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no.39: ネットはなぜ「プロ/アマ」の境界を崩すのか

鈴木 謙介
東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程

「プロフェッショナルとは何か?」という問いに一つの回答を用意することは難しい。ある人はプロ意識の有無を問題にするだろうし、ある人はプロのなしえる仕事のクオリティを問題にするだろう。だが、限られた紙幅で「何をもってプロだと見なすか」という話をするのはあまり生産的には思われないので、ここでは以後の話を分かりやすくするために、「その人しかなし得ない仕事で対価をもらう人」とでもしておこう。だから、プロの中には「営業のプロ」もいるし「水道修理のプロ」もいるわけだ。

さて、その中で私が今問題にしたいと思っているのは、相対的に「プロ」になることが難しいとされている、クリエイティブに関わる分野の「プロ」とネットの関係だ。今ではプロのミュージシャンがホームページを持つことなど珍しくはない(むろん所属事務所の営業的戦略の一環でもあるのだが)し、芸能記者達は特ダネを先にホームページで報告されてしまって商売あがったり、などという話もよく聞くようになった。

誰にでも手が届く「プロ」の仕事

だが私が注目しているのは、もっとラディカルな、別のレベルの話だ。つまり、ネットという場所がアマチュアにとっての福音であり、プロフェッショナルにとっての危機を招くのではないかという問題なのだ。

それは昨今話題の著作権や違法コピーにまつわる話のことだけではない。むしろもっと根本的な問題--つまりネットやデジタル技術の浸透によって、もはや「プロ」は必要とされなくなるのではないか?という問題だ。

実際、DTMやDTVなどの音楽、映像編集の分野ではかつてであればとても個人が手の届くものではなかった機材やソフトが一般向けにすら販売されているし、それらのツールを用いて自宅で制作されたCDやアニメーションが「プロの仕事」として評価されるまでになっている。

プロを支えていた流通の問題

こうした技術の進展と人口への膾炙は、一般には歓迎すべきことだと見なされている。パソコン一台とちょっとしたソフトでプロ顔負けの曲を作るアマチュア・ネット・ミュージシャン達には、音楽ポータルサイト「Muzie」などでいくらでも出会うことができる。このようにプロとアマチュアが同じ土俵の上で勝負し、ある時はプロの仕事を超える評価を受ける機会を、ネットは提供しつつある。最近であればネット上で爆発的な人気を博した「日本ブレイク工業」の社歌などはそのいい例だろう。

こうなってくると、プロとアマチュアの境界は、例えばメジャーレーベルの流通に乗るか乗らないか、テレビに出られるか出られないか、といったことしかなくなってしまう。その後に待つのは、「プロなんて言っても所詮運が良くてメジャーと契約できただけの人でしょ?」という冷めた評価ではないか。

それ自体は悪いことではないのかもしれない、が、それによって失われてしまうものがあるのではないか、というのが私の考えだ。その理由を理解するためには、そもそもなぜネットがプロに対する評価を冷めたものにしかねないのかについて考えなければならない。

かつて、クリエイティブな分野で仕事をして食べていける人は本当にごく少数だった。家が金持ちだったり、パトロンが付いたりしなければクリエイティブのプロになることなど不可能だったのだ。そういう状況では、クリエイティブの送り手だけでなく受け手の方も限定される。芸術作品を所有することは、その価値を認める人にしか分からないモノの所有という意味で、文化的な権力(ステータス)だったわけだ。

ところが現代社会において大衆化が進み、社会が豊かになってくると、一般の人々にもそうしたステータスとなる文化を所有したいという欲望が生じてくる。そこで生じてきたのがいわゆる文化産業だ。文化産業は、芸術の価値を知らない大衆に対して「プロの流通」という価値を付与した芸術作品を宣伝し、売りつけた。そこで評価される芸術の価値とは、あくまで「流通」がメジャーであるということに他ならない。

こうした論点はフランクフルト学派をはじめとして20世紀の芸術論で繰り返し指摘されてきたことだ。だがここで重要なことは、つまり大衆文化産業における「プロ」の意義とは、消費者の側にとっては「みんなが欲しがっているものであるかどうか=所有していると自慢になるかどうか」であり、メジャーの流通に乗っているということが、そのお墨付きであったということだ。要するにこれまで「プロ」を支えてきた流通の独占とは、何が評判になるかについては決定できないが、何を評判の対象にするかについては決定できるというものだったといえる。

守るべきものは何か?

だからネットの普及によってアマチュア・クリエイターが作品の発表の場所を得るということは、インディーズが力を持ってくるというだけの現象ではなく、プロがこれまで持っていた「評価対象の決定権」を無効化するという意味で、プロにとって重大な危機だと言える。つまりネットが崩壊させるのは、「何をしてプロの仕事として評価の対象とせしめるか」という点に他ならない。前出の冷めた評価はその一例だろう。

さて、こうした事態に対してどのような価値的判定が可能だろうか?メジャーの流通をもろもろの手段でもって保護し、プロとアマチュアの境界をはっきりさせるべきだ--というのはもはや時代遅れの主張だろうし、ましてフランクフルト学派のように芸術の大衆化によるクオリティの劣化を嘆いてみせる気は、私にはない。確かにクリエイターにとっては、素人同然の仕事が「面白いから」とか「コストが安いから」という理由でプロの現場を浸食してくることは、気分のいいものではないだろうが。

プロの側は、インディーズと競合することで失われるものは何なのかということにもっと敏感になった方がいい。正確に言うと、プロの作品の流通を支えているレコード会社や配給会社が、こういった問題をより深く認識するべきだ。というのも多くのアーティストが今では安価なツールを用いて自宅スタジオなどで創作活動を行う方向にシフトしている現状があり、わざわざ「商売」のことを考えてレコード会社の要求をのむくらいなら自主制作でリリースした方がよい、という人も出てきているからだ。

流通を仕切っていた側が本当に商売のことしか考えていなかったのならばそのように言われても仕方がないが、実際には彼らが市場を独占していたことで生じた技術やノウハウの蓄積というものもかなりある。そのような蓄積を温存したいと望む「ならば」、メジャーの流通というものの価値がどこにあるのかについて、まずクリエイターに納得させなければならないだろう。

ネットでクリエイティブ、というと、アマチュア・クリエイターの保護ということが無前提に賞賛されるが、少なくともそれが単なる文化政策だけでなく、産業政策としても構想可能であるように設計するためには、アマチュアがプロの現場へと流れていく回路をこそ、保護すべきだとはいえないだろうか。

2004年1月7日

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2004年1月7日掲載

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