中国経済新論:中国の経済改革

改革の過程における利益補償の問題

張維迎
北京大学光華管理学院教授

いかなる制度のもとにおいても、利益構造は形成され、既得権益集団が存在する。改革においても、革命においても、既存の利益構造に対する調整が求められるが、調整する方法は、革命と改革においては本質的に異なる。

いわゆる革命とは、武力や強制手段を通して、富や権力をひとつのグループから別のグループに移転させることである。革命の過程においては、利益を失う人と利益を受ける人が必ず存在するため、パレート最適(誰かの利益を損なわない限り、他の人に利益をもたらすことはないという状態)の達成はありえない。たとえ革命の過程において受益者が多数で、利益を失った人が少数であっても、社会全体の富は必ず増えるとは限らない。それゆえ、革命はカルドア(Kaldor)とヒックス(Hicks)の提唱した「受益者が得られる利益は損をする人が被る損失より大きい」という社会厚生が改善する基準さえ満たさない場合も考えられる。例えば、土地革命は地主の所有した土地を無償で農民に配ったが、人口比率から考えると、損失を被った地主は少数であり、利益を獲得した農民は多数であるが、土地の面積が増えないため、社会全体の富が増えるとは限らない。

革命と異なり、改革は富を無償であるグループから別のグループに移転させることではない。改革においては、旧体制のもとで形成された社会構成員の既得権益を認めたうえで、権利および資産関係の再構築を通して、社会全員のインセンティブを引き出し、社会全体の富を増大させ、パレート最適を実現しようとする。革命は既得権益の剥奪を意味するが、改革は旧体制のもとで形成された既得権益(法律上認められたものか、それとも単に事実上認められたものかにかかわらず)を尊重する。つまり、誰の生活も、改革によって、旧体制のもとでの生活水準より悪化させられることはないのである。改革の実施によって、社会全体の富が上昇しても、それと同時に社会の一部の人の利益が失われるような状況が発生するならば、上記のような原則に基づき、受益者は獲得した利益のなかから一部を、損失を被った人に補償しなければならない。そうでなければ「改革」とは呼べない。これはつまり、社会全体の富の増加は改革の前提であることを意味している。もし社会全体の富が増えなければ、損失を被った人も補償を受けることはできないだろう。

旧体制のもとで形成された既得権益を尊重し、改革過程において既得権益を失ったグループに補償することは、避けて通れない問題である。さもなければ、我々は、改革の過程における補償という措置を説明することができない。例えば、計画経済体制のもとでは、農村部の住民にとって都市部の住民は既得権益集団であり、農民にとって企業従業員は既得権益集団である。政府は農産物価格を引き上げた際には必ず、都市部の住民に対しても食費手当を引き上げた。しかし、農業用生産材料の価格が引き上げられた際に、政府は農民に対して何の補助もしなかった。なぜなら、農民は計画経済体制のもとでの既得権益集団ではなかったからである。また、企業で働いた農民工が失業者になると、退職金もなく、失業保険ももらえない。しかし、国有企業の従業員の場合は、レイオフされると、退職金も失業保険ももらえる。なぜなら、計画経済体制のもとで形成された企業従業員の既得権を認めなければならないからである。農民の場合は、国家によって認められた唯一の既得権は土地の使用権である。そのため、政府が土地を徴用する際には、土地を失った農民に対して補償しなければならない。改革の過程においては、たとえ新たな体制のもとで新たに現われた一部の既得権益集団であっても、もしその新体制を変革しようとするときに、彼らが損失を被ることになるならば、彼らに対して補償を考えなければならない。その典型例が非流通株改革である。非流通株の株主は流通株の株主に対して株式の無償譲渡を行わなければならない。そこで、10株につき2、3株を譲渡することになった。このような株式譲渡は、非流通株が流通できないときに形成された流通株の株主の既得権益を尊重するために行われた一種の補償である。

