中国経済新論:中国経済学

世界銀行のチーフエコノミストに任命された北京大学の林毅夫教授

関志雄
経済産業研究所 コンサルティングフェロー

中国を代表する経済学者である北京大学の林毅夫(Justin, Lin Yifu)教授が、世界銀行のチーフエコノミストに任命された。上級副総裁をも兼ねるこのポストは、世界銀行の政策に強い影響を与えるだけでなく、前任者には、元米国財務長官ローレンス・サマーズ(1991年-1993年)、ノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・スティグリッツ(1997年-2000年)や、気候変動に関する「スターン報告書」をまとめたニコラス・スターン(2000年-2003年)など、経済学の巨匠が含まれている。林毅夫は、このポストに就く最初の欧米以外の出身者となる。本人の実力に加えて、世界経済における中国の地位の向上を合わせて考えると、林毅夫はまさに最も相応しい人選である。

出版社のご厚意により、以下に拙著『中国を動かす経済学者たち』(東洋経済新報社、2007年)より林毅夫氏の章の抄録を掲載する。

一、「洋博士」の代表格

林毅夫は、中国で活躍している経済学者の中で、国際的に最も高く評価されている一人である。1952年に台湾で生まれ、台湾で高等教育を受けた後、1979年に現役の軍人として、対立関係にあった中国大陸に亡命した。その頃彼はすでに強い経世済民の意識を持っていた。その後、シカゴ大学への留学を経て、改革開放後の経済学「洋博士」の第一号として帰国し、「祖国の富強」に貢献するという夢を叶えた。

1)台湾から大陸へ、そして米国留学へ

台湾で生まれた林毅夫は、地元の高校を卒業後、1971年に台湾大学農工学部に入学したが、中途退学し、陸軍士官学校に転校した。1974年に陸軍士官学校を卒業し、同校の幹部を経て、1975年に台湾政治大学に入学。1978年に台湾の政治大学で経営学修士学位を取得した後、同年8月に軍に戻り、陸軍の中隊長に任命されるというエリート将校コースを歩みはじめた。1979年2月に林毅夫は中国大陸福建省厦門と対峙する最前線の金門島に駐屯するようになったが、在任中の1979年5月16日の夜、金門島から台湾海峡を泳いで対岸の中国大陸に亡命した。

中国大陸への亡命に成功した林毅夫は、憧れであった北京大学への入学を果たした。北京大学での3年間、林毅夫は経済学を専攻した。在学中の1980年に、ノーベル経済学賞を受賞した著名な米経済学者セオドア・W・シュルツが北京を訪問し、北京大学で学術講演を行ったが、その際、英語が堪能である林毅夫が通訳を担当した。シュルツは林毅夫の学識と教養に感動し、彼を自分の最後の弟子にした。林毅夫は1982年6月に北京大学の修士課程を修了すると、米国の奨学金を得て、シカゴ大学経済学部に入学し、開発経済学と農業経済学を学んだ。

シカゴ大学経済学部に入学した時、林毅夫はすでに30歳をすぎていた。経済学の基礎が磐石ではなかった彼にとって、米国での経済学修行は大きな挑戦であった。シカゴ大学での留学生活で林毅夫は、ほとんど休日なしで学問に励み、通常5年から7年かかる博士コースを4年で修了した。1986年にシカゴ大学の経済学博士の学位を取得した後、エール大学の経済成長センターに移り、ポスドクフェローとして研究を深めた。米国での経済学修行の期間において、林毅夫は、特に開発経済学と農業経済学に力を注いだが、同時に、中国の経済改革にも強い関心を寄せた。

2)大陸での発展

エール大学のポストドクターを経て、1987年に林毅夫は中国大陸に戻り、中国の改革開放にかかわる仕事に専念した。まず国務院農村発展研究センター発展研究所副所長に就任し、その後、国務院発展研究センター農村部副部長に任命された。1994年に帰国した数人の若手学者と共に北京大学中国経済研究センターを設立し、初代所長となった。

