調査の趣旨

「(サッカーの)ワールドカップ」には、「競技(サッカー)」「ビジネス(仕事)」「祝祭」という3つの側面がある。ここで扱う領域は2番目の「ビジネス」である。

ビジネスであれば、当然のことながら常に成果が問われ、その評価を受ける。

ワールドカップにおけるビジネスは、その主体及びステークホルダーの性格からパブリック・セクターとプライベート・セクターに分けて論ずべきである。

プライベート・セクターの主たるビジネス主体は、TV局であり、広告代理店(電通)であり、公式スポンサー等である。公式なステークホルダーではないが輸送・宿泊その他様々な業者がビジネスを行った。(2002年大会で最も悪名を馳せた、チケッティングの業者は「公式」ではあるが、「公的」ではない。業務は飽くまで民間業者の事業であった。)

プライベートセクターの事業者は、当然それぞれの内部で成果を評価し、また外部からも評価がなされる。その成果は決算にも反映しようし、株主にも報告され最終的には市場という外部の評価を受けることになる。それらはこの調査研究の対象としない。

この調査で対象とするのは、民間のように市場の評価を受けることのないパブリックセクターであり、その中でも中核的な役割を担った地方自治体の「ビジネス」成果と、その事後評価に関するものである。言い換えれば「行政評価とアカウンタビリティーの確立」という今日的なテーマを、サッカーのワールドカップ開催に関して検証することが本調査研究のテーマである。

アカウンタビリティー

アカウンタビリティーとは「説明責任」と訳されているが、その成立には、第一に該当事項に関し、事前に「目的」と「目標」が説明されていることが必要である。目標の明示に併せて、その目標達成をどのように評価するかという「指標(measurement)」も同時に明らかにしておく必要がある。事後にその指標に基づいた調査検証と評価を行わなければ、目標達成(度)を立証することは論理的に不可能である。そして目標達成度を自己評価し、説明しないかぎりアカウンタビリティーは果たせないのである。つまり、アカウンタビリティーとは、「事前の説明」と「事後の検証・評価」のセットに他ならないのである。

スポーツについてこの点を鑑みれば、「国際スポーツイベント開催による地域振興」の内実とは何かが従来議論されず曖昧なままで、具体的に明示されていなかったのが実態である。しかし、そこで開催地域が「期待し得る成果」とは、一般的に如何なる領域におけるものなのかを明示することは可能であり、緊急かつ重要だと思われる。

当該地域がそこで明示された個別の施策の中でどれを選ぶのか、それは一律に決めるべきことではなく、それぞれの当該地住民が選択すべき戦略の問題である。(戦略とは「何をしないか」を議論して決定することである。)だが、少なくとも何を目指し、期待して開催地となるのか、事前の明示をし、議論のうえで「目的」に関するコンセンサスを得ること。同時に目標を設定し、指標を示すこと。そして事後に選択された期待すべき成果項目の達成度を調査し評価すること。それ無しには政策のアカウンタビリティーは果たせないのである。

「国際スポーツイベントによる地域振興」の成果と評価

以上の視点から企画提案され平成10年度に実行されたのが、「国際スポーツイベントによる地域づくりに関する調査研究」である。(納品は11年3月)調査費600万円のうち(財)地域活性化センター/旧自治省が半額の300万円、残り半分を10のWカップ開催自治体で等分に(各30万円を)負担して実施された。この時点で開催自治体はこの調査研究で示された結果にはコミットしたのである。

今回の「Wカップの事後調査」はこの調査研究の延長上に位置づけられるものであり、調査25項目は、この報告書で示されたものをそのまま利用している。

「成果」の評価をするにあたって、アメリカのマルコム・ボルドリッジ賞を参考にした「経営品質賞」の考え方を援用すれば、ビジネスの評価には「制度」「稼働」「成果」の3段階が存在する。成果とは飽くまで最終的な目標・目的との関連で評価すべきものだが、成果を出すためにはまず制度を作り、それを稼働させることが必要である。Wカップの開催で地域振興を目指すなら、Wカップが盛り上がることが稼働の条件ではある。従来はその「盛り上がった」ことを「成果」としてあげるような傾向がよく見受けられた。これは「稼働」と「成果」の明らかなる混同に他ならない。当該イベントの成功自体が自治体の開催目的であれば、「盛り上がり」を「成果」とするのも間違いではなかろう。しかし競技団体であればともかく、自治体にとって大会の成功が開催目的となり得るはずがない。ともすると作業は自己目的化するが、冷静に考えればその愚を避けねばならないのは自明だ。この陥穽に捕らわれると、一時的な興奮(例えば長野冬季五輪の「原田の涙」)や華やかさの中で本来の目的を見失い、事後に十分な客観的評価を怠ってしまうはめになる。そうなると長期的なコストパフォーマンスの検証などは望むべくもない。飽くまで当該地域の持続的な発展につながったかどうかが、自治体の成果を計るメルクマールのベースとならなければなるまい。

