Special Report

TPP時代のWTO―第8回閣僚会議を終えて―

川瀬 剛志
ファカルティフェロー

2001年開始のドーハラウンドは度重なる難局を乗り越えてちょうど10年を数え、昨年12月の閣僚会議を迎えたが、遂に成果の一括受諾を目指す交渉の行き詰まりを総意として認めざるを得なくなった。以下、その一節を引用しておく(注1)。

1. Ministers deeply regret that, despite full engagement and intensified efforts to conclude the Doha Development Agenda single undertaking since the last Ministerial Conference, the negotiations are at an impasse.

2. Ministers acknowledge that there are significantly different perspectives on the possible results that Members can achieve in certain areas of the single undertaking. In this context, it is unlikely that all elements of the Doha Development Round could be concluded simultaneously in the near future.

見てのとおり、あくまで近い将来の一括合意のみを諦めた格好で、この引用の後のパラグラフでは交渉継続を訴えているが、一部有力加盟国の本音は「誰も言いたがらないが、猫は猫(=失敗は失敗)」(ルルーシュ仏貿易担当相)であろう(注2)。今後各加盟国の関心は地域経済統合(WTOでは地域貿易協定(regional trade agreement)―RTAと称する)に移行することは明らかだが、我が国についても、TPPはもとより、その前哨戦となる日豪、研究段階が終了した日中韓、更には日EUと、EPAの交渉日程が押し迫っている。

ラウンドの行き詰まりを受けて、WTOサービス部長マムドゥ氏は、今まで現行協定プラスαのための交渉終結に加盟国は「取り憑かれていた(completely obsessed)」のであって、既存システムの機能、つまり執行・監視に重点を移すべきだと語る。また、米国にも同様の意識が芽生え始めているという(注3)。他方、これをWTOの「地盤沈下」と評する意見があるが(注4)、果たしてWTOルールや制度の権威や正統性は損なわれたのだろうか。

ドーハラウンドの行き詰まりとTPP交渉はWTOの存在意義を揺るがすものではない

その答は拙著で述べたように、新たなルール形成の政治的難航は、WTOの司法・行政的機能に悪影響を与えるものではないし、またそうあってはならない(注5)。いずれのWTO加盟国もWTOを代替できるだけの機能や範囲(分野・当事国)を有するRTAを締結することはない以上、現行WTOルールにより達成し得た自由化を損なうことは誰の利益にもならないからである。

1) 米・EU・中の三大経済、BRICSをカバーするRTAは当面見込めない

三大WTO加盟国間のRTAは近い将来締結される見込みはなく、特に激化する米中通商摩擦のガバナンスは当面WTOに依存するしかない。この点は中国以外のBRICS諸国との関係も同様であり、たとえばEUはブラジルとFTA締結を模索する一方、綿花事件など従来から紛争が少なくない米伯関係は、FTAAの頓挫により当面WTO以外に両国関係を規律するレジームがない。今回ロシアがこの枠組みに参加したことで、この意味でのWTOの存在意義はより高まったといえる。よって、引き続きこれら大国はWTOの重要性・正統性を支持していかざるを得ない。

2) 途上国にとってもWTOは権益擁護の数少ないツールである

市場としての魅力に乏しい小規模の途上国はそもそもRTA締結のオファーを受ける機会が少なく、我が国各紙も今回の閣僚会議を受けて経済グローバル化からこれらの国々が取り残されることを懸念する論調を紹介する(注6)。彼らが貿易・投資自由化の新しいスキームから取り残されることは大いに問題だが、現行のWTOルールの正統性およびWTOによるルール執行機能の低下は、加えて既得の利益すら失うことを意味する。よって、途上国もまたWTOの威信低下を懸念すべき立場にある。

