ノンテクニカルサマリー

多角化が従業員給与に及ぼす影響:従業員交渉力の媒介効果に注目した分析

執筆者 牛島 辰男 (慶應義塾大学)
研究プロジェクト 企業成長のエンジンに関するミクロ実証分析
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

産業・企業生産性向上プログラム (第四期:2016〜2019年度)
「企業成長のエンジンに関するミクロ実証分析」プロジェクト

企業が産業の垣根を超えて成長する多角化は株主価値の低下をもたらしがちであることが、多くの研究により指摘されている。なぜ株主利益を犠牲にしても、企業は多角化するのだろうか。この問いに答えるためには、従業員はじめとする株主以外のステークホルダー(利害関係者)にとって、多角化がいかなる価値を持つのかを理解する必要がある。従業員が多角化から大きな価値を得ているのであれば、それが企業多角化の重要な誘因となっている可能性がある。本研究は、多角化が従業員給与に及ぼす効果を企業レベルデータに基づき推計することで、従業員にとっての多角化の価値を分析する。特に本研究が注目するのは、多角化の効果が従業員の交渉力(労働組合の有無)により変わる可能性である。

多角化企業は複数の産業にまたがる内部資本・労働市場を持つため、資源の再配分により外的ショックに対応する力が高い。このため、財務困窮や経営破綻に至るリスクが専業企業よりも一般的に低く、雇用の安定性は高くなる。補償賃金格差の理論によれば、競争的な労働市場においては、より安定した雇用を提供する企業は低めの賃金で従業員を確保することができる。一方、賃金が非競争的に労使の交渉で決まる場合、雇用の安定は従業員の交渉力を強め、賃金を高めるかもしれない。したがって、多角化が従業員給与に及ぼす効果は、従業員交渉力に依存して質的に異なる可能性がある。このため、労働組合の存在する企業と存在しない企業に分けて、推計を行った。

サンプルは2001〜2010年に株式公開しており、データに問題のない全ての日本企業(金融機関と金融セグメントを持つ企業を除く)である。有価証券報告書に記載されている平均従業員給与(賞与を含む)を賃金データとして用いた。多角化は事業セグメント情報により把握し、日本標準産業分類の4桁レベルで複数の事業セグメントを持つ企業を多角化企業と定義した。産業間には賃金水準の大きな違いがある。多角化企業の賃金を、事業ポートフォリオの産業構成を調整して専業企業の賃金と比較するため、事業セグメントと同じ産業の専業企業賃金の中央値をセグメント従業員数でウェイト付けしたものと実際の賃金の比である超過賃金を計測し、分析対象とした。

図:多角化が従業員給与に及ぼす効果(%)
図:多角化が従業員給与に及ぼす効果(%)

図は回帰分析により推計された多角化の効果を示している。全企業をサンプルとする推計によると、多角化企業は同じ産業の代表的な専業企業に比べて平均的に1.1%高い給与を払っている。これは多角化以外のさまざまな要因の影響をコントロールした推計値である。一方、組合の有無で企業を分けた場合、組合のない多角化企業の給与は専業企業に比べ1.2%低いという結果になるのに対し、組合のある多角化企業の給与は専業企業よりも平均的に1.9%高いと推計される。こうした多角化による賃金プレミアム(ディスカウント)は、推計方法や賃金指標を変えても、安定的に観察される。

上の結果は、企業多角化の価値が、賃金決定における交渉力と経営への影響力の強い従業員にとって特に大きいことを示している。多角化の株主にとっての価値が平均的にマイナスであるとすると、多角化をめぐる株主と従業員の利害は一致しておらず、重要なステークホルダー間に「win-lose」の状況が存在していることになる。このことの重要な含意は、企業成長を促進する政策はステークホルダーの相対的な富を変化させ、分配面での効果を持ちうるということである。また、コーポレートガバナンスや労使関係に関わる政策や制度の変更は、ステークホルダーの経営への影響力を媒介し、企業成長の方向性に影響する可能性があることも示唆している。