帰国後、林毅夫は台湾、中国大陸、米国での多彩なキャリアを活かし、多くの研究成果を上げた。特に、国務院農村発展研究センター発展研究所や国務院発展研究センター農村部に勤めていた時期には、自分の得意分野である農業経済の理論を活かし、政府が推進する農村発展戦略の制定に貢献した。1980年代後半から林毅夫は『ジャーナル・オブ・ポリティカル・エコノミー』や『アメリカン・エコノミック・レビュー』などの世界的に権威のある経済専門誌に数十本の論文を発表した。

論文のほかに、林毅夫は多くの専門書を出版した。1992年の『制度、技術と中国農業の発展』、1994年の『中国の奇跡―発展戦略と経済改革』、1997年の『充分情報と国有企業改革』などにおいて、彼独自の理論の枠組みを展開している 。これらの著作は多くの外国語に翻訳され、海外でも注目されている。1993年には『制度、技術と中国農業の発展』が、当時の中国経済界における最高の栄誉である「孫冶方賞」を受賞している。

1990年代初期から、林毅夫は中国の改革開放に対して理論と政策の面で貢献の大きい経済学者の1人として、国内外から注目されるようになった。特に、林毅夫が提唱した「新農村運動」が第11次五ヵ年計画(2006-2010年)に取り入れられるなど、彼の政策ブレインとしての地位は不動のものとなっている。

林毅夫を中心に創立された北京大学経済研究センターは、専任の教員が当初の6人から、20人あまりに増えており、海外から帰国した経済学者が最も集中する研究拠点となっている。同センターは、国内の経済学の教育、理論研究、そして政策研究をリードしており、ほかの大学にとっても模範となっている。林毅夫は、中国が世界の経済学の中心地になる夢を持っており、その実現に向けて、北京大学経済研究センターが大きな役割を果たすに違いない(『中国を動かす経済学者たち』第13章第3節参照)。

二、中国経済への診断書と処方箋

林毅夫は一貫してマクロ面では比較優位に沿った発展戦略を提唱し、ミクロ面では企業のコーポレート・ガバナンスを確立するために民営化よりも公平かつ競争的市場環境の構築が先決であると主張してきた。その代表作である『中国の奇跡』(邦訳、『中国の経済発展』)と『充分情報と国有企業改革』(邦訳、『中国の国有企業改革』)において、この理論を中国経済の分析に応用した。前者は発展戦略というマクロの側面を取り上げているが、後者は国有企業改革というミクロの側面に焦点を当てている。これに加え、林毅夫の楊小凱・モナッシュ大学教授の「後発性の劣位論」に対する反論は、彼の改革の進め方に関する考え方を端的に示している。

1)『中国の奇跡』

中国経済に関しては、1)なぜ、改革以前の発展の歩みは緩慢であったのに、改革以降は高成長が実現できたのか、2)改革過程において、なぜ活性化と混乱の循環が繰り返されるのか、3)経済改革と発展はこれまでの勢いが維持できるかどうか、4)中国の改革が大きな成果を収めたのに対して、なぜロシアや東欧諸国の改革が行き詰まったのか、といった問題が最大の関心事である。この一連の設問に対して、『中国の奇跡』は一貫した枠組みの中で興味深い答えを示している。

まず、最初の設問に対して林毅夫らは、改革開放以後の中国経済の成功の原因を、発展戦略の転換とそれに誘発された経済制度の変革によって、これまで抑えられてきた比較優位が発揮できるようになったことに求めている。

改革開放まで中国で遂行されていた資本集約型重工業優先発展戦略は、典型的な「追いつき、追い越せ」の発展戦略であった。この発展戦略は中国の伝統的経済体制が形成される起点である。価格を歪めるマクロ経済の環境、計画による資源配分制度、さらに、国有企業という自主性のないミクロ的な経営体制は、重工業を優先的に発展させる戦略によって形成された三位一体の内生的要素である。しかし、伝統的計画体制は、「追いつき、追い越せ」の目標を実現するどころか、逆に改革開放まで経済成長は停滞し、長い間人々の生活は改善されないという結果をもたらした。