3) RTAには強力な通商紛争解決および履行監視機構がない

殆どのRTAの紛争解決手続はWTOのような自動性と執行力を備えておらず、未だに殆どの通商紛争はWTOに持ち込まれている。TPPでもこの点に大きな変化は期待できない。現時点での分野別交渉状況によれば、P4協定や米国締結のFTA以上の手続は検討されておらず、我が国も高い関心を払っていない(注7)。元WTO上級委員のバッカスは、WTOの執行力を享受させんがためにTPPをWTO枠内の複数国間協定として締結することを提言するが(注8)、さすがにこれは極論である。実際はTPP・WTO間で重複する規律に関する紛争は、今後ともWTOに付託することが前提なのだろう。

また、貿易政策検討制度(TPRM)の蓄積に基づく多国間監視が2008年の金融危機後の保護主義を有効に防いだことは、記憶に新しい。今回の閣僚会議でも、先進主要23カ国・地域(含・EU全域)は反保護主義の声明を採択した(注9)。もっとも、2011年後半は保護主義隆盛の懸念が再燃しており、中国、インドなど新興国を含む100あまりの国がこの声明に加わらなかったことの意味は無視できない(注10)。にもかかわらず、閣僚会議全体としては金融危機以降の監視業務を多としてその継続を決定しており(注11)、全体として反保護主義の機運が低下したとは思われない。また、今回の閣僚会合では、事務局はワンストップで各国の通商障壁を検索できる新たな加盟国政府向けデータベース(I-TIP)の一般公開を発表しており(注12)、通商障壁の透明性はいっそう向上することが期待される。

EUのような例外はあるにせよ、通常RTAは行政組織を持たず、情報収集・監視機構としての役割を期待できない。TPPも同様で、特に日米ともに極めて財政事情が悪化している現在、資金を拠出して国際機関を新設することは非現実的で、議論すらない。

英Financial Times の国際経済編集長を務めるビーティーは、筆者と同じく第8回閣僚会議の結果を受けてもなお現行ルールと紛争解決手続の意義を評価する一方、金融危機後は数量制限のようにあからさまではなく「分かりにくい保護主義(murky protectionism)」が出現し、これらにWTOの規律が及びにくいと懸念する(注13)。しかし実際には先の保護主義監視報告書はこうした措置も広く目配りしており、更に米中のボーキサイト等原材料輸出規制事件のように、ビーティーが「分かりにくい保護主義」の一例とした措置についても、WTOパネルによる協定違反が認定されている(注14)。完璧ではないが、保護主義の防波堤としてのWTOの役割は決定的だ。

4) RTAの実体的規律が及ばない分野がある

通常RTAは投資、環境、ビジネス整備など、WTOより広い範囲の実体規律を備えるが、反対にWTOの規律は及ぶが、RTAに規律が及びにくい分野がある。典型的には貿易救済措置と補助金である。まず貿易救済措置については、通商交渉では貿易・投資の自由化の推進とその弊害(農業衰退や産業空洞化)ばかりがクローズアップされるが、他方でWTOではダンピング防止税やセーフガードといった国内産業保護のツールが整備されている。これらは基本的に通商制限的である以上、RTA内では少なくともWTO以上の高い保護を認めるルールを設けることは許されない(注15)。RTAであり得る貿易救済措置に関する規律は、むしろその発動をWTOルール以上に厳しく制約する規律強化であろう。

TPP交渉での貿易救済措置に関する議論は今のところ限定的で、せいぜいダンピング防止税調査の事前通知程度にとどまるとされる(注16)。米国は、我が国がダンピング防止税の規律強化をTPPで提起することを警戒しているといわれ、ゼロイング紛争やドーハラウンドのルール交渉における日米の対立構造を見ても、不用意にこの問題を持ち込めばTPP交渉は頓挫するとの危惧がある(注17)。

補助金についても、特にリーマンショック後の財政出動の増大で補助金規律の重要性が再認識されるにもかからず、RTAでの議論はほとんど確認されない。一般に、RTAで農産物・鉱工業製品にかかわらず、WTOルールよりも厳しい補助金規律を設けることは域外国の「ただ乗り」を許すため、規律の実効性に乏しいからであろう。たとえばTPPで航空機補助金規律に合意しても、リージョナルジェットならブラジル、大型機ならEUを喜ばせるだけで、それぞれ日米が割を食う。したがって、TPPでも米国が国有企業や漁業など個別分野の補助金規律には関心を寄せるが(注18)、それ以上の議論はない。

