中国経済新論:中国経済学

改革の中で経済理論の研究を発展させよ
― 改革理論と実践が経済学者に与えた示唆 ―

樊綱
中国経済改革研究基金会国民経済研究所所長

中国経済改革の20年()は、当然、経済理論と経済政策研究が大いに発展した20年でもある。言うまでもなく、この20年は中国の経済学研究の発展が最も速く、最も豊富な結果がもたらされた20年間である。思想の解放は、まず経済学の解放と現代経済学の「導入」、そして経済学教育のあり方(海外留学を含む)及び教育内容の変革をもたらしている。現代経済学の訓練を受けた多くの中国の経済学者が成長し、多くの研究成果を発表することを通じて、中国の経済改革と経済発展に、独自の貢献を与えた。しかも、彼らが努力した結果、現在、経済学はさらに社会へと普及するようになった。1978年に初めて経済学部に進学した経済学者である私たちは非常に「幸せな世代」である。その理由は、われわれが、日々激動する中で興奮を禁じえないような様々な問題に直面していたことと、20年をかけて、社会の多くの人々が経済に興味を持つようになったことだけではない。20年後の今日になって、経済学が最も自由に議論ができ、しかも最も開放された研究領域にまで発展したことも、その大きな理由の一つである。われわれは一層思想を解放し、様々な制限をさらに突破しなければならないが、思想解放の光が経済研究に対して、最初に明るさをもたらし、その後の経済学界の議論が、従来の制限を大いに突き破ったのである。

この20年間の経済研究の発展を振り返ってみると、経済研究に取り組んでいるわれわれにとって、記録すべき貴重な啓示は何か。筆者の感想は次の三点にまとめられる。

第一に、理論とロジックの力を固く信じることである。客観的な原理は決して人の意思によって影響されることなく、常に自らの道のりを切り開こうとしている。

これは、ごく平凡な話であるように聞こえるが、一部の経済学者を含めて、多くの人々が、それを疑問に思い、あるいは経済学の原理が他のところで通用したとしても、「われわれはどうせ違う」とか、「中国の事情はあくまでも特色を持っている」といった議論を、信じる(希望する?)がゆえに、理論の一貫性あるいは自分の行為の一貫性まで喪失している。

例えば、マルクスやハイエク、マーシャルやケインズ、コースとノース、あらゆる経済学者は所有権関係が最も重要であると認めている。例えば、「所有権関係はあらゆる経済関係で最も重要かつ決定的な役割を果たしている」とマルクスは語っていた。しかし、いまだに一部の人々は、所有権の重要性を無視し、技術と管理こそ、最も重要で、所有権関係の改革を抜きに中国社会の様々な体制による弊害を乗り越えられると信じている。結局、あらゆる手段を講じても、失敗した後に、再び所有権の重要性を認めざるをえなかったのである。利益関係の齟齬によって所有権関係は一時的に変えられない場合があるかもしれない。しかし、経済問題の根源が果たしてここにあるのか、早かれ遅かれ、必ず変えなければならないのかは、全く別の問題である。実践の場でしばらくの間、取り上げることが無理であったとしても、所有権の問題は理論上で常に論じられなければならない。さもなければ、それは理論家の責任問題である。

この20年の実践によって証明されているように、人々の意思、そして理論家達の希望に関わらず、さらに現実でどのような障碍が存在するにしても、結局、主導的な形をとるか、それとも「せざるを得ない」という状況で受身的な形をとるかは別として、所有権改革は必ず行われる。一部の分野では、このような改革の実施がいまだに難しいからといって、経済学者が懸命に改革しない理由を求める必要がない。筆者は、早かれ遅かれ人の意思に関係なく、所有権改革が必ず行われると確信してきた。理論家がすべきことは、理論分析に基づいて、物事の法則を「事前に」提示することであり、事後的に、絶えず自らの理論を修正することではない。これにより、人々がこれから発生する事態に備えることができる。