1978年以降の経済改革は企業にインセンティブを与えるようなミクロ面の改革から始まった。国有企業では、自主権が拡大され利益の内部留保が認められるようになり、その枠も段階的に拡大してきた。一方、農業部門においても人民公社が解体に向かった。これにより、経営者や労働者、農民の生産意欲が高まり、生産性が急上昇した。計画分を超えた投入(原材料、労働力、資金)の調達や産出の販売経路を価格メカニズムの働く市場に求めざるを得なくなり、企業自主権の拡大は必然的に市場経済の発展につながった。一方、外資企業や郷鎮企業など非国有企業も奨励され、市場経済の担い手として登場してきた。市場経済の拡大と深化により、重工業に偏った産業構造が是正され、比較優位に沿った形で、軽工業が産業発展と輸出を牽引する担い手として力を発揮してきた。

これをベースに、第二の設問に対しては、中国の経済改革のプロセスにおいて現われた活性化と混乱の循環は、一部の分野で改革を先行させた結果、併存する新旧体制に生じた不適合によって引き起こされたものであると説明する。この循環から脱出するためには、価格、金利、為替を含むマクロ政策環境の次元にまで改革を深化させ、重工業優先の発展戦略を根本的に放棄しなければならない。

また、第三の設問に対しては、正しい方向に沿って改革を堅持さえすれば、前進の過程で困難を克服することができ、中国経済の高成長が持続できると予測する。したがって、新世紀の初頭に中国が米国と日本を追い越し、世界最大規模の経済になり、衰退していた中華民族が再び隆盛へと邁進することは決して不可能ではない。

最後に、第四の設問に対して、中国経済改革を成功させた重要な条件の一つは、コストとリスクが小さく、また即時に利益をもたらすような漸進的な道を選んだことであると主張する。これに対して、ロシア・東欧諸国は急進的な改革方式を選択したため、大きな摩擦コストと社会的不安を引き起こした。もし各国の伝統的計画経済体制の間に共通項があるとすれば、改革の道についても共通性があるはずであり、中国の改革の経験も一般的な意味をもつ。このように林毅夫らは、中国とロシア・東欧諸国の経済パフォーマンスの差を初期条件の違いに求めるというジェフリー・D・サックスをはじめとする欧米の経済学者の見解とは真っ向から対立する立場をとっている。

2)『充分情報と国有企業改革』

林毅夫らは、『充分情報と国有企業改革』において、公平かつ競争的市場体系の構築こそコーポレート・ガバナンスを確立するための鍵であるとの主張を、次のように展開している。

公平かつ競争的な市場環境の下では、企業間の利潤は平均水準に収斂する力が働く。そして、個別企業の実際の利潤水準、またはコスト水準をこれに比較してみると、それぞれの経営状況、ひいては経営者の能力と努力の情報を得ることができる。このため、市場競争が存在する中では、利潤率が企業経営を考察し監督するための一種の充分な情報とされるのである。この充分な情報は情報非対称の問題を完全に克服することはできないが、簡単に手にいれることができる有効な手段であり、企業経営の善し悪しをかなり正確に反映することができる。市場競争とこのような充分な情報が存在するという前提の下では、経営管理者の市場が形成される。この市場の機能は、経営管理者の経営実績に基づいて賞罰を行い、経営者と所有者とのインセンティブが相容れるようにするものである。

市場によるコーポレート・ガバナンスを機能させるためには、製品市場と要素市場のみならず、経営者市場と株式市場も競争的でなければならない。競争的経営者市場が存在すれば、経営者の採用や解雇、昇級や降格、および報酬の決定はより公平に行われることになり、これにより経営者のインセンティブの問題が解決される。一方、競争的株式市場では、株価の変動は基本的に企業の経営状況を反映し、経営者を評価する有効な指標となる。

中国における資本集約度の高い国有企業の一部は、依然としてエネルギーなどの投入および産出を規制されている価格で取引しなければならないうえ、住宅、医療、退職金などの福利厚生費も負担しなければならない。こうした歪んだ経営環境においては、利潤率が企業の経営状況を反映していないため、企業経営を監督するコストが高く、企業がソフトな予算制約に甘え続ける口実を与えてしまった。有効なコーポレート・ガバナンスを確立し、ソフトな予算制約のハード化を図るためにも、こうした歪みを是正し、公平かつ競争的な市場環境を構築しなければならない。

