青木昌彦先生追悼コラム

青木時代のRIETIを想う

鶴 光太郎
プログラムディレクター・ファカルティフェロー

手元に黄ばんだ雑誌のコピーがある。めくるとRIETIの所長時代の青木さんが、女性スタッフ、フェローと彼女らの席の近くでにこやかに談笑している。今もウェブ部門に在籍する、谷本桐子さん、熊谷晶子さんの姿もみえる。文藝春秋(2002年12月号)で「日本の顔」として登場された時の一コマだ。これは青木時代のRIETIの象徴的な一コマでもある。

RIETIの最大の革新とは当時にあって非公務員型の独立行政法人を選択したことだ。青木さんが常々おっしゃっていたのは、研究とアドミニストレーションを分離しなければならないということ。研究を行うフェローのみならず、国際コンファレンスやウェブを担当するプロのスタッフも外部からリクルートすることが非公務員型で可能となった。常勤のフェローも多士済々。そこには、多様性の中で新たな結合が生まれイノベーションが起こるというプロセスを青木さんも狙っていたのだと思う。自分とは異なる分野の同僚から刺激をもらったことが懐かしい。

もう1つ、青木さんが強調したのは、組織名で研究成果をだすのではなく、研究は個人が責任を負うこと。これは、青木さんがやはり先頭に立って尽力したウェブサイトによる発信(日英中の3カ国語による運営)と相まって大きなインパクトを与えたと思う。個人名でいろいろなコンテンツが出てくるのは当時の霞ヶ関では驚きと脅威を持って迎えられた。もちろん当初、コンテンツは十分ではなかったが、フェローやスタッフの熱意や活気は相当なもので、「まるで、『焼け跡の闇市』のようだね」とスタッフと笑い合ったのを思い出す。多様性のある組織は得てしてばらばらになりやすい。しかし、当時のRIETIは「これまでにない新しい『場』を霞ヶ関に作りたい」という青木さんの強い思いがRIETIに関わるすべての人に「自分の思い」「ミッション」として共有されていた。「霞ヶ関の奇跡」と言ってもおおげさではないと思う。

青木RIETIは3年で幕を閉じることとなる。短かったのか、長かったのか。今から思えば、その「終わり」は最初から運命付けられていたようにも思える。極度に単純化すれば、「梁山泊は税金では運営できない」、もっと言えば、「美しいものははかない」ということか。経済学的に言えば、「組織におけるイニシアティブとコントロールのトレード・オフ」に行きつく。当時、自分は、RIETIにおける青木モデルは、当時、青木さんが研究対象にしていたシリコンバレー・モデルに近いものではなかったかと考えていた。自分が面白そうだと思った研究者がお互いインタラクトしながら自由に研究し、予想しえないような成果を出していく、まさに、シリコンバレーの企業群を彷彿させる仕組みだ。しかし、そこで問題になるのは、「持続性」であり、それを生み出すための「コントロール」である。青木さんとお付き合いしたことがある人が口々に言うのは誰に対しても同じ目線に立って話されたり、議論してくださることだ。私も「上から目線」というのを感じたことは一度もない。だからこそ、厳然とした上下関係の下で人や組織をコントロールするということはたぶんあまり好きではなかったと思う。

RIETIに来て自分が一番やりたかったことは、青木さんと一緒に比較制度分析を現実の政策に応用すること。それが最後の1年で手掛けた財政改革プロジェクトで実現した。青木さんがメンバーのイニシアティブ、やる気を高める役割とすれば、自分はプロジェクトに規律とコントロールを与える「鬼師範代」の役割。青木さんにはプロジェクトの関係で随分無理難題も申し上げたが全部黙って聞いていただいた。それを思うと今でも心が苦しい。

青木さんは「私の履歴書」の中で、「RIETIにおける三年間を振り返る時、私個人にとっては研究面で時間を無駄にしたのではないか、という思いを今でも完全に拭えない」と書かれた。出版当時は「そうだろうか」と思ったが、それからの青木さんのご研究の進化、病床にあっての論文完成に向けた最後の執念を思うと「青木さん、本当に無駄にしたのかもしれませんね」といわざるを得ない。でも、「青木さんがRIETIにいらっしゃった3年間で作り上げていただいた有形無形のものは、『移りゆく30年』のプロセスにある日本に多大なインパクトを与え続けています」と胸を張っていえる。

青木さんにとっては、RIETIの3年間は、幾度となく繰り返されてきた「未完の知的ベンチャー」の1つに過ぎないであろう。しかし、そこでまかれた多くの「種」はすくすくと育っている。自分もRIETIに呼んでいただいたことが人生の転機であったし、RIETIを経由して別の人生を歩まれ、活躍されている方々も多い。道は分かれても、あの時、みんなで一緒に夜空に輝く「青白い星」をみて、「きれいだね」と語り合ったことを胸の奥でいつまでも大切にしたい。青木さん、ありがとう。

2015年7月22日掲載

2015年7月22日掲載

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