夏休み特別企画:フェローが薦めるこの1冊'05

『パネルデータ分析』

鶴 光太郎顔写真

鶴 光太郎(上席研究員)

研究分野 主な関心領域:経済システム(コーポレート・ガバナンス、金融システム、雇用システム、企業組織等)及びマクロ経済を含む関連分野、経済政策の政治経済学、法と経済学

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『パネルデータ分析』北村行伸箸 岩波書店(2005)

『パネルデータ分析』表紙 個々の企業や家計といった主体を継続的に観察して記録したデータは、パネルデータと呼ばれ、最近の経済学では、実証分析で使われるデータとして完全に主流となっている。経済データとして馴染みの深いGDPなどの時系列集計データを使ったフォーマルな分析は逆に探すのが難しいくらいだ。その中で、パネルデータの分析に焦点を当てた日本語の教科書・研究書が待望されていたのだが、その初めての試みが本書である。ビジネスマンが夏休み、寝転びながら読むには少し敷居が高いかもしれないが、パネルデータについて基礎からきちんと勉強してみたい学生・研究者・政策担当者には格好の本といえる。

計量経済学の教科書というと数式の羅列で実際にその手法を使って分析をしたい者にとっては迂遠に感じることが多い。しかし、本書は教科書としてのフォ―マリティを失わないだけの必要かつ十分な数式をエレガントに提示しながら、さまざまな手法の意義や目的が直感的にもわかるよう説明に工夫をこらしており、見事だ。また、実際に計量分析を行う利用者のために、一般的な分析ソフトであるSTATAのプログラムも提示しているのは親切である。さらに、各種手法が実際に使いこなせるようになるためには、実証分析の実例から学ぶことが不可欠である。本書では、企業、家計、個人といった異なるパネルデータを使った分析が非常に丁寧に説明されている。それぞれが筆者である北村氏(一橋大学経済研究所教授)のオリジナルな研究成果であることは筆者の幅広い研究対象を物語ると共に本書を更に魅力溢れるものにしている。

最近では、政府のアンケート調査や統計作成のために得られた個票を使ったパネルデータ分析も意欲的に行われるようになっており、各種白書の分析でもパネルデータを使った分析が頻繁にみられる。パネルデータ分析が政策提言などに使われるようになったことは画期的なことだ。ただ、「パネルデータ万能主義」のような風潮があるのも事実である。パネルデータ分析でできること、できないことを十分認識することも重要である。たとえば、パネルデータの入手制約性により、最近の数年、または、いくつかの特定年のデータのみを使った分析も多い。しかし、90年代以降、日本経済は大きな制度変化の真っ只中にある。そのようなパネルデータを使った分析の結果を見ただけでは、それが経済行動パターンが大きく変化してそのような結果が得られたのか、それとも、70年代、80年代から続いてきたパターンが示されたのか定かではない。両者を区別するためには、たとえば、統一的な手法を異なる時期のパネルデータに当てはめて比較するという作業がどうしても必要である。その意味で、本書は、家計パネルデータの分析で東大の林教授が行った家計の流動性制約の分析(81-82年のデータ)を2001-2002年のデータで追試し、恒常所得に従っている家計の割合は林氏の推計よりもかなり少ないことを見出した。これは、短期的な政策効果はむしろ過去20年間で高まっている可能性を示唆するなど意義深い分析といえる。第二は、特に、ミクロのパネルデータを使った分析の政策的なインプリケーションである。たとえば、企業でも家計でもそれぞれの属性の違いに応じて別の政策を行う場合、また、同じ政策を行う場合でも、個々の経済主体の属性に応じて効果が異なることが想定されるような場合(たとえば、税制変更の家計への効果)、パネルデータを使った分析が政策評価のために是非必要となる。一方、あまりに両者の関係を強調しすぎれば、広い範囲の政策に渡り、全体の効果の底上げのために特定の主体をターゲットした政策をアプリオリに容認することにもなりかねない。その意味からも、パネルデータ分析の有用性とその政策インプリケーションは明確に区別して議論する必要があろう。本書がパネルデータ分析の有用性を一人でも多くの方々に理解していただく重要な一歩になると期待している。