従って、例えば「ボランティア」の応募が多かったという結果も、まだ「稼働レベル」の指標でしかないのである。

こうして考えると、成果の根拠となる「地域振興」とはそもそも何なのかが、最も重要な課題であるとの結論が見えてこよう。そこでは即ち、当該地域が自らの「地域像」を明確に持ち得ているかどうかが問われざるを得ないのである。そして「国際スポーツイベントの開催」とは、たかだかその目的を達成するための手段、あるいは方法でしかないという点、今更ながらであるがここで確認しておこう。

行政評価に馴染みにくいスポーツというソフト

その上で注意を喚起しておきたいのだが、スポーツイベント開催によって期待すべき成果には、所謂「行政評価」には馴染みにくいものが少なくない。第1にスポーツがハードではなくソフトであるという点である。ソフトのアセット評価とは、わが国の最も不得手な範疇といえよう。またスポーツのアセット評価とは、単年度での評価が不可能である点も一般の「行政評価」に馴染まない大きな要素である。 本調査項目のうち、「地域のアイデンティティー」や「意識の一体感」などは、行政評価の対象項目として扱うには厄介な項目には違いないが、スポーツに期待する項目としては一般的かつ正統的でさえあると言えよう。「スポーツの公共性」とは、むしろそういった側面に依拠して成立していると考えられる。

また現代のような高度に情報化された社会では、決まり切った日常を打破する非日常的な機会、即ちカタルシスを提供する機会の重要性は増している。スポーツイベントはまさにそのイベント性、祝祭性によってその機会を万人に提供する貴重な装置である点、2002年の6月は日本中で改めてそれを実感したが、それもまた行政評価には馴染まないだけではなく、資産として残るものでもない。敢えてその価値を説明するなら、何かを得る価値ではなく、何かを失わない価値とでも意義つけるしかないであろう。

スポーツの象徴機能

スポーツの果たす「機能」あるいは「効用」に関して、「公共性」と同様に重要であると思われるのは「象徴性」であろう。スポーツは多くの人に同じ参画意識を持たせ得る強い「象徴機能」を有す。例えば静岡の石川県知事は、我々のインタビューにおいて以下の様にその価値を指摘した。

「今回のWカップでは、多くの一般県民が自発的に様々な催しを企画・実施した。また行政とパートナーとなって共同で行った事業も多く、この経験はこれから民間あるいはNPOなどと行政がアフィリエート関係を結ぶなどして、共同でいろいろな問題に対処していく上で、いわばパイロット事業のような機会でもあった。これはWカップの持つ魅力によって、多くの人が同じ目的・目標意識を共有することで初めて可能であった。」

ここで挙げられている、「自発的な参加」という点は頗る重要である。「行政主導のボランティア」とは言語矛盾以外の何者でもないのだが、ボランティアの思想・文化・経験に乏しい我が国では、従来そういった例が少なくなかったようだ。行政にも市民にも、ボランティアを「する」と「受け入れる」の関係をどうとり結ぶべきか、それは経験を通して学習するしかないのである。その過渡期であれば、行政主導のボランティアというブラック・ジョークのような事態にも一定の意味を認めなければならないのであろう。

この点で「Wカップの開催」は両者の距離を一挙に縮める機会を提供したようである。開催地となった自治体の全てが、「ボランティア」に言及していることが、この問題へのアプローチに関する手詰まり観を推測させよう。

もっともこれらも確かに大きな成果には違いないだろうが、その成果はどのように評価すべきかという点、いまだ確たる評価手法と評価指標が存在しないというのもまた冷厳なる事実なのである。

しかし「スポーツは行政評価になじみにくい」という事実は、大会の事後検証を怠る言い訳にならないのは今更言うまでも無い。困難だということが、やらなくて良いということにはならないのである。どのような事項についても、どのような評価手法が開発されようが、100%正確な評価などは不可能ではある。それが評価不要の根拠にならないのも最早多言を要しまい。

