ノンテクニカルサマリー

ライフサイクルにおける医療費の推移 健康リスクの持続性と医療保険の役割

執筆者 深井 太洋 (東京大学)/市村 英彦 (アリゾナ大学 / 東京大学)/北尾 早霧 (上席研究員)/御子柴 みなも (東京大学)
研究プロジェクト 人口減少下のマクロ経済・社会保障政策:企業・個人・格差のダイナミクス
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

マクロ経済と少子高齢化プログラム(第五期:2020〜2023年度)
「人口減少下のマクロ経済・社会保障政策:企業・個人・格差のダイナミクス」プロジェクト

本稿では、医療保険のレセプト情報・特定健診等情報データベース(NDB)を用いて、ライフサイクルにおける医療費リスクが個人の経済活動に与える影響と医療保険制度の役割について分析する。

各年齢における平均的な医療費や横断的な医療費の分布に着目するだけでは、生涯を通じた医療費リスクを把握することは困難だ。高額の医療費がかかる健康リスクに見舞われた場合、そうでない場合に比べて翌年以降も悪い健康状態が持続する可能性が高くなる。その一方で、健康状態の悪化は死亡確率を高めることから、生涯医療費の分析を行うには健康状態と生存確率の関係も考慮する必要がある。Fukai, et al(2021)が構築したNDBに基づく医療費パネルデータを用いて、医療費の持続性の仮定によって生涯医療費の分布がどのように異なるかをシミュレーションした。

図1および表1で示すように、横断的なデータに基づいた独立同一分布や確定的な医療費プロセスを仮定した場合に比べ、1年ないし2年にわたる医療費ショックの持続性を織り込んだマルコフ一次・二次プロセスに基づくシミュレーションでは生涯医療費の分散はより大きくなる。また、持続性を織り込むことで、分布の非対称性を示す歪度(Skewness)が高くなり、健康状態の悪化に伴う高い死亡確率を考慮したとしても、低い確率で非常に高額の生涯医療費に直面するリスクを捉えることができる。

図1 生涯医療費の確率分布(男性):M(2)およびM(1)はそれぞれマルコフ二次・一次プロセス、iidは独立同一分布を指す
図1 生涯医療費の確率分布(男性):M(2)およびM(1)はそれぞれマルコフ二次・一次プロセス、iidは独立同一分布を指す
表1 医療費プロセスの仮定による生涯医療費のモーメント:M(2)およびM(1)はそれぞれマルコフ二次・一次プロセス、iidは独立同一分布、det.はリスクのない確定的なプロセスを指す
表1 医療費プロセスの仮定による生涯医療費のモーメント:M(2)およびM(1)はそれぞれマルコフ二次・一次プロセス、iidは独立同一分布、det.はリスクのない確定的なプロセスを指す

このような医療費リスクによる個人の経済活動と厚生への影響、ならびに医療保険制度およびその他の福祉制度の効果を分析するため、本研究においてはNDBから推計された医療費プロセスを組み込んだ世代重複型モデルを構築した。ライフサイクルを通じて直面する医療費リスクを所得や予備的貯蓄によって緩和できるかどうかは、個人の属性によっても異なる。医療保険制度の役割や制度改革による影響もあらゆる家計に一様に及ぶわけではない。そのため、本研究では世代重複型モデルに、性別・スキル水準・所得・資産・婚姻の異質性を取り込み、様々なタイプの単身および既婚世帯から成るモデルを構築し、医療費リスクと医療保険制度の経済・厚生効果を定量化した。

医療費が高額化する高齢になると低下する年齢別自己負担率と、累進的な自己負担限度額を含む高額療養費制度を特徴とする医療保険制度は、家計を支出リスクから手厚く保護し、ライフサイクルにおける貯蓄行動に大きな影響を与える。医療費リスクと保険制度による影響は世帯間で大きく異なり、保険給付を引き下げた場合、高所得世帯は高い支出に備えて貯蓄を増やす一方、低所得世帯は貯蓄と消費の減少に直面することを示した。財政的な観点からは、給付引き下げによって医療費支出が抑制される一方、低所得層や継続的に悪い健康ショックを受ける世帯の貯蓄は低下するため、生活保護などの受給者数は増加することを示した。さらに、給付減による財政支出の変化を定額移転(lump-sum tax/transfer)によって均衡させる場合、総貯蓄は増加し平均的な厚生は上昇するが、低所得層・悪い健康状態にある個人への厚生効果は平均を下回る結果となった。また、保険制度改革の効果は他の福祉制度の充実度に依存し、その依存度合いも属性の異なる世帯間で異なることを示した。

急速な高齢化と社会保障費の増加に直面する日本において、医療保険制度を含む社会保障制度の見直しは避けては通れない。本研究が示すように、医療費リスクや医療保険制度改革が個人の経済活動や厚生に与える影響は一様ではない。ミクロデータを精査することによって、制度改革がとりわけ経済および健康面での弱者に与える影響を注意深く考慮する必要がある。さらに、医療保険制度改革が福祉制度への依存度に影響することが示されたように、改革を議論する際には、社会保障制度および個人間の経済的格差を含めたマクロ経済全体から分析を行うことが重要となる。