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no.12: 地球温暖化とプライバシー

池田 信夫
RIETI上席研究員

今月6日、個人情報保護法案が衆議院本会議で可決された。政府案に対し、野党からは「自己情報コントロール権」を明記し「センシティブ情報」の収集禁止を求める対案が出るなど、プライバシー保護への要求は、強まることはあっても弱まることはないように見える。しかし、昔から日本家屋にはプライバシーなんてなかったし、それで日本人は何千年も暮らしてきた。プライバシーというのは、それほど重要な問題なのだろうか?

衣食足りると「環境」が気になる

経済学の教科書で、価格の原理を説明する例に「水とダイヤモンド」というのがある。水がなければ人間は生きてゆけないのに、生活に必要ないダイヤモンドの価格は水よりもはるかに高い。これは価格が絶対的な必要性ではなく、相対的な稀少性(限界効用)によって決まるからである。宝石のような贅沢品を「上級財」と呼ぶ。水や食糧などの日用品は、所得が上がるにつれて限界的な需要は減るが、上級財の需要は逆に増える。こうした上級財は規制しないというのが経済政策の原則である。宝石が不足しても、生活に困る人はいないからだ。

ところが社会が豊かになると、上級財への需要が高まる。貧しいときにはだれもが食うことに精一杯だが、衣食住が満たされると、「環境」や「健康」や「安全」などの商品化しにくいものがほしくなる。環境問題のなかでも、最初は大気汚染や有毒物質などの「公害」が問題だが、それが改善されると、今度は「オゾン」や「地球温暖化」が気になる・・・というように、次第に必要性の低い(存在もはっきりしない)ものに関心が移ってゆく。

情報技術の世界でも、大型コンピュータの時代には情報は貴重だったが、パソコンによってだれでも情報を処理でき、インターネットで大量の情報が流通するようになると、情報は水のようなものになり、プライバシーが心配になる。電子メールはシステム管理者に見られているし、電子商取引の履歴はウェブサイトに残っているので、インターネットにはほとんどプライバシーはないが、だからこそ個人情報がダイヤモンドのような輝きを帯びてくるのである。

こういうとき、「物質文明」を批判して「自然に帰れ」とか「個人の尊厳」を取り戻すために「国民背番号」に反対しようという類のお手軽な「文明論」が流行するが、これは錯覚である。いま地球上で最大の環境汚染国は中国であり、北京市内は晴れた日でも粉塵で曇っている。40年ぐらい前の日本もそうだったが、「物質文明」の発展によって環境は改善され、現在の大気汚染は戦前なみである。地球温暖化の原因が人間の出す二酸化炭素(CO2)かどうかは科学的にははっきりしないし、かりにそうだとしても人類がそれをコントロールすることはできない。「プライバシーの侵害」といっても、実害は変な電話がかかってきたり、身に覚えのないダイレクトメールが来たりする程度のことにすぎない。

規制のコストを考えた政策決定を

だから地球環境やプライバシーを「保護」するために税金を使うのは、宝石の供給を税金で補助するようなものだ。それによって贅沢品を消費する豊かな人々は満足するかもしれないが、地球温暖化防止のための京都議定書の基準を達成するには、ガソリンの値段は2倍ぐらいに値上げせざるをえないだろう。住基ネット(住民基本台帳ネットワークシステム)に入っているわずか10ギガバイト(パソコン1台分)のデータの「セキュリティ」を完璧にするために、400億円の建設費と年間200億円の維持費がかけられる。こうした負担は、国民全体に回ってくるのである。

「ITによって監視社会になる」といった話は、メディアが好んで取り上げるが、ニュースとしての価値も客観的な重要性ではなく、限界的な「新奇性」で決まる。犬が人間を噛んでもニュースにならないが、その逆ならニュースになるとよくいわれるが、実害は前者のほうがずっと大きい。こういうとき、「専門家」の意見も必ずしも役に立たない。気象学者は地球温暖化が世界でもっとも重要な問題だと主張するだろうし、プライバシー保護を目的とする市民団体やNPO(非営利組織)は、どんな犠牲を払ってもプライバシーを守れというだろう。彼らは、それによって自分の存在価値を高めることができるが、そのコストは国民が広く負担するからだ。

こうした「ただ乗り」を防ぐには、規制のコストを「内部化」する必要がある。CO2は有毒物質ではないので、地球温暖化は公害問題というよりもゴミ問題に近い。したがって京都議定書のような絶対的な排出基準を決める意味はなく、「炭素税」のような形でなるべくCO2削減の負担が国民に意識される方法が望ましい。個人情報も事前に行政が規制するのではなく、「被害者」が苦情を申し立てる第三者機関を作り、プライバシー保護にコストを払いたい人が自己責任で問題を解決すればよい。

一部の人々を観念的に満足させる「環境上級財」に税金を使う余裕は、今の日本の財政にはない。政府の仕事は、メディアによって誇張された問題に惑わされず、政策の費用と便益のバランスを客観的に評価して優先順位をつけることである。くわしいことは、今週出る私の本、『ネットワーク社会の神話と現実』をご覧いただきたい。

2003年5月7日

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2003年5月7日掲載