青木昌彦先生追悼コラム

青木昌彦先生から学んだこと:理論と政策

森川 正之
理事・副所長

青木昌彦先生に初めてお目にかかったのは、約30年前、通産省に入省して1年目の1983年、京都で今井賢一先生から紹介していただいた時だった。京都大学経済研究所の教授を務めておられた青木先生の高名は、『企業と市場の模型分析』『分配理論』といった邦文の書籍を通じて存じ上げていたが、難しい理論モデルから想像していたのとは異なり、気さくで洒脱な方という第一印象だった。

その後直接の接点はなかったが、『企業の経済学』(共著)、『日本企業の組織と情報』など先生の書籍が出版される都度、興味を持って読んでいた(正確には理解しようと努力はしていた)。再びお会いしたのは1992年になる。当時、通産省産業構造課の課長補佐をしていた私は、バブル崩壊後の「日本経済の構造改革」という問題設定はされていたものの解決の糸口が見えないテーマに悪戦苦闘していた。来日中だった青木先生を訪ねて御意見を伺うとともに、産業構造審議会で日本の経済システムをどう改革するかというテーマでの御報告を依頼した。青木先生は快くお引き受けくださり、また、ヒントとなる書籍や論文を紹介していただいた。そして、故村上泰亮先生とともに審議会にご出席され、日本企業の構造変化を促すために純粋持株会社制度の導入を提案されるなど、斬新な御報告をしてくださった。

1994年には、通商産業研究所(当時)に短期滞在させて欲しいというお電話を米国からいただいた。当時の上司に当たる小宮隆太郎所長に相談したところ当然ながら大歓迎で、青木先生は研究所に約1カ月滞在された。当時はまだ珍しかったE-mailを活用して仕事をされていたのが印象的だった。また、小宮先生とともに時折ランチをご一緒し、日本経済はどういう産業に比較優位を持っているかといったお話を、比較制度分析の枠組みに基づいて実務者にもわかりやすく説明して下さった。一方、青木先生は若手の学者たちが現実の経済問題に関心が薄いことを懸念しておられ、良い理論構築をするためにはまず新聞を丁寧に読むことが必要だと強調されていた。

青木先生が小宮先生の後を継いで通商産業研究所の所長に就任され、独立行政法人経済産業研究所(RIETI)の青写真を描き、引き続き初代所長としてRIETIの基礎を創っておられた頃は、おそらく多くの関係者にとって記憶の濃い時期だと思うが、私自身は大学に出向したり海外赴任したりしていて、残念ながら交流はなかった。ただ、小宮先生が、仮に青木さんが引き継いでくれるならば大変ありがたいと言っておられたことは明瞭に覚えている。

2002年、海外赴任先から帰国後、経済産業省(METI)の中でもRIETIに関係の深いセクションで働くことになり、青木先生にも御挨拶にうかがい、その後、RIETIで関心のあるテーマの論文発表会があったので参加してみた。今では想像できないことだろうが、一部の研究者の間でMETIの人はRIETI内部の論文発表会には入らないで欲しいという議論があったと聞いた。たしかに独立心旺盛だった初期のRIETIはそういう雰囲気を持っていた。しかし、その数日後、青木先生からランチに誘われ、森川さんのように研究もわかる人たちには積極的に参加してもらいたいという話をいただいた。研究を理解する政策実務者と認めてもらえたようで嬉しかった。

あるとき、青木先生から「RIETIの研究プロジェクトの構成についてどう思いますか」と尋ねられ、「マクロ経済政策の研究が少ない印象がありますね」とお答えしたところ、何カ月か後、「マクロ経済の新しいテーマを立てることにしました」と言われ、財政に関するプロジェクトの構想についてお話しいただいた。私自身がイメージしていた研究内容とは異なっていたが、政策実務者の声にもしっかり耳を傾けてくださっていたのだと思った。しかし、2004年に青木先生は所長を退任され、接触する機会もなくなった。

2009年に私はRIETIの内部者として研究マネジメントに携わることになった。一度青木先生の話をお聞きしたいと思い、先生の日本での滞在先だった東京財団を訪ね、最近のRIETIについての見方をお尋ねした。「最近のことは良く知らないが」と言われつつ、「以前に比べて内部の研究員が弱くなった印象がありますね」と最も急所を衝いた御指摘を頂戴した。その後、2011年にはRIETIの十周年記念セミナーで講演をしていただくことができた。当時青木先生が研究されていた「雁行形態パラダイムVer.2.0:日本、中国、韓国の人口・経済・制度の比較と連結」というタイトルだった。青木先生が7年ぶりにRIETIにいらっしゃり、御登壇いただいたこと自体に大きな意義があったと思っている。

その後は、東京財団、ADBIなどのセミナーに声をかけてくださり、時折お目にかかる機会を得た。今年の2月に久しぶりにメールがあり、拙著についてご質問をいただいた。私からの返事に対して「全面的に納得致しました。今度昼食を一緒しましょう。ご連絡します」とのメッセージ。結局、どう納得されたのか詳しく聞けないまま今日に至ってしまった。

私自身は青木先生から直接の学問的指導を受けたわけではなく、RIETIで同じ時期に一緒に仕事をさせていただいたわけでもないが、折々に多くのことを学んだ。振り返るとかなり長いけれども少し距離感のあるお付き合いだったと思う。研究者としてよりは政策実務者として接したことが多かったが、対等に扱ってくださったという印象が強い。

青木先生がRIETIに遺されたものは数知れない。さまざまな環境変化の結果、当初のRIETIから変わったところも多いが、青木先生が築かれた基礎の主要部分は今でも生きている。プロジェクト制、フェローの類型、研究成果の発信の仕方等々である。また、細かなことに見えるかも知れないが、科研費申請可能な研究機関として位置付けたこと、ディスカッション・ペーパーを経済学の論文データベースであるIDEASに登録する慣行、充実した英語・中国語のウェブサイト等々国際的な研究所として必要な仕組みは青木所長時代に形作られたものである。毀誉褒貶はあると思うが、今のRIETIがあるのが青木初代所長のおかげであることは間違いない。私は、RIETIをさらに発展させていくことが青木先生のご恩に報いることだと考えている。

2015年7月22日掲載

2015年7月22日掲載

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