がなくなれば、従前のBusiness cycle accountingの結果(Labor wedgeが大恐慌期に悪化するという結果)は、モデルの定式化の誤りによるものだったということになります。その場合、Indivisible Laborを考慮した新しいモデルで考えれば、TFPの変化だけで不況はほとんど説明できるということになります。

しかし、実際に新しいモデルで、日本のLabor wedgeを計算しなおしてみると、Labor wedgeの悪化傾向は残ったままでした(これは、総賃金支払いについての2つのケースのいずれの場合も同じ結果でした)。したがって、Indivisible Laborを使ったモデルでは、(TFPの変化だけから)Labor wedgeの悪化を説明することはできないということがわかりました。やはり、Labor wedgeの悪化を説明するためには、生産性の変化だけではなく、何らかの市場構造の変化(金融問題の悪化や、労働市場の構造変化、貨幣ショックの悪化など)が必要になるということでしょう。標準的なReal Business Cycle モデル(Indivisible Laborを仮定するバージョン)では、現実の大恐慌を十分には記述できない、ということが、再度確認されたということでしょうか。

2006年7月14日
脚注
  1. ^ 新しいモデルでは、労働に関する選択変数が雇用率eと労働時間hの2つになるので、労働者と企業の最適化問題だけでは、モデルを解くことができない(変数の数が条件式の数よりも1つ多くなってしまい、均衡を定める方程式系の解が不定になる)。モデルを閉じるためには、たとえば、賃金水準をなるべく一定に保つべき、という社会規範によって、均衡のwに制約がかけられている、というような条件を導入する必要がある。無数にある均衡候補の中から、社会規範によって均衡を選択するという考え方は、Hall. R. E.(2005) "Employment Fluctuations with Equilibrium Wage Stickiness." AER 95(1): 50--65でも採用されている方法であり、労働市場の摩擦をモデル化する上で不自然とはいえないと思われる。

2006年7月14日掲載

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