ノンテクニカルサマリー

睡眠改善アプリを用いた健康経営施策が生産性に与えた影響:RCTに基づく検証

執筆者 川太 悠史 (早稲田大学)/黒田 祥子 (ファカルティフェロー)/大湾 秀雄 (ファカルティフェロー)
研究プロジェクト 働き方改革と健康経営に関する研究
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

人的資本プログラム(第五期:2020〜2023年度)
「働き方改革と健康経営に関する研究」プロジェクト

昨今、睡眠に何らかの問題を抱えている人がかなりの割合に上るといわれており、睡眠不足(sleep deprivation)や睡眠未充足(sleep deficiency)と呼ばれる状態は世界的な問題となっている。例えば、「国民生活基礎調査」(2019年 厚生労働省)によれば、日本人成人の約3割が「睡眠によって休養があまりとれていない」あるいは「まったくとれていない」と報告している。睡眠が十分にとれていないことによって、生産性が低下するとすれば経済的に大きな損失である。睡眠で十分な休息がとれていないことによる生産性の低下はどの程度で、睡眠の量や質が改善すれば生産性は向上するのだろうか。本稿はこうした問題意識の下、某製造業に勤務する約200名の従業員を対象に、3か月間の睡眠改善プログラムの効果検証を行ったものである。

これまでにも、睡眠不足や睡眠障害が、自動車事故や労働災害などの日中のパフォーマンスに深刻な影響を及ぼすことは、多くの睡眠研究が明らかにしてきた。その一方で、筆者らが認識する限り、睡眠が仕事のパフォーマンスに直接的にどの程度影響するかを分析したものは相対的に多くない。また、多くの先行研究は、眠れたから健康や生産性が改善するのか、あるいは別の要因が睡眠も健康や生産性も悪化させているのか、因果関係を特定できていないという問題を抱えている。こうしたことから、昨今ランダム化比較試験(randomized controlled trial;以下、RCT)が睡眠研究でも増加している。しかし、不眠症の患者ではなく、一般労働者を対象とした職場レベルの介入研究はまだ少ない。

また、最近はBuysee (2014)により提唱されたスリープヘルス(sleep health)の概念が注目されている。同論文では、睡眠は「病気ではない」状態となれば良しとするのではなく、今後は人々の厚生やパフォーマンスにポジティブな影響を与える睡眠の在り方を考えていくべきと主張している。

そこで本稿では、某製造業企業に勤務する約200名の従業員をランダムに、睡眠改善のプログラムに参加する従業員(以下、介入群)と参加しない従業員(以下、対照群)に振り分け、3か月間の睡眠改善のRCTを実施した。睡眠改善プログラムでは、介入群に非接触型のセンシングデバイスを支給し、3か月間の日々の睡眠データを計測して、その情報を毎朝本人に通知することで睡眠を可視化するとともに、スマートフォンのアプリを通じて行動変容を促すために睡眠改善に関するアドバイスを週ごとに行った。そのうえで分析では、介入群はコントロール群に比べて、プログラムの3か月後にスリープヘルスが確保できたのか、そしてスリープヘルスの改善によって生産性はどの程度向上したのかを検証した。

睡眠改善プログラムの結果を検証したところ、以下のような結果が得られた。まず、図1には、介入群と対照群の介入前後の睡眠改善の傾向を示した。図の縦軸はスリープヘルスの尺度であり、数値が大きくなるほど睡眠が改善していることを示している。スリープヘルスの尺度は、Buysee (2014)が心身の病気やパフォーマンスに影響を与えうる睡眠の重要項目として選択した6つ(睡眠の長さ(duration)、睡眠の満足度や質(satisfaction/quality)、日中の覚醒(alertness/sleepiness)、睡眠の効率性(efficiency)、睡眠のタイミング(timing)と規則性(regularity))を元に、介入前後の被験者の回答を用いて作成した。同図をみると、赤い棒で示した介入群のスリープヘルスがプログラム後に改善していることが認められる。

図1:睡眠改善プログラム前後のスリープヘルス尺度
図1:睡眠改善プログラム前後のスリープヘルス尺度
備考)介入群145名とコントロール群57名のスリープヘルス指標(論文中では「SH2」と表記)の平均値を示している。縦軸の数値が大きくなるほどスリープヘルスが確保できていることを示す。図中に示したp値は、プログラム前とプログラム後のそれぞれの時点における2群の有意差検定の結果を示しており、介入前は両群に統計的な有意差はなかったものの、介入後には介入群の睡眠改善が統計的に1%水準で有意性が認められることを示している。

さらに、詳細な検証を行った結果、計測期間における業務量の増加や在宅勤務日数の増加などが寝つきの悪化や中途覚醒を引き起こしている可能性が認められたものの、これらの要因を制御したうえでも、図2のスリープヘルス尺度への介入効果に表れているように、プログラム実施後の介入群に睡眠改善の効果が認められた。

次に、睡眠改善が生産性に及ぼす影響を検証したところ、図2に示したように介入群のプレゼンティイズム(生産性総合指標およびWLQ-J総合)が5%あるいは10%の有意水準で改善していることが確認された。プレゼンティイズムへの効果は、睡眠改善プログラムに真面目に取り組んだと回答したグループではさらに高く、またその効果はほぼ100%睡眠改善を通じた経路で生産性を改善したことが明らかになった。

これらの結果は、仕事や私生活の様々な変化や出来事で睡眠が悪化することは誰しもに起こりうるものの、情報技術の利活用により睡眠改善を促すことで実際に睡眠の未充足は改善され、生産性の回復が見込めることを示唆する。

図2:各種結果指標への睡眠改善プログラムの介入効果(単位は標準偏差)
図2:各種結果指標への睡眠改善プログラムの介入効果(単位は標準偏差)
備考)黒色は1%有意、斜線は5%有意、点は10%有意水準を表す(白抜きは非有意)。