中国経済新論:中国経済学

経済学の方法論としての個人主義と集団主義

張曙光
天則経済研究所所長

経済学の方法論としての個人主義と集団主義は、経済分析の基本である。あらゆる独立した科学体系の成り立ちには、研究対象が明白であるのだけではなく、基本分析の単位がはっきりとしていること―物理学でいえば原子、化学でいえば分子、生物学でいえば細胞と遺伝子など―が、すべての完全な科学体系の基礎をなしている。

基本分析の単位は、恣意的にではなく、その分野及びその研究対象の性質によって選ばれ、定められる。経済学は人類の経済行為と活動を対象に研究する科学であり、人々の経済行為と活動がいくつもの選択を経て、多面的に進行する過程である。ここで1つの問題が生じる。「このような経済行為と活動は、結局、個人を基礎とした理論なのか、それとも、集団あるいは国家を基本単位としたものなのだろうか」。個人主義的方法論によると、最も適切かつ最も有効な社会科学は、個体現象あるいはその過程に対する研究であるのに対して、集団主義的方法論の観点から見ると、最も適切かつ有効な社会科学は集団現象あるいはその過程に対する研究である。西洋的な正統経済学は、個人主義的方法論を基礎としているのに対して、マルクス主義経済学と伝統的な社会主義経済学は、集団主義的方法論がその特徴となっている。表面上、2つの方法論は、激しく対立し、殆ど調和不可能であるように思われる。また、方法論の歴史もそれを示唆しているが、実際にはそうではない。伝統的経済学の方法論は、まさしくこの点において、過ちを犯したのである。

経済学の方法論としての個人主義の伝統は、アダム・スミスの『国富論』によって築き上げられた。ハイエクは『個人主義と経済秩序』、そしてミ-ゼスは著書『人類行為』の中で、個人主義についてさらに系統的な論証を行った。西洋正統経済学はまさしくこの方法論の産物である。方法論的な思想の1つとして、その基本的な内容は以下のようになっている。

1.個人は、経済活動の根源的要素であり、社会経済活動の主体でもある。経済行為の担い手でありながら、その結果の受け手でもある。あらゆる経済行為は、個人によって行われたものである以上、経済行為の性質は、その主体である個人とその影響を受ける人々によって決められる。従って、個人的行為と個人的利益は、経済分析の出発点かつ規範化の基礎である。

2.個人による自己利益の追求は経済活動の原動力であり、経済利益を実現する唯一の方法である。人の社会性は、人と人同士の関係の中で現れ、社会的分業における協力や集団活動とその意義は、集団活動に参加する個人によって決められる。社会現象自体は、個人がそれぞれ自己利益を追求した総合的な結果である。従って、社会現象を認識し理解するには、個人的活動に照らし合わせる必要がある。

3.個人は社会的分業の最小かつ最も有効な単位であり、自己利益の代表者として最適である。個人の行為と選択は合理性に基づくものであり、集団の行為と集団の選択は、背後で個人がいつも作用しており、しかも殆ど個人の利益と動機づけによって解釈される。このため、個人は、経済における意思決定の基礎であり、経済分析の基本単位でもある。

経済学の方法論としての集団主義は、最初に国家主義を信仰する経済学者たちによって提起されたものであり、リストと彼の著書『政治経済学の国民体系』がその主な代表である。その後、多くの経済学者が集団主義的方法論を受け入れ、さらにそれを運用しようとしている。彼らは、さまざまな角度から個人主義的方法論を批判したが、その最も顕著な例はマルクスの階級分析である。従来の制度経済学の分析方法もこれに属し、マルクス経済学と制度経済学両者はともに大きな成果と貢献を生み出した。しかしこの経緯に対する明白かつ系統的な論述は殆ど行われていない。集団主義的な経済の方法論の基本的な内容は、以下のようになる。

1.人間の性質は、社会関係の全体を反映している。個人は、所属している一定の集団や制度環境の中で生きる以上、その嗜好や行為は、他人、つまり彼が所属している集団や階級だけではなく、彼を取りまく制度にも大きく制限される。従って、経済分析と規範化の基礎は、個人ではなく、階級、民族、国家、文明などの社会集団になる。

