WTO紛争解決手続における非効率的違反の可能性 ―法と経済学的分析―

執筆者 清水剛  (東京大学)
発行日/NO. 2007年1月  07-J-001
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概要

本稿は、WTO 紛争解決手続をインセンティブの設計という視点から見直す試みである。WTO 紛争解決手続は紛争の解決とともに、WTO 諸協定上の義務の履行を確保するという目的を持っており、この意味でWTO紛争解決手続のWTO諸協定に対する違反を抑止するメカニズムとしての側面についても分析する必要があると考えられる。この点についてSchwarz とSykes は、関係する全ての加盟国の利益の総和を増加させるような違反、すなわち効率的違反(efficient breach)と利益の総和を減少させるような違反(非効率的違反 inefficient breach)とを区別し、WTO 紛争解決手続は効率的違反を促進し、非効率的違反を抑止するメカニズムであると捉えているが、彼らはこの点についてWTO紛争解決手続の内容に踏み込んだ分析を行っていない。

そこで、簡単なゲーム理論のモデルを導入して現在のWTO 紛争解決手続の枠組みを分析してみると、現在の枠組みでは効率的違反だけでなく非効率的違反についてもこれを抑止することができず、この意味でSchwarz とSykes が考えているようなメカニズムにはなっていないことが明らかになる。すなわち、現在のWTO 紛争解決手続の枠組みにおいては、非効率的違反を意図的に行い、もし敗訴すれば違反とされた措置を撤回・修正するという行動をとるインセンティブが存在し、かつこのようなインセンティブは国際社会による非難や報復的措置によっては低下しない。その上、WTO紛争解決手続において過去の損害に対する遡及的な賠償を認めないことがWTO諸協定の違反、特に非効率的違反のインセンティブを高めてしまう。以上のような意味で、現在の紛争解決手続は違反抑止メカニズムとしては不十分なものなのである。

このような問題に対応するためには、現在しばしば話題となっている勧告不履行時の報復的措置の強化ではなく、他の手段が必要になる。その手段としては勧告履行時の過去損害に対する金銭賠償や仮処分的措置、あるいは限定的な報復的措置などが考えられるが、いずれの手段にも問題が残っており、今後も引き続き検討していく必要がある。