WTOは立法しないわけでも、できないわけでもない

もちろんのこと、以上の指摘はWTOが今後このまま何の立法活動をしなくてもよいことを示すわけではない。議長総括も一括受諾方式に代替する交渉のあり方を議論すべきことを明記しており、可能な分野から合意するいわゆる早期収穫(early harvest)に移行すべきことを示唆している。

更に、今回、一括受諾の対象外で政府調達協定の改定に成功したことは、利害を同じくする先進国間では、分野によっては十分に合意形成が可能であることを示した。非公式ながら、既に米国は同じく一括受諾の対象外とする複数国間(plurilateral)協定をサービス分野で締結することを提唱し、日、豪、EUなどがこれを支持する。こうした複数国間協定の可能性については、RIETIの研究成果として公表された政策提言でも既に検討されているところ(注19)、詳細はそちらに譲りたい。

しかし、他方でこうした複数国間協定の実現には課題も多い。まず、これに反対する中国、インドほか新興国を含まない複数国間サービス合意の意義は、十分な市場開放に資しない点で疑問視される。また、支持国も情報技術協定(ITA)のように交渉結果を無差別に締約国以外の全WTO加盟国に適用するのか、あるいは旧東京ラウンド協定のように協定締約国相互においてのみ利益を均霑するのかにつき、意見が分かれている(注20)。特に締約国以外のWTO加盟国の理解なく東京ラウンド型の協定を締結した場合、RTAの形態をとらないかぎり、一部WTO加盟国を優遇することは最恵国待遇義務との抵触を生じる危惧を残す。

誤ったメッセージは控え、今こそWTOの重要性を訴えよう

ある社説は、今回のドーハラウンドの行き詰まりは「パラダイムシフト」であり、かつての自由貿易を前提とした競争力勝負の経済から今後は互恵的な少数国間での貿易関係を深める陣取り合戦の時代に入った、TPP実現に全力を傾けよう、と呼びかける(注21)。TPPに前向きな姿勢はともかく、このような発想には首を傾げざるを得ない。経産省幹部が指摘するように、広く自国企業が海外進出し、多国籍的にサプライ・チェーンを構築する我が国は、マルチを最も必要とする国の1つだからだ(注22)。

更に、我が国を取り巻くRTAの交渉環境も依然として前途多難だ。日豪では農産物自由化のハードルは高く、日中韓も韓国の消極的姿勢が指摘され、未だTPPも本格交渉開始までに準備交渉、国内政局を乗り切る必要がある(注23)。リソースの制約による限界は仕方ないにせよ、かかる状況で一般的方針として地域主義に全面的に傾注することは、極めて危うい。

この点、枝野経産大臣は「世界経済が困難な状況にある今こそ、多角的貿易体制の強化が必要」と述べているが(注24)、極めて妥当な時局認識である。政府与党はもとより、我が国マスコミも政治合意の決裂によるWTOの威信や存在意義の低下をいたずらに喧伝することなく、それでもなおWTOが有する意義を今こそ見直すことが必要である。

そもそもTPPのようなメガ・リージョンは、排他的にして競合関係にあるシステムの構築を目的とするのではない。特に投資、サービス、知的財産権など未だWTOが十分カバーできない分野で次世代の通商ルールを先取りし、更に地域間相互に連携しつつ、WTOに収斂することを終局的な目的とする(注25)。これが躓きの石(Stumbling Blocks)ではなく積み上げの石(Building Blocks)となるべきRTA本来の姿であり、その受け皿であるWTOの軽視は本末転倒なのである。