官僚の既得権に対する補償は非常に敏感な話題である。なぜなら、こうした補償を求める人々の少なからずが政策の設定者本人であり、彼らの補償額を決める権力があまりにも大きいからである。しかし、補償の問題を避けようとしたために、「隠れた補償」(例えば、腐敗問題、子女が商売を営んでいるといった問題など)という社会に悪い影響を与える深刻な問題を招いてしまった。例えば公用車改革に対しての批判が高まっているが、日本などの経験によれば、公用車の廃止は政府支出の大きな削減となる。また、現在実費で支払われている官僚らによる公費の支出は、無駄をなくせば、数分の一で済むはずである。さらに、仮に一兆元を使って1000万人の公務員を削減することができれば、社会にもたらす利益は莫大なものであろう。

ここでも考え方の転換が求められる。歴史的にみて、中国人は、貨幣(現金)の形をとらない特権を比較的、容認しやすいようである。人々は、官僚一人当たりの年間数十万元の公用車代は容認できるが、公用車をなくすために支給する数万元の手当については受け入れられない。赤字経営が続く国有企業の責任者の公費使用については、人々は受け入れられるが、彼らに退いてもらうために多額の補償金を支払うことは受け入れられないのである。

これまでの議論において、すべての補償が合理的で公平なものであるとは言っていない。現実には、一部の補償は十分ではない(例えば、農地の徴用に対する補償など)し、一部の補償は過剰となっている。このような問題は、当事者の交渉能力と関係しているかもしれない。また、情報の非対称性と関係しているかもしれない。いずれにしてもこれは技術的な問題であり、関係者が詳細に検討する必要がある。しかし、改革の基本原則とは、旧体制のもとで形成された既得権益を認め、改革過程において既得権益を失ったグループに補償するということである。歴史的な影響から、一部の人は革命という考え方で改革を理解しようとしている。こうした人々は、改革が既得権益を剥奪するものであると考えているが、このような考えは正しくない。

ここでは、絶対的利益と相対的利益を区別する必要がある。いわゆる絶対的利益とは、当事者が自らの所得、資産、権力の絶対的数量(権力が貨幣価値で現われると仮定する)を指す。これに対して、相対的利益とは当事者の所得、資産、能力を他の社会構成員と比べたものである。例えば、甲と乙からなる「社会」を考えよう。旧体制のもとでは、甲の資産が100であり、乙の資産が150であった。新体制のもと、甲の資産が200になり、乙の資産が300になったとすれば、それぞれの絶対的利益は倍増したが、相対的利益は変わっていない。新体制のもとで、それぞれの資産が200になったとすれば、それぞれの絶対的利益は増加したにもかかわらず、甲の相対的利益は上昇したが、乙の相対的利益が減少したことになる。

旧体制のもとで形成された既得権益を認め、補償すべきという我々の主張は、相対的利益ではなく、絶対的利益に対するものだと強調しておきたい。上記の例のなかで、たとえ乙の相対的利益に損失があったとしても、補償すべきではない。なぜならば、補償の額を算出するための客観的基準が存在しないからである。また、改革の目的は機会の平等な社会を構築することであり、新たな特権階層を形成することではない。このような目的は補償しないためのもう一つの理由である。もし相対的利益におけるすべての損失に対して補償するならば、改革の目的と相反して、旧体制に戻ってしまうことになる。中国の実情から考えれば、計画経済体制のもとでは、政府官僚・役人の相対的利益が最も高く、それに都市部労働者が続いた。農民の相対的利益は最も低かった。改革は旧体制下の利益集団に地位の相対的低下をもたらすはずである。そうでなければ、改革は成功とは言えない。

強調しておきたいことは、改革過程において既得権益を失ったグループに対する補償は一回限りのものでなければならないことだ。さもなければ、新体制は永遠に形成されないだろう。

2006年10月11日掲載

出所

経済観察報2006年3月11日
※和訳の掲載にあたり先方の許可を頂いている。

関連記事

2006年10月11日掲載

この著者の記事