2.個人の経済行為は環境に適応した結果である。個人的な目標の実現は集団の目標の実現に依存し、個人の発展も社会の発展に依存している。従って、集団行動の結果から個人的行為を認識し、理解すべきであり、その逆ではない。

3.個人的利益の追求は、経済発展の主要な推進力ではない。利他主義は社会発展にとっての重要な要素である。文化伝統、国民心理、思考方式、価値観念など、これらのあらゆる要素が、経済発展に大きな影響を与えるが、その中でも、制度こそは最も重要な要素である。このため、経済分析の最適な対象は、個人ではなく、社会の集団であるべきである。

以上のように、方法論としての個人主義と集団主義は、一見お互いに完全に対立し、調和不可能のように見えるが、実際には、両者はお互いに補完的であるばかりか、影響しあい、統一する可能性も残されている。

1.経済方法論についての論争の中では、個人主義的観点の論者は、集団主義はひたすら集団かつ階級の利益だけを考慮し、個人の嗜好を完全に無視したと批判している。これに対して、集団主義者は、個人主義的観点における個人は、もはや孤立した抽象的な存在にすぎないと、個人主義の主張を批判している。実際には、このような論争は、現実とかけ離れている。

個人主義の方法論を採用した多くの経済学者たちは、利他主義と集団行為の重要な意義と作用を決して否定していない。『道徳感情論』において、アダム・スミスは人類の「共感」という感情について、かなり突っ込んで論証していた。『国富論』の本当の目的は、社会全体の富や厚生をいかに増大するかという一点に集中している。利己原則を経済学の第一原則としたエッジワースは、利他主義経済学に対しても、非常に大きな貢献を行った。彼によれば、純粋な利己主義者と純粋な博愛主義者という2つの対極の間には、無数の状態が存在しているという。ミ-ゼスとハイエクは最も強く個人主義と自由主義を主張している経済学者であるが、彼らは人類の協力関係について、独自の見解を展開していた。例えば、ミ-ゼスによると、交換は分業より本質的な概念であり、その協力の意味は交換よりさらに広く、社会は分業を行った人々の共同体であり、人間同士の分業と協力を調和するルールは制度である、という。ハイエクによると、協力の秩序は、「作られたもの」あるいは「人為」によるものではなく、「自発的」あるいは「伝統」に基づくものである。人類の本能あるいは「自然道徳」には、協力の拡張を阻止しようとする傾向が常にある。協力の秩序は、より多くの人々に拡張すべきであり、経済と社会の発展過程は協力秩序の拡張過程そのものである、という。

同様に、集団主義的方法論を採用した多くの経済学者たちも、個人の選択や合理的行動に対して、充分な肯定を行った。マルクスは、階級分析の方法の運用に最も成功したが、同時に、「一人一人の自由発展があらゆる人の自由発展の条件である」と、明確に指摘した。制度経済学者は集団主義的方法論を維持し、発展させたが、彼らも最大化の基本的な仮定を守っていた。このように、個人主義的方法論と集団主義的方法論は、互いに対立しているのではなく、むしろ補完的である。お互いに対立しているのは、経済学者の情熱、過激さと価値判断によるものである。

2.人類の経済行為と活動は、いくつもの選択の過程であり、その分析には、異なるレベルがある。個人のレベルは相対的に簡単で把握しやすい。しかし、集団的観点からみると、階級、階層、民族、国家あるいは文化と文明などさまざまな要素が含まれている。個人主義的方法論と集団主義的方法論は、それぞれの対応範囲と活動領域を持っているが、同時にそれぞれの欠点と限界も持っている。従って、この問題の鍵となるのは、決して1つの方法論をいかに一貫して支持するかということではなく、むしろそれぞれの対応範囲と活動領域をいかに明確にするかである。ある方法論は特定の範囲と領域内なら、有効であるが、その限界を超えたら別の方法論の採用を考慮すべきである。これだけではなく、仮にある活動の対応範囲と活動領域においても、1つだけの方法論に執着する必要はなく、別の方法論での対応を視野に入れなければならない。例えば、新古典派経済学は、個人主義的方法論を主張し、支持しているが、マクロ経済分析の中では、総量分析的な集団的な方法論を使用している。同様に、従来の制度経済学は、主に集団主義的方法論を運用しているが、制度分析を行う時、個人主義的方法論と集団主義的方法論両者を同時に運用すべきと、ますます多くの人がこう主張している。

