Special Report

外交問題としての自衛隊イラク派遣

添谷 芳秀
ファカルティフェロー

12月9日、小泉内閣は自衛隊イラク派遣の基本計画を閣議決定した。18日には防衛庁長官の下で作成された実施要項が小泉首相によって承認され、19日に石破防衛庁長官が陸海空自衛隊に準備命令を出すとともに、航空自衛隊連絡調整要員に派遣命令を下した。

自衛隊イラク派兵は、政治指導者がどちらの決定を下したとしてもそれぞれに重要な決断であったと思う。それだけに、小泉首相のリーダーシップにはきわめて重いものがあり、派遣理由の国民への説明が重要になる。同時に、反対論にも、反対のための材料を拾い集めるだけの反対論ではなく、イラク情勢をめぐる国際政治をどのように理解し、今後の日本外交をどこに導くのかという根幹からの立論が求められる。

閣議決定後の小泉首相の説明には、3つの大きなポイントがあった。1つは、イラク国民と国際社会を支援することを、憲法の前文を引き合いに出し理念として語ったことである。第2は、派遣後に自衛隊が攻撃を受ける可能性を認めた上で、自衛隊派遣の目的は人道復興支援であり、武力行使ではないことを訴えたことであった。そして第3に、日米同盟の重要生と国際協調主義との両立を強調した。

第2のポイントは、今後の日本の国際安全保障への参加のあり方を左右する重要な論点を含んでいる。事後的に武力行使の状況が予想されても、派遣の目的に武力行使が含まれていなければ、憲法に抵触しないという解釈を実質的に含んでいるからである。

この点、カンボジアと東チモールでの経験が思い起こされる。カンボジア暫定統治機構(UNTAC)に自衛隊を派遣する際の反対論は基本的に憲法論であった。今日振り返って、国際平和協力法の制定が外交論として重要なステップであったことに、もはや大きな異論はないだろう。東チモールの場合には、当初日本政府は、武力行使の事態が予想されることからしり込みし、オーストラリア軍の治安維持活動が成果をあげた後に派遣に踏み切った。

イラク派遣と日本外交の指針との関連を明確に

今回の決定は、武力行使が予想される事態への派遣という意味では普通の国並みになったといえるし、治安維持活動等を明確に目的から除外していることでは戦後日本の枠を出ていない。しかし、それでも、憲法9条を抱える日本として思い切った決断であったことは間違いない。今後、武力行使を目的から排除するのであれば、初期の東チモールのようなケースでも自衛隊の派遣が可能になる先例としての意味を持つことになる。

このように考えると、自衛隊が事後的に武力行使の事態に巻き込まれるか否か、派遣先が危険か安全かという論点は、実質的に外交論として意味を失ったといえるだろう。世論対策は別として、この要素は当初から小泉政権の決断を左右する大きな問題ではなかったのかもしれない。事実、小泉首相の説明では、危険だから人道復興支援に自衛隊を派遣するということが強調された。いうまでもなく、危険か安全かという基準は憲法論として意味を持つのであって、危険だから派遣に反対だという議論の多くは、護憲論以上の意味を持っていない。

小泉首相の説明によれば、今回の政府決定の動機は、憲法の理念に照らした国際協調主義であり、日米同盟であった。いずれももっともな理由である。しかし、重要なのはお題目ではなく、日本外交の指針として、今回のイラク派遣とどういう関連にあるのかを明確にすることだろう。

一般論として、テロは市民社会の極めて脆弱な部分への脅威であるといえる。しかも、国際社会の自由な営みを根底から脅かす。国際協調主義が対応の基本であることは当然であり、必要な場合自衛隊にも重要な役割が果たせることもそのとおりであろう。日米同盟が日本外交の基軸であることも疑いがない。日本に対するテロやミサイルの脅威に備えるためにアメリカとの緊密な協力は不可欠であり、アメリカの世界的なテロとの戦いに日本が協力することも同盟国として当然であろう。

日本の「主体的」とは何か

問題は、日米同盟と国際協調主義が衝突する場合である。この点、9.11テロ後のアフガニスタンにおける多国籍軍への協力まではよかった。米軍主体の軍事力行使に、NATO諸国のみならず、ロシアと中国までもが同意した。しかし、イラク攻撃の場合には異なった。その意味で、ブッシュ政権にとっては連続した戦争ではあっても、日本も含めた国際社会にとって、アフガニスタンとイラクの間には本来大きな溝がある。

今回の小泉内閣の決定は、日米同盟と国際協調主義が衝突するとき、結局は日米同盟を選択せざるを得ないことを示していた。その背景として、日本にフランス、ドイツ、ロシアにとってのEUや国連といった多国間外交の舞台と手段がないことが決定的であったようにも思う。

イラク問題に対する日本の「主体的」対応を唱える議論が「対米追従」を批判する衝動から発しているのだとすれば、その議論は、(単独路線を唱えているのでなければ)国際協調主義ならばどのように「主体的」なのかを説明する必要がある。そこでも、結局のところ、国際安全保障のために自衛隊をどのように活用していくのかという問題を避けることはできないだろう。そして、多国間枠組みであれば自衛隊は安全だということは、論理的にあり得ない。

2003年12月19日

2003年12月19日掲載

この著者の記事