第二に、現実問題を理解するには、「政治経済学」がとりわけ重要な役割を果たしている。

市場の均衡、資源の有効な配分を基本内容とする現代経済学(ミクロ経済学とマクロ経済学をその主体部分とする)は、市場経済の運営メカニズムを主に分析し、与えられた経済制度と利益構造という条件の中で、資源配分をいかにして最も高い効率で実現できるのかを研究する学問である。人々は、こうした経済理論を使って、経済問題を深め、またそれを頼りに中国経済の処方箋を求めようとしているが、しかし、現実において、いわゆる効率的な資源配分が、非常に実行しにくいことに気づいたのである。その原因は、人々の思想が「十分に解放されなかった」からではなく、むしろ異なる人々、異なる利益集団が自らの既得権益を守ろうとしていたことに由来しているのである。制度変遷の問題は、本質的に個人の間の取引という問題ではなく、むしろ「公共選択」の問題にある(制度自身が一つの「公共財」である)。従って、現代経済学でのミクロ経済学、マクロ経済学といった内容だけを把握しても、必ずしもわれわれが直面している問題、すなわち利益関係の再築と体制改革そのものの解決にはつながらないのである。

われわれは、各利益集団間の利益の衝突、そして体制改革の過程での対立する利害関係に注意を払い、さらにそれを基礎にして進行可能な改革の道のりを探さなければならない。まさしくこれが原因で、近年、公共選択理論を主な内容とする現代政治経済学、そしてそれと関連している制度経済学及び移行経済学の分野で、非常に多くの研究が行われたのである。現代経済学の重要な一部であるこれらの学問は、現在のわれわれにとって、最も重要な部分であると言っても過言ではない。

第三に、経済学は各種の利益の衝突を研究しているが、経済学者としては、自らの研究活動と政策提言の相対的な独立性、「客観性」、そして各種の勢力に左右されないように、できるだけ「利益からの中立」を実現すべきである。

私は市場経済の発展にあわせて経済学者の間でも分業がなされるべきだと主張していた。すなわち、一部の経済学者が「官庁エコノミスト」や「企業エコノミスト」として、各種の利益ニーズに十分配慮を払い、特定の利益集団の代表あるいは代弁者を務めるという提案である(法律上、被告人のために弁護する専門家がいれば、原告のために弁護するものもいるように)。しかし、その一方で、私は社会では、多くの経済学者ができる限り(「完全に」というのは難しいが)利益衝突を乗り越え、各種の利益集団が経済、社会での利益均衡を実現するために「仲裁人」(ブキャナンの用語)として、各種の利益の間にある「均衡」の実現に努めることが必要であると、一貫して主張してきた。そのために、あらゆる集団(政府も含む)から独立し、事実と各種の利益衝突に対する客観的な分析を行い、その中から衝突を解決できる可能な改革法案と経済政策を見つけ出さなければならない。結局、相対的に独立した研究を行い、独立に思考する経済学者(「アカテミックな経済学者」を含む)と独立した「シンクタンク」によって、相対的に客観的な研究が行われることが要請される。

社会は学者の観点の背後に隠された利益傾向に十分に警戒する必要がある。そして、学者として自らの政策提言が果たしてある利益(自らのもの、あるいは自分と関係している他人の利益)に支配されているかどうかを、自覚的に観察し、なるべく利益関係に左右されずに、自らの独立性と客観性をできるだけ守る必要もある。株取引に関係しない一部の経済学者が、株式市場の趨勢について客観的に分析を行い、「第三者」としての忠告を行うべきであるということはその一例である。市場経済体制の形成及び利益関係の多元化に伴い、このような問題はますます深刻さを増していく。学者達はそれに対して、注意を払うべきである。

20年間という歳月は、歴史の大河の中で、そして中国の経済改革と発展の全過程の中で見れば、極めて短い一節でしかない。しかし、中国の改革は経済学者に活躍の舞台だけではなく、中国経済学の発展に対する肥沃な土壌を提供したのである。なすべきことはまだ非常に多い。そして、これは研究者達に与えられた挑戦でもある。現在以上の成果を成し遂げることができるかどうかは、われわれ自らの視野を絶えず拡大することと、研究方法を絶えず向上させることにかかっているのである。

2003年12月8日掲載

脚注
  • ^ この原稿は1998年6月に発表されたものである
出所

『歩進風険的世界』(広東経済出版社、1999年)

2003年12月8日掲載

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