夏休み特別企画:フェローが薦めるこの1冊'03

『日米韓半導体摩擦』

荒木 一郎顔写真

荒木 一郎(元上席研究員)

『日米韓半導体摩擦』大矢根聡著 有信堂 (2002)

『日米韓半導体摩擦』表紙 私が通商産業省に入ったのは、今からちょうど20年前の1983年のことである。「10年ひと昔」とすればふた昔も前のことで、当時の政策上の優先順位が現在のものと大きく異なっているとしても、別に驚くべきことではない。特に経済産業省のように、よく言えば進取の気風と柔軟な発想にあふれた(悪く言えば「変わり身の早い」)官庁にとっては、20年間も制度的記憶を維持し続けることは至難の業である。

そうはいいながら、個人的感想を述べさせていただければ、菅原道真ではないが時の改変には甚だしいものがある。私が最初に配属されたのは通商政策局であり、次いで配属されたのが機械情報産業局(現在の製造産業局)であった。当時の通商政策局にとっての最重要課題は、いうまでもなく日米貿易摩擦の処理であった。私の所属していた部署は直接の担当ではなかったが、黒田真通産審議官(当時)以下気鋭の幹部が日々米国の交渉者と丁々発止のせめぎ合いをする様を感嘆しつつ横から見ていた記憶がある。機械情報産業局では、私も半導体に関する知的財産権保護の問題を担当し、いわゆる「原局」の立場から日米貿易摩擦に関与することとなった。当時の半導体産業と言えば、大手総合電機メーカーの稼ぎ頭としても、「技術立国」日本の象徴としても、まさに日の出の勢いであった。それが米国にとって脅威と感じられたからこそ、貿易摩擦があれだけ激化したのである。それが今ではどうであろうか。通商政策全般を見渡しても、日米貿易摩擦は姿を消してしまったかのようである。たまにあるとしても、案件が牛肉の関税問題であったり、電話会社の接続料問題であったりして、経済産業省の出る幕はほとんどない。半導体産業に至っては、かつては日本のお家芸とされたDRAMの生産についてすら、日本企業の世界シェアは合計しても韓国、米国メーカーのそれに遠く及ばないような状況であって、まさに「一栄一落是春秋」という感じである。

これだけの大きな変化を目の当たりにすれば、いくら制度的記憶を重視しない経済産業省といえども、「戦史」を編纂して後の参考にしようという動きが出てきても不思議ではない。1980年代から90年代にかけての半導体産業と日本政府(とりわけ通産省)との関わりの研究は、最近はやりの「失敗学」ではないが、現在および将来の通商政策・産業政策の立案者にとって学ぶべき材料の宝庫である。たとえば、半導体貿易摩擦の処理を誤ったこと(特に悪名高い「サイドレター」問題)がその後の米国からの管理貿易要求をもたらす結果となった経緯や大企業の横並び体質が製品開発や設備投資についての判断を誤らせ、結果的に後発メーカーにシェアを奪われていくこととなった過程など、客観的に何が起こったのかを書きとどめておくだけでも意味がある。

実は、経済産業研究所の前身である通商産業研究所には歴史的資料の編纂部門があり、「商工政策史」「通商産業政策史」という大部の著作を刊行してきた実績がある。独立行政法人としての経済産業研究所の発足に当たり、中期目標に照らして研究課題の「選択と集中」を行った結果、これらの歴史編纂事業は当面の優先課題とはしないこととなったが、本当にそれでよかったのかという意見はアカデミック・アドバイザリーボード等でも表明されているところであり、再検討すべき時期に来ているのかも知れない。ただ、そこまで大がかりなことをしなくても、せめて「半導体戦史」だけでも研究所事業として立ち上げようという試みは、2001年夏頃から田中伸男副所長(当時)の下で密かに行われていたのである。ここから先は恥ずかしい告白になるが、その事業の実質的とりまとめを行うはずであったのがこの私であった。しかし、研究調整ディレクターと兼務で地道な史料編纂事業を行うことはなかなか難しく、その後田中副所長ほか研究会の主要メンバーの異動があったこともあって、結局この事業は実現することがなかった。

このことについて内心忸怩たる思いでいたところへ、昨年末、大矢根聡助教授(金沢大学)の手による本書に接したのである。私の第一印象は、「ありがたいことだ」というものであった。そこには感謝の念のみならず、字義どおり「達成しがたいことをよくもやっていただけたものだ」という気持ちも込められている。「通商交渉の政治経済学」という副題を有する本書の問題意識は、2年前に我々が有していたものと極めて近いものがある(本書冒頭の一節には「あれほど激化していた日米貿易摩擦が、ほとんど姿を消してしまった」とある)。また、本書の調査手法も我々が意図していたものと極めて近く、公表資料のほかに、関係機関の内部資料、当時の交渉担当者とのインタビューによって客観的な事実の確定に特に意が用いられている。著者自ら「長年の調査、検討の記録として、ささやかな意義をもっていると思いたい」と述べているが、ささやかどころか、我々がやろうとしてごく初期の段階で挫折した事業を一個人で、しかも膨大な資料に裏打ちされた大作として成し遂げたことはまさに驚嘆すべきである。しかも、本書全体を通じて、構成主義という新しい政治学の分析枠組みが採用されており、単なる歴史的資料ではなく、学問的研究としても優れた試みである。また、そのように筋が通った議論が展開されているので、ストーリーが分かりやすく、大変に読みやすいという特徴がある。

なお、本書は、副題にあるとおり、通商政策の切り口から半導体問題に迫っているので、産業政策的な評価という視点はあまり含まれていない。この点については、後日の研究(望むらくは経済産業研究所事業として)を待つほかはない。そこまで著者に期待するのは「隴を得て蜀を望む」というものであろう。いずれにせよ、本書は経済産業省の交渉担当者、国際政治学・国際経済学・国際経済法学の研究者、そして業界の関係者にとって広く参考とされるべき資料であり、夏休みにまとまった時間が取れる方には是非読んでいただきたいものである。