具体的には、まず、社会保障制度を整備し、すべての国有企業を退職従業員の扶養と在職中労働者の福利費(医療、住宅、教育など)という重い負担から解放しなければならない。第二に、重工業部門など資本集約度の高すぎる分野にある企業に対して、生産内容や業種の転換を認めるべきである。第三に、企業債務を明確にし、これまでに累積した不良債権を処理しなければならない。また、これと同時に、銀行融資の金利を、人為的に抑えられた低水準から資金の希少性を反映した水準に引き上げなければならない。第四に、エネルギーをはじめとする主要な原材料の価格については、早急に政府による統制を廃止し、国際市場との連動という形で需給関係に基づく価格形成のメカニズムに移行すべきである。最後に、生産効率を高めるためには、労働力、経営者、資金、設備、土地などの資源の再配分が必要であり、流動性の高い要素市場の構築を急がなければならないという。

3)楊小凱の「後発性劣位論」への反論

「制度革新の代わりに技術ばかりを模倣することは、後発性の劣位を招きかねない」という楊小凱の「後発性劣位論」(『中国を動かす経済学者たち』第7章第1節参照)に対して、林毅夫は次のように正面から反論している。

まず、発展途上国が技術移転を頼りに技術革新を図る場合、そのコストは、先進諸国のように自力で開発するよりはるかに低い。従って、先進諸国より発展途上国のほうが経済成長の潜在力は大きい。先進諸国と比較すれば、発展途上国は収入や技術発展レベルなどの面において、明らかに差を開けられている。こうした技術面でのギャップを利用し、技術導入の方法を通じて、発展途上国の技術革新を加速させ、経済発展をより早く実現できる。これがいわゆる「後発優位」の主な内容である。こうした「後発性の優位」が存在しているからこそ、中国の未来の発展に大いに自信を抱いているのである。

また、憲政体制が、経済の長期的な発展と成功にとって、充分かつ必要な条件であるかどうかは、疑問である。長期的な経済発展の角度から言えば、憲政体制改革を先行した国家が必ずしも後で行った国家よりうまく行くとは限らない。さらに、これまでは、共和憲政に基づく体制改革を実行することを通じて、経済の持続的で速い発展を実現できた後発途上国の例はどこにも見当たらない。体制移行は決して一夜にして成るものではない。例え共和憲政体制が一国の発展に決定的な影響を及ぼすほど重要であるとしても、経験から言えば、それは短期間に作れるものではない。従って、経済を発展させながら、制度の改善を徐々に図るしかない。

さらに、制度は確かに重要であるが、しかしある国にとっての最適な制度は実に内生的なものであって、その発展段階ないし歴史、文化などの要素と深くかかわっている。バランスの取れた共和憲政体制を形成するには、複数の政治と経済の力が均衡している集団の存在が不可欠である。仮にこうした集団が存在しない場合、例え憲政が確立されても、それが統治者による権力の独占を強化する道具になるだけである。

最後に、漸進的改革は、決して国家機会主義を強化したわけではなく、むしろ改革の深化に必要な条件を作り上げていた。一つの成功例は双軌制(新旧体制の共存という二重構造)である。双軌制は、経済の安定を保ちながら、経済の高度成長を遂げたという点において、明らかにショック療法より優れている。そして、発展途上国が先進諸国との技術ギャップを利用し、経済発展を加速化するのに最も重要なのは、発展戦略である。もし政府が企業を自国の比較優位に見合った産業に誘導することができれば、後発性の優位は充分発揮されるだろうという。

林毅夫のこのような考え方は、「新自由主義者」とも「新左派」とも一線を画しており、実質上「開発的独裁」を進めている中国共産党と政府に近い。それゆえ、彼は指導部から厚い信頼を得ており、政策への影響力もますます強まっている。

2008年2月6日掲載

出所

『中国を動かす経済学者たち』(東洋経済新報社、2007年)第8章より一部抜粋
※抄録の掲載にあたり許可をいただいている。

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2008年2月6日掲載