3.個人主義的方法論と集団主義的方法論は、互いに対立ではなく、補完的な関係である以上、両者を統一させる可能性が必ず存在している。これは方法論での一元論を堅持する前提であり、経済の方法論を発展させるためにも、必要である。方法論における個人主義と集団主義との論争は、経済学者らは人間の行動に対する統一した解釈の基礎をいまだに発見していないということを物語っているのではないか。社会生物学の理論によると、自然選択にとって、最も適切な単位は個体や群体ではなく、遺伝子である。そして、利己の遺伝子から、生物個体の利己行為と利他行為に対して、統一した解釈をした。これは、経済学の問題解決に、何か啓蒙を与えるものではなかろうか。実は、利己心と共感は決してお互いに融和できない行為の動機ではなく、両者は人々の心の中に同時に存在し、ともに人々の行為を支配している。貯蓄、投資、消費、制度革新などを含む人類のあらゆる経済行為と経済活動は、個人が選択し、そして完成したものであり、集団は選択を行っていない。いわゆる公共選択や集団行動というのは、結局個人を基礎とした共同選択と共同意思決定であり、個人間の契約と契約関係そのものである。利益構造論の観点から見ると、人々は、利己、利他などの行為動機及び物質的、感情的、精神的な利益を総合的に判断した上で、意志決定を行うわけである。これらすべては、思考能力を持つ行為の主体である個人が与えられた条件で、心の中で完成した過程である。このため、個人は主体であり、個人の感銘が標準となるのである。個人主義的方法論と集団主義的方法論をそれぞれ主張する経済学者は、お互いに意見が対立しているが、個人の合理性に対する仮説に対して一致しているのは、まさしくこの根本的な原因によるものである。この点からいうと、個人主義的方法論は、より基礎的な性質を持っているかもしれない。

方法論の問題では、伝統的(社会主義)経済学の問題と欠点は明らかである。伝統的経済学において、利己と利他、個人利益と社会利益は完全に矛盾している対立的存在であるため、方法論では、個人主義と集団主義はお互いに排斥し、両者を統一させる基礎もなければ、お互いに結合する可能性も全くなく、結局両者のどちらかを選択せざるをえない。伝統的経済学は集団的方法論を尊んで、堅持している。そして、階級分析の方法を主張し、強調している。この点は、人と人の関係を研究対象にし、制度分析を主な内容とする経済学にとって、間違っているわけではない。しかし、階級分析こそが経済学における科学的な分析方法であると判断する以上、経済分析での個人が抽象的、独立的なものとしか見なされていない。さらに、個人の利益と動機を完全に無視して階級分析をしようとする考え方は、根本から間違っている。これだけではなく、伝統的経済学は適応範囲と限界の存在を無視している。国家を基本単位とした方法論は、唯一であるだけではなく、万能なものである。国家の利益は最高利益であり、国家の選択は最も有効な選択であり、そして国家の意思決定は最も科学的な意思決定とみなされている。このため、貯蓄や投資、技術革新と制度革新、生産活動と経済活動は必ず国家の支配の下に置かれ、国家の意思決定によって決められる。消費、生活、そして享楽にしても、集団によって、組織化されかつコントロールされなければならない。従って、生活と行動の集団化も当然の選択となる。今これを振り返ると、滑稽にみえるが、しかし伝統的経済学の理論に完全一致している。結局、伝統的経済学の中では、個人の役割がもはや何も残されていないのである。

2001年11月19日掲載

出所

『制度・主体・行為―伝統社会主義経済学に対する反省』、中国財政経済出版社、1999年。原文は中国語、和文の掲載に当たって、著者の許可を頂いている。

2001年11月19日掲載

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