2012年1月23日
脚注
  1. ^ Eighth Ministerial Conference: Chairman's Concluding Remarks, WT/MIN(11)/11 (Dec. 11, 2011).
  2. ^ 朝日新聞2011年12月19日朝刊1面。
  3. ^ Inside U.S. Trade, Dec. 23, 2011, pp.26-27.
  4. ^ 毎日新聞2011年12月18日朝刊4面。
  5. ^ 川瀬剛志「ルール執行機関としてのWTO」『グローバル化と国際経済戦略(経済政策分析のフロンティア・第3巻)』第10章(藤田昌久、若杉隆平編、2011)。
  6. ^ 静岡新聞2011年12月18日朝刊18面、日経新聞2011年12月18日朝刊5面、朝日新聞2011年12月19日朝刊3面、神戸新聞2011年12月22日朝刊5面。
  7. ^ 「TPP協定交渉の分野別現状」(内閣府ほか、2011年10月)75-76頁 http://www.npu.go.jp/policy/policy08/pdf/20111014/20111021_1.pdf
  8. ^ James Bacchus, "Marry the TPP to the WTO: The World's Most Important Trade Initiative Can Take Advantage of the WTO's Openness and Enforcement," Wall Street Journal (Online), Nov. 13, 2011.
  9. ^ Inside U.S. Trade, Dec. 16, 2011, p.12.
  10. ^ 日経新聞2011年12月18日朝刊5面。
  11. ^ Trade Policy Review Mechanism: Decision of 17 December 2011, WT/L/848 (Dec. 19, 2011).
  12. ^ "WTO Launches New Tool for Accessing Trade Policy Information," Dec. 15, 2011, http://www.wto.org/english/news_e/news11_e/anti_14dec11_e.htm.
  13. ^ Alan Beattie, "Miserly Progress Made; World Trade Negotiations; With the WTO's Decade-Old Doha Round of Talks Stuck in a Standoff Between Rich and Poor Countries, Ways Are Being Sought to Ensure at Least Some Can Agree on Further Measures to Open Their Markets," Financial Times, Dec. 13, 2011.
  14. ^ Panel Report, China - Exportation of Raw Materials, WT/DS394/R, WT/DS395/R, WT/DS398/R (July 05, 2011). 脱稿日現在上訴中。
  15. ^ そもそも、「実質上のすべての貿易」(GATT24条8項)の自由化を求められるRTAにおいて、貿易救済制度を維持してよいかという議論がある。Angela T. Gobbi Estrella & Gary N. Horlick, "Mandatory Abolition of Anti-dumping, Countervailing Duties and Safeguards in Customs Unions and Free Trade Areas Constituted between WTO Members," in Lorand Bartels & Federico Ortino eds., Regional Trade Agreements and the WTO Legal System (2006).
  16. ^ 「分野別現状」前掲注(7)22-24頁。
  17. ^ Inside U.S. Trade, Dec. 23, 2011, p.1. ただし我が国がRTAでこのような規律を指向することが妥当か否かは、議論を要する。むしろ昨今の厳しい経済状況に鑑み、我が国も、こうした正当なWTOの権利である貿易救済措置の積極活用に転じてよい時期に来ているともいえよう。
  18. ^ Inside U.S. Trade, Nov. 18, 2011, pp.9-10; Inside U.S. Trade, Sept. 30, 2011, p.16.
  19. ^ 中富道隆「WTO改革とラウンドの早期終結に向けて」(RIETI、2011)http://www.rieti.go.jp/users/nakatomi-michitaka/policy-recommendation.pdf
  20. ^ Inside U.S. Trade, Dec. 23, 2011, pp.3-4.
  21. ^ 日刊工業新聞2011年12月19日2面。
  22. ^ 毎日新聞2011年12月18日朝刊4面。
  23. ^ 北海道新聞2011年12月13日全道朝刊10面、東京読売新聞2011年12月19日朝刊7面、日経新聞2012年1月1日朝刊19面。
  24. ^ 東京読売新聞2011年12月16日朝刊10面。
  25. ^ 渡邊頼純「TPPとは何か―貿易自由化の地理的・歴史的展開の中での考察」金融財政事情2012年1月12日号。Bacchus, supra note 8.

2012年1月23日掲載