自治体の当事者意識と温度差

現実に調査を開始すると、行政の対応にはその当事者意識によって、随分と格差があることも明らかになった。格差の第一は「Wカップ開催の意義」に関する認識も軽重であった。そして結論的に言えば、大分県の戦略的な取り組みは際立っていた。事前の戦略的な意図と、実際の施策と、事後の成果の利用など行政の継続性という観点では、見事な整合性が見られた。中津江村をめぐる一連のハプニングは、確かに望外の暁光ではあったろうが、ここまで周到な準備があればこその、神様の粋な取り計らいだったのではないか等と思ってしまうのである。もっとも、重ねて言うが、現時点ではこれらの現象は飽くまで施策レベルなので、評価としては「稼動」レベルであり、当然ながら最終的な「成果」レベルの評価には数年を要するであろう。

他方、政令指定都市にとっては概ね「Wカップ」は、数多ある事象の一つでしかないという感じを受けた。例えば調査準備を開始した11月時点でWカップに対応した部署は例外なく縮小されていたが、部署そのものが解散されて存在していなかったのは神戸市だけであった。

自治体のおかれた環境や条件によって、Wカップに期待するものの大小は異なるということであろう。つまり、ソフトが多ければ相対的に個々のソフトの価値は低くなる。イベントが多ければ、対応する行政の個々への取り組みは薄くなるという側面もあるだろう。「世紀の大イベント」を特別扱いにして欲しい、という思いが一般のサッカーファンにはあると思われるが、その思いがそのまま行政の対応に反映されるわけではない。当然その間にいくばくかの距離が存在するのである。

調査を開始して接触した自治体の中には、「あなた達はどんな権限でこのような調査を行うのか」という、あからさまな不快感を表明したところもある。そういった自治体が独自で事後評価をしているならば、その表明は「大きなお世話」という意味だろうが、残念ながら自分達の怠慢を棚上げにした発言でしかなかった。(因みに「自分達が怠っていたことを替わりに行ってもらってありがたい」という謝意の表明は皆無であった。)甚だしいところでは、「そもそもこういう事後調査はすべきではない」とと言い切った職員すらいた。彼らには公僕という意識が希薄であり、tax payerに対する責任感という感覚がうかがえなかった。首長へのインタビューを申し入れた際、想定質問事項に「アカウンタビリティー」の語句を見つけ、「挑戦的」だと削除を要求してきたのも当然予想された範疇ではあった。この点アンケートの調査票の第1問に注意されたい。結果は興味深い。ここでは、「事後評価」そのものが問われているのだが、独自で評価していると答えたのは前述の大分県のみであった。設問時には「当面調査する予定はない」という回答が多いだろうとは予想したものの、まさか「調査する予定はない」と回答する自治体があるとは予想しておらず、いくつかが臆面もなく「ない」と回答してきたのには唖然とした。詳しくは調査報告本文で確認されたい。

調査の目的は識別ではない

誤解の無いように付言すれば、この調査はWカップによって獲得された成果の全てを実証し、評価することではない。また、25の評価指標によってその出来不出来を評価するものでもない。更には、事前に当該地域の地方行政が標榜したことが実際どのように行われたのか、事実を調査し、その真偽を確かめるものでもない。これらは全て当該地域住民の問題であり、当方はその当事者ではない。(つまり「余計なお世話」であろう。)

屋上屋を架すことを承知で述べれば、まず当該地が自らの「地域」ビジョンを持つことが必要なのである。今回の25の調査項目全てを平等に扱う必要性は全くなく、プライオリティーをつけることが自らの「地域」観を明確化させることに他なるまい。25項目全てを網羅する必要さえありはしないのである。ここで明らかにしたいのは、何をどのように判断しているのか、自らの検証によって判断しているのか、なのでありその成果を判断する当事者は飽くまで当該地域の行政と住民でなければならないのである。ここで意図されているのは、成果そのものの実証ではなく、事前に何が標榜され、それがどのように施策として意識され、政策当事者はその成果をどのように考えているか、という「メカニズムの実態」を明らかにすることである。そこから導き出された結果により、

  • 「事前の『目的』に関する議論と、
  • 『目標(値)』のコンセンサス作り」と、
  • 「事後の『成果調査検証と評価の制度化』

を確立する」ための議論が開始されることが期待される。本調査はその目的のために、議論の基礎として便宜的な指標を提示し、「目的」明示、「目標(値)」設定、「成果」検証と評価のフレーム設定を提案するものである。