ノンテクニカルサマリー

人文社会系大学教育の分野別教育内容・方法と仕事スキル形成

執筆者 本田 由紀 (東京大学)
研究プロジェクト 労働市場制度改革
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

人的資本プログラム (第四期:2016〜2019年度)
「労働市場制度改革」プロジェクト

今年(2017年)の10月に、ツイッター上で、一部の文系大学教員間で、「ゼミって何?」というやりとりが交わされていた。「えっ、少人数で輪読するんじゃないの?」「プレゼンとか企画とかじゃないの?」「一種の所属集団では」「ああそれで就活の際のエントリーシートに“所属ゼミ”という欄があるのか」といったやりとりである。ことほどさように、「ゼミ」という言葉1つとっても、学問分野によって、あるいは大学によって、何をやっているかには違いがある。

ゼミだけではない。社会学分野では社会調査士という資格が取得できるカリキュラムを提供している大学が多く、その指定科目の中には「社会調査を実際に経験し学習する科目」、すなわちいわゆる「社会調査実習」が含まれている。科目の内容は資格を認定する社会調査協会が審査するため一定の共通性は確保されているとはいえ、実際に何をどこまでやっているかは大学によって大きく異なる。数千の本格的な社会調査を実施・分析している場合もあれば、学内の他の授業や学生の友人間などでアンケートを撒く場合、調査票を作ってみるだけの場合など、さまざまである。

このように、学問分野間でも分野内でも、大学教育のカリキュラムがどのように設計され、個々の授業で実際に何をやっているか、そして個々の学生が在学中にどのような大学教育を経験して卒業するかには、大きな違いがある。そうした大学や学生の自由度の大きさには良い面もあり、初等中等教育の学習指導要領のような硬い枠をはめてしまうことが望ましいわけではない。しかし同時に、大学教育の内実があまりにもブラックボックスであることにも問題がある。

2015年6月に、国立大学法人の第三期中期目標・中期計画に関する文部科学大臣通知が出され、その中に、「社会的要請」に応えていない文系学部の廃止・縮小を推奨するような文言があったことから、議論が巻き起こった。批判の声も大きかったことから、文科省は「あれは教員養成学部の“ゼロ免課程(教員資格を卒業要件としない課程)”のことだ」として幕引きを図ったが、実際には多くの国立大学で「地域〇〇学部」といった名称の学部への改編が進んでいる。そもそも「社会的要請」とは何か、そして文系の諸学問がそれに応えているのかいないのか、といった経験的な吟味がなされないまま、文科省も大学現場も右往左往しているように見えるというのが率直なところである。

本研究は、「役に立たない」と言われがちな文系の諸学問分野において、実際にどのような大学教育が行われているのか、そして大学教育の中身が卒業後に、特に仕事をする上で―それが政府や産業界にとって中心的な関心事であるからだ―どのような影響をもたらしているかを可能な限り把握しようとして実施された調査研究プロジェクトの結果の一部である。プロジェクトでは、同じ対象を大学3年生時点から卒業後2年目までを追跡する調査と、25〜34歳の社会人を対象とする単時点の調査とを実施した。前者は大学教育の内容を詳細に把握し、時系列的に連鎖する影響を検討するために実施した調査だが、設問があまりに詳細であったために回答負担が大きく、サンプルサイズが十分ではない。また後者は大学教育については回顧でたずねているので詳細さには限界がある。このような一長一短のデータを組み合わせ、大学教育に関しては卒業後の生活に対する授業内容のレリバンス(関連性・意義)および教育方法の双方向性という2つの軸に注目して分析を行った。表のうち、(a)と(b)の項目が前者に、(c)〜(g)の項目が後者に該当する。表中の青い数値、赤い数値の分布からだけでも、文系内部の学問分野における教育に相違があることがわかる。

表:分野別 各種授業の頻度(割)
表:分野別 各種授業の頻度
注:各列において相対的に高い値を青字、相対的に低い数値を赤字で示した。

2つのデータの分析結果からは、大学入学前・在学中・卒業後の多数の変数を統制した後でも、こうした大学教育の内容的レリバンスと方法的双方向性が、在学中に身につけたスキルに影響し、さらには卒業後の仕事スキルにも影響していることが見いだされた。

最後にもう1つだけエピソードを書いておきたい。ある大学生のことだ。彼が在学していた社会科学系の学部での教育は大教室での講義がメインで、定められた知識を覚え習得することが主目的とされていた。学生が所属することができる組織単位も落ち着ける場所もほとんどなかった。もともと活発で優秀であった彼は、えんえん続くそうした教育の中でむなしさを覚えてついていけなくなり、転学部し、移った先で元気を取り戻した。彼は転学部を決断したのでまだしも助かった例だ。総じて高い授業料を学生から徴収した上で、心を折って追い出すだけの大学教育であってよいわけがない。あるいは、いつまでも熱意やコミュニケーション能力などの雲をつかむような語彙でしか人材ニーズを語れない産業界にも呆れる。大学教育と仕事内容とを、一方的にどちらかがどちらかに合わせるというのではなく、具体的にすり合わせ落としどころを探ってゆくための、生産的な議論や検証がもっともっと必要だ。