中国経済新論:中国の経済改革

発展なくして所得格差の縮小なし

張維迎
北京大学光華管理学院教授

中国経済改革をめぐる論争では、「効率を第一と考え、公平性にも目を配る」との表現が疑問視されている。「公平」という言葉は価値判断の色彩が強い概念であるため、効率を強調する学者が道徳的な正しさを失っているように受け取れるからだ。実際は、公平を「機会の平等」と理解しても、「結果の平等」と理解してもよい。機会平等の場合は、公平と効率は矛盾しない。機会が平等である自由経済であればこそ、資源の最適配分ができる。「効率を第一と考え、公平性にも目を配る」をより正確に表現すれば、「機会平等を第一とし、結果平等にも目を配る」になる。もし、平等が「結果平等」だけを指すならば、効率と平等はある程度矛盾するが、「効率を第一と考え、公平にも目を配る」なら、矛盾にはならない。ジョン・ロールズの『正義論』に従っても、機会平等は結果平等より社会正義に近い。

いかなる社会においても効率と所得分配との関係に注意を払うべきである。経済学者が「平等」(結果平等)に関心がないというのは経済学の常識に欠ける表現である。経済学者は所得の平等のみ注目すれば、効率を損なう可能性もあると証明しているにすぎない。効率と平等とのバランスをどこでとるかは社会の価値判断に従うもので、経済学では結論が出ていない。所得分配の専門家の統計分析によれば、改革が実施されてから、ジニ係数でみた所得格差は拡大した。この格差の、どこまでが合理的でどこからは合理的でなくなるか、中国が効率と平等の境目(即ち、効率を損なわずに平等性を高める)に達したか、などはより一歩進んだ分析を待たなくてはならない。

我々は相対的所得格差だけでなく、貧困人口の生活水準にも注目しなければならない。「効率と経済成長を追求すれば必ず貧しい人に損害を与え、所得分配格差を拡大してしまう」という見方には根拠がないと、私はここで指摘したい。改革が実施されてから、中国の絶対貧困人口は1978年の2.5億人から現在の2600万人まで減少した。効率の高まりによってもたらされた経済成長がなければ、これは不可能であった。31省、市、自治区の分析を通し、私は以下のことを発見した。通常、一人当たりGDPが高く経済成長が速くなるほど、その地区の貧困人口の比例は低くなり、都市部のジニ係数も低くなる。つまり、鄧小平氏の言葉を借りれば、「発展は貧困問題を解決し、所得格差を縮小するための不変の真理である」ということだ。

特に、中国の絶対貧困人口は農村部に集中しているため、農民の所得増加が相対的に緩慢であることがジニ係数を上昇させる重要な原因となっている。所得格差を縮小するために政府が実施した政策により企業家が競争力を向上させる積極性をなくしたら、数億の農村労働力が都市部に移り、就職することもできなくなる。そうなると、絶対貧困問題を解決することも、所得格差を縮小することもできない。

中国は地区ごとの発展のレベルにおける格差が非常に大きい。統計によると、各省のジニ係数は概ね0.4以下で、全国水準より低い。外国の学者の研究によれば、全国のジニ係数の上昇の30%-50%は地区格差の拡大に原因がある。したがって、所得格差を縮小するという角度から見れば、地区格差の縮小は重要な目標である。しかし、地区格差の原因は体制の格差、企業家の素質の格差にあることを認識しなければならない。相対的に遅れている地区は基本的に体制改革の最も遅れている地区、企業家が起業するための制度環境が最も劣悪な地区、国有経済がまだ主導地位にある地区である。エール大学の陳志武教授は多くの国の実証研究を通じて、中央政府による財政移転策は地区格差を解決することができず、むしろ、政府支出比例が高い国ほど、地区格差の大きい国であると示している。

所得格差の拡大は民間企業の成長によってもたらされたのだから、格差を縮小する方法は国有企業を発展させることにあると考える人もいる。しかし31省、市、自治区のデータを分析したところ、平均的には、都市部の就業者のなかで国有企業の就業者の比例が高いほど、当該地区のジニ係数が高いことが分かった。つまり、国有企業を発展させる方法では所得分配問題は解決できないことを意味する。都市部における大量のレイオフ者の存在は、国有企業の効率の悪さによってもたらされた結果である。

いかなる国でも、政府は一定の財政移転で所得格差の縮小を図る。しかし、政府のこのような措置は適切かつ丹念に計画されたものでなければならない。政府支出の割合を拡大すれば、所得格差の縮小に役立つと思ってはならない。統計データによれば、政府の支出がGDPに占める比例が高い地区ほど、逆に、ジニ係数も高くなっている。

「一部の人を先に豊かにさせる」ことと「共に豊かになる」ことが対立してはならない。また共に豊かになることは分配を均等に行うことと同じであってはならない。差別化がなければ、共に豊かになることはできない。ノーベル経済学賞受賞者のマーリーズ(James Mirrlees)教授は35年前の研究で次のことを明らかにしている。徴税面において政府が直面する一番大きなハードルは個人の能力に関する情報を獲得できないことである。情報が制限されると、いかなる政策を実施しても結果の平等は実現しない。なぜならば、所得税を高くすれば、能力の高い人は仕事を減らすことでその能力を隠すことができるからである。その結果、貨幣で計算した所得が平等であっても、能力の違う人の生活水準が同じにはならない。更に言えば、我々が社会における最も悲惨なグループへの福祉を最大化しようとしても、平均主義は最良の選択肢にはならないのである。

本当に貧しい人のことを考えるなら、機会平等(即ち効率)を優先しなければならない。例えば、貧しい人に教育を受ける機会をより多く与えるなどである。ノーベル賞経済学賞受賞者のジェームズ・ヘックマン教授などの学者らの最近の研究によると、中国では、教育水準が家庭の所得水準を決定する最も重要な因素の一つとなっている。一人の農村出身の大学生がその一家を貧しい状態から脱出させることができるのだ。しかし、非常に残念なことに、最近の教育体制改革をめぐる論争では、学費の上昇が貧しい人々にもたらした負担だけが注目を集めてしまい、大学生の数の増加が一般の人々にもたらした教育機会の拡大は無視された。1978年、大学の新入生定員数は全国で40万人しかいなかったが、2005年になると、この数字は504万人になり、11倍強になった。低所得階層にとって、学費が安いが入学の機会がないよりも、学費が高くても入学の機会があったほうがよいと私は信じる。もちろん、政府と社会は貧困学生問題の解決に責任を負う。教育費が増えれば、政府の財政支出も増えることになる。しかし、民間企業が大量な税金を納めてくれなければ、政府の収入はどこからやってくるのだろうか。

2006年9月8日掲載

出所

経済観察報2006年3月11日
※和訳の掲載にあたり先方の許可を頂いている。

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2006年9月8日掲載

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