IT@RIETI

no.21: 匿名の自由とそのコスト

池田 信夫
RIETI上席研究員

あなたが道を歩いているとき、あなたの名前を知っている人はほとんどないだろう。名前を知ってもらうには、選挙の候補者のようにタスキでもかけて歩くしかない。ところが、インターネットでは逆だ。あなたがアクセスしたウェブサイトからは、あなたのIPアドレス(どこのサイトからアクセスしているかという情報)は見えるので、もとをたどれば、あなたが何者であるかを知ることも可能である。ここでは逆に、絶対に自分の身元を知られないようにすることがきわめてむずかしい。いいかえれば、普通の生活とは逆に、匿名でいることにコストがかかるのである。

匿名性は無料ではない

インターネットの電子掲示板は、匿名のように見えるが、実際には「2ちゃんねる」はIPアドレスを記録している。普通のユーザーはISP(プロバイダー)から一時的に割り当てられたIPアドレス(時刻によって異なる)を使うので、だれであるかは外部からはわからないが、アクセスした時刻とアドレスをISPのログ(アクセス記録)と照合すれば、ユーザーは同定できる。2ちゃんねるは、名誉毀損などの訴訟を起こされた場合にはIPアドレスを知らせる方針を明らかにしているので、発信側のISPが協力すれば身元を割り出すことができる。

RIAA(全米レコード産業協会)は、ISPに対してP2Pソフトウェアを利用しているユーザーの名前を明らかにするよう求める訴訟を起こし、勝訴した。RIAAは6月、これによって得た情報もとづいて、数千人のP2Pユーザーを著作権侵害で訴える方針を表明した。IPアドレスは、暗号化すれば隠せるが、6月末に出たP2Pソフトウェア「エイムスター」(現在の名称は「マッドスター」)をめぐる仮処分決定では、ユーザー名を暗号化するエイムスターの機能は、著作権侵害を幇助するものだとし、サービスの差し止めが認められた。

しかし技術的には、高いコストをかければ、絶対的な匿名性を実現することは可能である。"Gnutella"や"Freenet"などの分散型P2Pソフトウェアは、エイムスターのように仲介するサーバをもたないで、ファイルもその情報もクライアントをリレーして送るので、法的に差し止めることは不可能だ。最近、日本で人気の高いP2Pソフトウェア"Winny"には、パケットそのものを暗号化する機能がついているので、ユーザーを訴えることもできない。ただ、この種のソフトウェアは使いにくく不安定で、それほど一般に使われるものではない。

この絶対的な匿名性は、幼児ポルノなどの違法な映像の交換に使われることも考えられるし、テロなどに使われる危険もある。米国では9・11以後、暗号をきびしく規制する「愛国者法」ができたが、これは現実には意味がない。カリブ海の島など規制の及ばない国にあるサーバで、128ビットの強い暗号ソフトがフリーで配布されているからだ。逆に、この匿名性によって内部告発なども可能になるし、中国など検閲の行われている国からインターネットで情報を発信することも可能になる。匿名性の費用と便益のどちらが大きいかは、一概にはいえない。

発信者情報についてのルール作りを

日本でも、2ちゃんねるをめぐる事件では発信元が開示された例もある。通信傍受法では、捜査令状があればISPは発信者情報を提供しなければならないが、プロバイダー責任法では、ISPに発信者情報を開示する義務は課していない。したがって民事事件への対応はISPの判断にゆだねられているが、実際にはユーザーの反発を恐れて開示しないケースが多いようだ。また発信者が不明の場合には、ISPには(事前に知らない限り)賠償責任はないというのがプロバイダー責任法の定めである。

このように発信者情報についてのルールが曖昧になっていると、米国のように訴訟が乱発された場合、ユーザーの発信者情報を守ることが困難になり、名誉毀損を理由にして内部告発者を同定することも可能になってしまう。他方、無条件に発信者情報を守ると、賠償責任も定められていないので、匿名の中傷による被害を救済することが困難になる。

私は、この種の問題については、一定のルールが必要だと考える。たとえば、ISPは約款に「発信情報の開示を求められた場合に開示するかどうか」を明記し、ユーザー側でISPを選択することによって発信者情報を守るようにしてはどうか。この場合「捜査令状がない限り発信者を開示しない」とするISPは、賠償責任を負うリスクがあるので、これをオプションとし、たとえば発信者情報を絶対に開示されたくないユーザーからは「保険料」として追加料金を取ってもよい。

インターネットでは匿名性は無料ではない。その自由を守るコストは、本人だけではなく、名誉毀損や株価操作などの形で社会全体が負うのである。この提案は、そのコストを原因となる個人に転嫁することによって「自己選択」させようとするものである。実際には、ISPの賠償責任はプロバイダー責任法で免責されているので、保険料を徴収するISPはないだろうが、発信者情報についてのルールを明示し、個人に発言のコストを自覚させることは重要である。

今後、こうした個人間の情報をめぐる小さなトラブルは、ますます増えてゆくだろう。それに対して、個人情報保護法のように一律の基準を政府が決めて行政が介入することは、好ましくないし、解決法としても現実的ではない。こうした事前規制は廃止する代わりに、紛争解決のルール(それは実定法である必要はない)を明確にして当事者を同定し、第三者機関(ADR)によって当事者間で解決することが望ましい。匿名性についてのルールを定めることは、日本が行政による過保護をやめ、当事者間で問題を解決する「大人の社会」になるためにも避けられない問題ではなかろうか。

2003年7月16日

This work is licensed under a Creative Commons License.

2003年7月16日掲載